第二章 美しくあること

清く、正しく、美しくあることは、退屈である。品行方正を掲げる生徒たちはみんな同じような格好をして、同じような顔で笑っているのだ。

「でも、私は違う」と大きな声で言えない私だって、きっと、この学園が示す「品行方正」を薄々飲み込もうとしているんだろう。少数より多数でいるほうが気楽に生きていけることは、悲しいほどに、しっかりと理解している。

両手いっぱいにものを持っていると、新しいものはなにも持てない。

私は両手どころか片手に数えられるものしか持っていないのに、いつも大事なものが溢れてしまうのだ。両手に沢山の「大事」を抱えている人を見ると、心臓がとても痛くなる。きっと「大事」を持てる量はひとそれぞれで、私にはそれが、たった三つ分しかなかったのだろう。

友人、木の傍での昼寝、槇ちゃん……たった三つだけの「大事」を抱えて、いっぱいいっぱいになって、それ以上になにも入ってこないでいる私が、この学園まで好きになるなんて、どだい無理な話なのかもしれない。

友人たちが交わしている、あの女優さんがきれいだった、あの俳優さんが格好良かったというテレビの話に、てきとうな相槌を打つ。私も友人たちがお気に入りのドラマは見ているんだけれど、それに大した興味は湧かないでいるのだ。

漫画も小説も、あまり興味はない。それより写真が見ていたいと思うから、私が「学園をすきになること」を求めて写真部に入った理由も、そういうところにあるんだろうと思っている。

私は特に、三船美青みふねみおという人が撮ったものが好きで、その三船美青というのがどんな人物なのかといえば、人物写真を多く撮影している写真家である。

町の大きな図書館でたまたま見かけた写真集が、その三船美青のものだったときから始まったその「好き」は、しかし誰に話しても「ああ、あの人良いよね」とはならないのだから、こんなに寂しいことはない。

普通の女子高生が、写真家云々でどうこうと言っている方が、きっと少数派なのだ。わかっているけれど、納得するのはかなしい、と私はこっそり思う。少数でいるのはさみしい。多数で居たい。でも、ドラマも映画も、漫画も、小説も――どれをとっても、私の心に響きはしない。

きっと、私は、写真の「音と言葉がないところ」が好きなのだろう。音も、声も、その場の色でさえ、写真は私に想像の余地を与えてくれる。

そういう理由もあって、私は三船美青の人物写真より、彼女がたまに撮る風景写真のほうが好きだった。もちろん彼女が撮る人物写真もすごく良いのだけれど、彼女が撮る風景は、本当にきれいで、透き通っていて、とても静かなのだ。

またいつもの一日を過ごしていた私は、中庭の頭上にある渡り廊下から大木の生い茂った緑の葉を見下ろしながら、槇ちゃんの姿を探していた。木漏れ日は大木の下から見るほどには煌めいておらず、代わりにはっきりとした輪郭の黒をもって地面に落ちている。

下ばかり見ていた私のすぐ後ろを、槇ちゃんがばたばたと駆けていったので、私は慌てて振り返り「槇ちゃん」と声を掛けようとして、すぐに上げた手を下ろした。

いつものように教材をわきに抱えていた槇ちゃんは、ちらりともこちらを見ることなく、当たり前の背景のひとつとして私を捉えて視界から追い出してしまっていて、それをどうしようもなく「寂しい」と感じる。

槇ちゃんがきりきりと働いているところばかり見るけれど、ゆっくりしているところは見たことがない。それを「心配だなあ」と友人にぼやいても、友人たちはみんな声を揃えて「そりゃあ、槇先生は先生だもんね」と言うのが常であるので、先生といういきものは大変なんだなと思う。

それからすぐに「大変なんだなって、他人事だ」と思い直して、そういうのもなんだか、槇ちゃんを遠くに感じてしまった。

そもそも、槇ちゃんは私にとって、一番近くにいるわけでもなく、仲が良いわけでもない、という自覚は一応、私にもあって、でもそれを、人に伝えてしまうのは、なんだか悲しくなる。

槇ちゃんのそばにいたいと思う気持ちよりも、私の中にあるのは「このままの立ち位置」で見ていたいということで、でもきっと、そういう気持ちの在り方は、女子高生にはふさわしくないのだろう。

女子高生に「ふさわしい」って、なんだろうとも、もちろん思うのだけれど。

「槇ちゃん。私の被写体になってください」と差し出した手は、握られることはなかった。だけど、私はそれに安堵もしていたのだ。

槇ちゃんが私の被写体になってくれたとしても、もし、私がこの学園を好きになれなかったら?

私の中で私が好きな「槇ちゃん」が崩れていくのは、やっぱりこわい。

私の「好き」は存在意義のようなもので、そういうのって、私たちの年代には当たり前に在る「揺らぐ」根底なのだと、私は自覚しているのだ。

渡り廊下を渡った槇ちゃんと同じ方向に行く。その先に私の教室はないから、渡り廊下の終わり、引き戸の手前で足を止め、そこから校舎内の廊下を見つめる。

授業が始まる間際の廊下は人気がなく、しんと静まって、槇ちゃんの足跡なんてものも、勿論見えはしない。軌跡をたどるのは難しい。槇ちゃんがどの教室に行ったのか、分かっていても追いかけられないし、本当は、そんな気さえも私には湧かないでいる。

――槇ちゃんって、どんな高校生活を送ってきたのかな

――どんな友達に囲まれて、どんなことを考えて、どんな校舎で笑っていたんだろう

槇ちゃんの「お前はきっと、人に好かれるんだろうな」という言葉が、私の頭の中で再び聴こえた気がした。お前はきっと、人に好かれるんだろうな。

……人に好かれる子が、こんなところで、授業にも出らずにぼんやりと、好きなひとの背中を追いかけて、その足跡を探しているなんて、そんなこと「あるはずがない」のに。

「槇ちゃんは、残酷だ」と私は呟いて、ため息をつく。静かな廊下でも響かない私の声は、私がこの学園の「たった一人」ではなくて「大多数の一人」であることを表している気がしてしかたがない。それに感傷的になって涙が出る、なんてことはなくとも、この胸にぽっかりと空いた穴は、一体なんなのだろう。

教室に戻る気になれなくて、やっぱり木の傍で寝転がってしまおうと、渡り廊下のほうへと踵を返したとき、ふと視界の隅に誰か、制服を着ていない女性が見えて、私はそちらに気を取られた。

女性は中庭の大木の隣からこちらを見上げていて、私の視線に気が付いて手を振る。どこかで見たことがある気がしてよくよく女性を眺めて、やっと私は合点した。偶然にも、以前に、似ている顔写真を見たことがあったのである。

いや、でも、そんなわけがないな、と首を振って、とりあえず彼女がこちらにいまだ手を振っているので、私の方も小さく振り返す。

下りておいでというジェスチャーをされて、私のことかと私が自分を指さすのを見て、彼女が何度も頷いたので、私も慌てて中庭に下りる。

「なにか御用ですか?」と私が彼女に近づいて、第一声にそう言うと、彼女はにっこりと笑った。

七分丈のシンプルなトップスに、タイトなリブスカートを履いて、襟足の長いミディアムのショートヘアは染められたような明るい茶色をしている。釣りあがった猫目に、赤い口紅が良く似合っていて、綺麗だけどなんだか派手なひとだなあ、と私がまじまじ観察していると、そのひとは私に「名前は?」と目を細めたのだった。

「二宮空子です」

「空子ちゃんか、よろしくね。あ、そうだ、空子ちゃん。職員室ってどこかわかる?」

落ち着いた声でそう言う彼女に、私は「そこです。そこから校舎に入れるので、角を……」と職員室の場所を教えた。

槇ちゃんと同じくらいの年齢だろうかと彼女の華奢な背中を見送って思い、誰もいなくなった中庭、木の傍にいつものように座り込む。それから十分後に派手な笑い声が近くで聴こえて、私はうたた寝から飛び起きた。

視界に女性の影が落ちていたから、目を擦って顔を上げてみたら、さっきの女性がこちらを覗き込んで「サボり?」と面白いものを見つけたというような様子で声をかけてくる。

「ねえ、君の写真を撮っても良い?」

彼女はそう言い終わるより前に、懐から名刺を取り出して、私に手渡した。その名刺を見るよりはやく、私は、彼女が言い出した言葉に対して、彼女の顔を疑わしくじっと見る。

彼女は笑顔のままこちらに視線をそそいでおり、私は「……えーっと……」とそんな彼女への対応に困りながら、もらった名刺に目を落とした。

その名刺は、綺麗な写真が薄く背景に印刷してあり、金の文字で名前が大きく記されている。私にとってその名前は興味を引くものだったので、ついつい指で文字をなぞると、そこだけ少し彫られたような印刷をしているのが分かった。

三船美青、と何度も読み返し「同姓同名なのか、すごい偶然だなあ」と彼女の顔と名刺の名前を見比べる。検索結果に載っている――以前見た、彼女と似ている顔写真というのが、インターネットの検索で見た、三船美青の顔写真だったのである――写真にも似ている気はするけれど、そんな偶然、あるわけが……。

彼女がその間にも持っていたバッグから一眼レフの立派なカメラを取り出して「ね、いい?」と顔を綻ばせているので、私は恐る恐る「写真家の、三船美青? 人物写真の……」と問いかけた。

彼女は一瞬ぽかんとしていたけれど、その頬がみるみるうちに薔薇色に色づき、彼女が瞳を輝かせて「私を知っているの?」というので、私は一度だけ頷く。

三船美青は、風景や動物の写真よりも、本当は人物の写真で有名なひとなのだ。だから敢えて、私が好きな「風景写真の」ではなく「人物写真の?」と訊ねたのだけれど、彼女の反応を見るに、本物の三船美青であるらしい。

こんな偶然、すごい! とはしゃぐ気持ちと、なんだかそうするのが恥ずかしい気持ちに挟まれて、頭の中がぐるぐるとする。

彼女は私の顔をまじまじと見て「嬉しいね、こんなにかわいい子が私を知っているなんて」と笑ったので、私はなんと返して良いかわからなくて「写真が好きなんです」とだけ言ったのだけれど、それが三船さんには好印象であったらしく「写真が好き? いいねえ、それ。ね、私の写真も好きかな?」と屈んで、立てた膝に両手で頬杖をつき、人懐こくこちらを覗き込んできた。

「三船さんの写真なら、風景写真のほうが好きです」と、三船さんがまったくこちらを警戒していないことに流されて、私もいつものように笑って答える。三船さんは「風景写真」とどんぐりのように目を丸くして繰り返し「それは意外」とにっかり笑う。

「静かで、色も音も、空間も想像できる写真が好きなんです。だから、声が聴こえる人物写真より、音だけの風景写真が良い」

私の言葉も、意外なものだったらしく、三船さんはふむふむと頷き「面白いことをいうね」と笑っているので、私は「おもしろい?」とおなじように朗らかに返す。三船さんは三度も頷いて「面白いよ! 空子ちゃんだったね、名前。覚えておこう」

「ねえ、私、二週間ほどはここの校舎を撮りにくるからさ、また相手して。もしかして、空子ちゃんっていつもこの木の下に居たりする?」

三船さんが、空一面に伸びた大木の緑を指さす。私は「いると思います」と返して、ちょっと迷ったけれど、秘密のはなしをするかのように声を潜めて「……私の好きな場所だから」と付け足し、微笑んだ。

三船さんは「そっか! 良いね」と言って「ここに寝転んでいる空子ちゃん、次に会ったときには絶対に撮るから」と冗談めかして予告してから「じゃあね、また」と手を振って去っていく。

三船さんが去っていくのを見送ってから、腕時計で時間を確かめ、時刻がまだ三時間目の途中であったことと、こんなに心地の良い時間はこの場所で寝転んでいたいと思ったから、私はさっそく伸びをして、木の傍に寝そべったのだった。

「槇ちゃん」と、槇ちゃんらしき人影に向かって、大木の下から大きく手を振る。槇ちゃん――それは私の勘通りに槇ちゃんだった――は誰か、この学園の生徒ではない女性と共に中庭にやってくると、ぶんぶん両手を振るこちらにやっと気が付いて、一瞬目を丸くした後、すぐにちょっと嫌そうな顔になった。それでも「二宮」と私の名を呼んでくれるところが、槇ちゃんの良いところなのだ。

「槇ちゃん……と、三船さん?」

私は槇ちゃんのそばにいた女性の正体に気が付いて、驚いてしまう。三船さんは槇ちゃんに注いでいた視線をこちらに移して、三船さんのほうも「あれ、空子ちゃんだ」とびっくりしたような表情である。

槇ちゃんと三船さんの反応が違う点といえば、私の出現に「迷惑そうであるか」「嬉しそうであるか」だった。槇ちゃんは前者で、三船さんは後者だ。かなしいことに。

三船さんが面白そうに槇ちゃんの顔を見上げて「槇ちゃんって呼ばれているの、槇くん」というと、槇ちゃんはため息をつき「勝手に呼んでいるんだよ……。二宮、またサボっているのか?」と私のほうに視線を投げたので、私は首を傾げて「いいでしょう、ね、槇ちゃん」と笑ってみせる。

「よくないからな」と槇ちゃんが眉を寄せたから、ますます声を上げて笑ってしまう。

「槇くんと仲良しなんだね、空子ちゃん」

三船さんはそう槇ちゃんをからかうように言うと、槇ちゃんと私の間に体をいれ、くるりとこちらを振り向き、私がその三船さんの行動に疑問に思う間もなく私の腕を取って「空子ちゃん、ちょっとおはなししよう」

驚いて私が「へ?」と目を丸くするうちに、あれよあれよと三船さんは私を引っ張って中庭の木の下から槇ちゃんと離れた校舎の裏に、私を連れ去ってしまった。

校舎裏は人気が少なく、左手に煉瓦が敷き詰められたちいさな坂が伸びていて、そこから下におりればグラウンドに出るようになっている。私たちは坂を下りずに、右手にある校舎の裏側に立っていた。

三船さんの顔を、きらきらと綺麗な光が照らしている。三船さんを綺麗だと思うのは、たぶん顔の造形うんぬんではなく、本人の雰囲気というか、印象からだろう、と私は彼女の一挙一動を観察していた。

赤い唇がたのしげに歪むさま、茶髪を撫でる細い指先も、大人っぽい猫目も――三船さんはきれいだ、と私は微笑む。

「ね、空子ちゃん。槇くんのことがすきなの?」

ぼうっとしていた私の耳を掠った三船さんの言葉が、私の意識をぼんやりと浮上させる。私は目をぱちくりとして、数秒フリーズしてから「……んん?」と間抜けな声を出したのだった。

私の反応に、三船さんは「あれ、はずれだ」と至極残念そうに腰に手を当て、前かがみだった腰を伸ばした。

「まあ、槇ちゃんのことは……すきです」

私の返答に、三船さんは眉間の皺を揉んで「そういう意味のすきじゃないんだけどなあ。これは、残念」と首を傾けている。

「まあいいや。槇くんのどういうところがすきなの?」

「えっと……三船さんと槇ちゃん、知り合いなんですか?」

私が問いに問いを返すと、三船さんはきょとんとしたあと「ああ! そうだよね。そうそう、私と槇くんは、勿論こことは違うところなんだけど……高校の同級生なの。そのつてでね、この校舎を撮影する許可を貰っちゃったんだ。まあ、そもそも同じ学校だった間には、槇くんと交流はなかったんだけど」と説明し「槇くん、すごく綺麗な高校生だったよ。いまもあんまり変わってなくって、なんだか嬉しくて笑っちゃった。ね、空子ちゃんはどう思う?」と、その勢いのまま私に尋ねて言葉を切ったので、私はやや迷ったけれどとりあえず「どうって?」と当たり前の疑問を投げたのだった。

「槇くんを、写真に撮ってみたいと思わない?」

三船さんの、屈託ない言葉に、私は咄嗟に言葉を失くした。

――槇ちゃんを、撮りたい?

「だめ!」

気が付くと、私は三船さん向かってそう鋭く叫び「槇ちゃんは、私のかみさまなの、私が槇ちゃんを撮るんだから……!」と小さな子どもみたいなことを言ってしまっていて、途端にものすごく自分の発言が恥ずかしくなる。

三船さんは、私が顔を真っ赤にしてあたふたと謝っている様子までを、しばらく呆気に取られてみていたけれど、なぜか「……ふふっ」と破顔したのだった。

「かわいいねえ、そうか、そうかあ」

三船さんはそう呟いたあとに「うん、君は良い写真家になるよ」と私をぎゅっと抱きしめた。高価そうな化粧品の匂いと一緒に、ブランドもののような香水の香りがする。

「……槇くんは、君の神様なんだね」

三船さんが、秘密ごとのようにひそやかに「私にとっても、神様みたいな人に見えるよ。なんでだろうね。性別を感じない美しさみたいなものが、槇くんのうつくしさなんだろうなって思う」と囁いた声が、私の耳を擦って消える。三船さんの腕が離れたあとに、私は縋るように腕を伸ばしそうになって、すぐにやめた。

――この人は、きっと怪物だ

ふと頭の片隅に、そんな言葉が浮かぶ。三船さんが「槇くんは、きっと本当に綺麗な人なんだろうね」「きっと彼は、写真には撮らせてくれないんだろうなあ」と優しく口元を歪めて笑うのを、私はまっすぐ見つめていた。

三船さんの言葉が、頭の中でぐるぐるとまわっている。槇ちゃんのきれいなところは、性別を感じないところである、というのと、きっと槇ちゃんは写真を撮らせてくれないだろう、という呟きの意味を、私は家に帰ってからも、ずっと考えている。

朝になり、いつも通りの顔をして登校する。学園は今日も女の子たちでとても賑やかで、朝の挨拶をする楽しげな声が周囲をいきかって、そういった喧騒からすこし離れた職員室の窓から、槇ちゃんの姿が見えた。

職員の朝礼前の時間、職員室は静かで、窓際のいつもの席に座った、槇ちゃんの真剣な横顔が見える。私は窓を軽く叩いて、槇ちゃんがこちらを見たので「おはよう」と、声のない、口を開け閉めするだけの挨拶をする。

槇ちゃんが窓を開けて「おはよう、二宮」と不愛想に返したその表情をまじまじと眺めて、三船さんが言っていた「性別のなさ」を探してみたけれど、槇ちゃんはやっぱり、声も男性の低さがあるし、体型も華奢とはいえ女性らしいとは言えそうにない。

ああ、でも、可愛いポロシャツとグレーのスラックスは、どちらかというと中性的ではあるかもしれない。

「なんだ?」と槇ちゃんが訝しく首を傾げたので、私は「ううん」と首を振って「そのポロシャツ、かわいいなって」と笑い返した。

「ああ、ありがとう」

「その胸の刺繍、可愛くていいねえ」

そう私が指をさした刺繍を引っ張って確かめている様子の槇ちゃんが、なんだかおもしろくてくすくす声を漏らして笑うと、槇ちゃんがこちらを見て「良いだろ。結構高かったんだ」と珍しく口角を上げた。

「槇ちゃん、洋服が好きなの?」と私が尋ねると、槇ちゃんは「ううん……」と何故かちょっとだけ唸って「まあ、一応な……いちおう」と恥ずかしそうに返事をしたので「これはちょっとだけ、いつもと様子が違うぞ」と私は勘付き、眉をあげてにやにや笑いを浮かべる。

「今日の槇ちゃん、話しやすいね」

私がからかうと、槇ちゃんが「いつもが話しにくいみたいな言い方をするんじゃない」と眉をひそめ困ったような顔をしたので「話しにくいっていうか、とっつきにくいって言われてるよ」とついそんなことを言ってしまって、私は「あ」と余計なことを言った口をおさえた。

そんな私の言葉に、槇ちゃんが「とっつきにくいってな……」と脱力している。

「とっつきやすくはしてないから、良いんだよ。生徒に友達扱いされても、仕方がないだろう」

私が「そうかな?」と本気で不思議に思っていると、槇ちゃんは「そうだよ。そうだろう」と不思議に思っている側の私に強い調子で頷くよう促してくるので「わかんない。そうかなあ」とわざと目を逸らす。

槇ちゃんは私があえてそういう風な反応をしたことがわかったようで、意地悪く目を細めている。

私は「ねえ槇ちゃん」と槇ちゃんを呼び「槇ちゃんって、高校生のとき、どんなだった?」と言葉を次いだ。槇ちゃんは虚を突かれたような顔をして「どんなって」と問い返してくる。

「友達とかさ、自分がどんな高校生だったかとか」と私は繰り返し問いかけて「槇ちゃん、すごく綺麗だったんでしょう」と三船さんが言っていたのを思い出して、言葉をつぎ足す。

私の言った「すごく綺麗だった」という話に対して、槇ちゃんは本当に驚いたようで「すごく綺麗?」とおうむ返し「三船さんが言っていたのか?」

私が頷くと、槇ちゃんは顎に手を当てながら「あの人が、そんなことを……やっぱり変わっているな」

「ありがとうでも、伝えておく。二宮、教室に戻れ。そろそろ予鈴が鳴るぞ」

そう槇ちゃんが言った瞬間に、本当に予鈴が校舎に鳴り響き、あたりを見回すと生徒の姿もまばらであったので、私は慌てて「本当だ! 槇ちゃん、またあとでね」と手を振って教室に駆け戻ったあと、机に着いてから「あれ? うまいこと流されたような」と、それに気が付いたのだった。

今日は珍しく授業にでていたけれど、やっぱり授業というのはとても退屈で、私はすぐに意識を手放していたらしい。気が付くと、授業を終えた先生が教室を出ていくところだった。

授業中は静かだった室内が、ざわざわと活気を取り戻し、きゃあきゃあと甲高い笑い声が散らばったり、まとまったり、まるで声の波が上下しているかのようである。

次の授業も、またその次の授業も終えて、昼休みになってから、やっと大好きな木の傍で寝転がり、休み時間の中庭の騒がしさのなか、私は「疲れたなあ」と思いながら目をつぶる。

「空子ちゃん」と、大人の声が名を呼んだから、私は目を開けた。三船さんがこちらを覗き込んでいて、私は目を擦って起き上がった。

三船さんは私の隣に座り「今日はちゃんと授業を受けてたのかな? えらい」と鈴を転がしたような声で笑う。

「私が槇くんを綺麗だって言ったこと、槇くんに伝えたんだね」と三船さんが言って、私は頷く。三船さんは「空子ちゃんも、随分前に、槇くんのこと神様だって、本人に伝えてたんだねえ。槇くん、そのはなしもしてたよ」

三船さんが次いで「偶像崇拝って本人は言っていたけど、ちょっと照れてた、あれは」と腕を組んで言うので、私は声を漏らして笑ってしまう。

三船さんは「槇くんはね、本当に、変わってないよ」と懐かしそうに目を細め「まあ、私は遠くから見てるだけだったんだけど、彼って高校時代、髪が他の男の子たちより長くって、華奢で……でも話してみたら、いかにも普通の男子って感じでさ。なんだか不思議だなあって、思ってたんだ」

「いかにも普通の男子なのに、なんか、こう、感覚が違うっていうのか……友達とつるんでいるのも、女の子といるところも見たことが無くて、ずっと一人でいるみたいだった。でもなんだか、それで良いんだってしっかり背筋伸ばしているところが、すごくきれいで」

三船さんが、やっと私に聴こえるくらいの小さな声で話す槇ちゃんの高校時代に、私は耳を傾けている。

三船さんの声は優しくてやわらかで、このひとはもしかして、槇ちゃんのことが好きだったのだろうか、なんて妙な想像が浮かんでくる。

でも、それは「妙な」ではないような気がするのは、何故なんだろう。あまりにも優しい、愛しい記憶をたぐりよせる様子で、三船さんが話しているからだろうか。

「槇くんは、あの頃の私にとっても、きっとかみさまだったよ」

「空子ちゃんと私は、おんなじなんだろうな」と笑った彼女の笑顔があんまりにもきれいで、私はついみとれてしまった。

放課後、槇ちゃんのいる職員室の窓に寄り道する。槇ちゃんはやっぱりいつもの机に座って仕事をしていて、私は朝したのとおなじように、机の傍の窓を軽く叩いた。槇ちゃんは顔を上げ「なんだよ。もう下校時間だろう」と窓を開けて言う。

「ねえ、槇ちゃん」と私が名を呼ぶと、槇ちゃんもいつものように「なんだ」と訊き返してくれる。私は「あのね」と言って「槇ちゃんを、写真に撮りたいんだ」

やや、間があった。いつもだったらすぐに窓を閉めてしまうくせに、槇ちゃんは黙り込んで、私の目をじっと見据えるように覗き込んでいる。私は「あのね」と再び言った。頼りなく、小さな声になってしまった――「槇ちゃんを写真に撮って、この学園に飾れたら、この学園のこと、すきになれそうなんだ」

「だから、写真を撮らせてほしい」

槇ちゃんは「勝手に撮ればいいのに」とは、絶対に言わない。それがなぜかわからないけれど、それを言えばもちろん、勝手に撮れば良いのに……私はどうしても、勝手に撮るのは嫌で、槇ちゃんにちゃんと許可を貰って、きちんとした写真が撮りたかったのだった。

もしかして、槇ちゃんも、それをしっかりと分かっているのかもしれない。

「槇ちゃんはおとなだから、きっとそうだろうな」と私もやっとそれに気が付いた。

私は「槇ちゃん」と槇ちゃんを呼んで「私はね、この学園のこと、好きじゃないんだ。綺麗だけど、なんだか綺麗すぎて、理想を押し付けられているような気がするから」

「でもね、この学園の先生なのに、槇ちゃんのことは本当に綺麗だなって思うんだ。だから、この学園にいて、いつもみたいに背筋をぴんと伸ばしている槇ちゃんを撮って、この学園に飾ったのを見たときに、私はきっと、初めてこの場所を認められるんだとおもう」

槇ちゃんは笑わない。彼はまたたっぷりの間を置いて、やっと「だから、俺が神様?」とゆっくり尋ねる。

「そうかもしれない」と返した私に、槇ちゃんは今度はすぐに「違うよ」と返事をする。

槇ちゃんはふたたび、確かめるように「違う」と言って「俺には、お前たちのほうがかみさまに見える」

「俺が持ってないものを持っている、二宮のほうがきっと、神様みたいだ」

「槇ちゃんにないもの?」

槇ちゃんは私の問いかけに「そう」と頷いて「もう暗くなるぞ、早く帰れ」と窓を閉めようとしたので、私は手を伸ばすよりはやく「待って」と言葉を投げ、その私の声に、槇ちゃんが窓を閉める手を止める。

「槇ちゃん、逃げているでしょう」

私がそう言うと、槇ちゃんはぴたりと一瞬、確かに呼吸を止めたようだった。

「そうだよ」

そう言って、今度こそ槇ちゃんは窓をぴたりと閉めてしまう。槇ちゃんはずるい、と私は勢いよく窓を叩こうとしてしまった手を、ゆるゆると下ろす。槇ちゃんは、ずるい……大人は、狡い。

「私は、逃げなかったよ」

「私は、正面からぶつかったんだよ」と呟いたら、目頭が熱くなってしまった。

こぼれそうになった涙を拭っていたから、槇ちゃんの口元が、声もなく「だからお前がうらやましいんだよ」と動いたことに、気が付くことができなかった。

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