アネモネ・アルペジオ

なづ

第一章 真面目であること

この学園は嫌い。

義務付けられた真っ黒のタイツも、まじめが美徳の校風も、タイツとお揃いのつもりなのか、清楚なだけの黒いワンピースも、なにもかもが気にさわる。

「二宮」と、どこかから名前を呼ばれている。木漏れ日を浴びて、気持ちが良いまどろみに身を預けている私を、誰かが――十中八九、その正体はわかっているけれど――遠くから呼んでいた。

そばに放置していた学校の備品である一眼レフのデジタルカメラを手元に寄せて、声の持ち主が私のもとに到着するのを、目を閉じたまま待つ。彼は「二宮はどこだ」とその声を荒げていて、でも、そんな声ですら心地よいと思うことは、心底不思議だった。

「空子ならあっちにいましたよ」

「ありがとう」

彼が私の居場所を突き止めたところで、重たい体を起き上がらせる。目を開けると一番に、日を浴びた大きな樹が視界に入ってくるこの場所での昼寝が、私がこの学園で気に入っている数少ないもののひとつだった。気に入っているものは大雑把に分けてみっつだけあって、ひとつはこの場所、ふたつめは友達、みっつめは――

二宮空子にのみやそらこ!」と彼が特大の声を上げたのと、私が彼をいつものように「槇ちゃん」と呼んだのは同時だった。彼は胸いっぱいに息を吸い「何回言えば授業に出るんだ、お前は! それにこんなところで寝るな!」と怒涛の勢いで言った後、一際厳しい声で「はしたない!」と続ける。

それに対する私の返事は、まぬけなことに手元に寄せたカメラの存在も忘れて、これである――「はしたないってなに?」

槇ちゃんがはああと深いため息をついたことまで身振り手振りで話す私のことを、友人たちがきゃあきゃあと笑っている。やっと場の盛り上がりが落ち着いてから、そのなかでも一番大人びている子に「はしたないって、結局どういうことだと思う?」と訊ねてみると、彼女はちょっと目を丸くして、それからふと考えるような素振を見せ「……まじめじゃない、とか……?」と曖昧なことを言った。

それが答えとしてあっているかはどうでもよくって、でも私には、その「まじめじゃない」という彼女の解答が、なんだか印象に残ったのだった。

「まじめねえ」と口元に手を当ててちいさく溢して、それから私はその呟きごと、そのはなしも、槇ちゃんの発した「はしたない」も忘れてしまおうと、けらけら笑い転げて、なにもかもを曖昧にしたのだった。

槇ちゃんは、槇由美まきよしみというらしい。女性らしい顔立ちをした、名前の漢字もこれまた女の子みたいな先生だけれど、性別はれっきとした男性である。

いつもポロシャツだけど、なんでかどこか可愛いと思ってしまうようなシャツを選んで着ていて、ボトムはいつだってシャツに合わせた色のスラックス。

短い茶髪は染めたものではない、というのは本人談で、でもだからこそ「槇先生も茶髪なんだし、私も地毛です」と言い張る生徒も出てきている。

前髪がちょっと跳ねていて、でも冴えないというより、槇ちゃんの外見は生徒たちによって「かわいい」と「カッコいい」のなかまに分類されている。ちょっと見目の整った若い男性だから、こんな真面目と清楚を掲げた窮屈な女学園では、やっぱり注目されてしまうのだろう。

放課後、二年通ってすっかりおなじみになってしまった写真部の部室で、部長が私の前に仁王立ちをして「空子、なにを撮るかはきまった?」といつもの質問をしてくる。それもおなじみだなあなんて思っている私の鼻っ面をぴんと指さして、部長は「きいてる?」と眉を吊り上げる。

「きいてる」

「二年生の文化祭が最後なんだよ。まだ時間はあるけど、空子は一枚にすごく時間をかけるでしょう」

「大丈夫だよ、いくら私が時間をかけるっていったって、文化祭は九月……」と背伸びをした私に、部長は低い声で「まだ槇先生を?」と嫌な核心を突いてくる。

「槇ちゃんはねえ、たぶんだめだねえ……」

私がそう目を細めたので、部長は溜息をはいて「でしょうねえ」と私につられたような口調で語尾を伸ばした。机の天板に腕を伸ばして窓の方を見れば、夕日が室内に、コントラストの強い、長い影を落としている。

――この学園は、きらいだ

――でも、この学園は、すごくきれい

そう。この学園は、ばかみたいにきれいなのだ。どこもかしこも、なにもかも。

黒い飾り鉄柵門も、その先に続く煉瓦の道も、青々と茂った中庭の木々や花壇の花々も、中庭の中心で枝を伸ばす大きな樹が浴びる木漏れ日だってきらきらしている。大嫌いな黒いだけの制服も女の子をしなやかに見せていて、この洋風の校舎には、黒いタイツもお嬢様らしくて良いのだとは思う。

でも私はきらいなのだ。きれいなものを素直にきれいだと思うのはすきだけれど、この学園のすべては「女の子を象徴化している」というのか、大人の理想を押し付けている気がしてしまう。

だから私は写真部に入ったのだ。そうすればすこしは、この学園をうつくしく思ってしまう、流されやすい自分や、当たり前にそれを受け入れる周囲を、心の底から肯定できるのではないかと思ったから。

でも、写真部にいられるリミットの「二年半」に足をかけた五月の半ば、私はいまだに大きな声で「綺麗なこの場所が好き」とは言えないでいる。風景写真や制服を着た友人たちの写真を撮ることで、大多数のいう「うつくしい」を肯定できるのではないか、という私の小さな思惑は、いまだ叶う予感すらしないままに。

――槇ちゃんを撮りたい、と思ったのは、そういえばなぜだったんだろう

不真面目で、いつも木の傍で寝転がっているような私を探しに来てくれる、人に好かれる先生。たったそれだけだったはずの槇ちゃんが、慌てながらでも怒りながらでも、いつだって私を探してくれることを、この学園での数少ない好きなもののひとつに数えてしまうようになったのは、なぜ?

わからないけれど「もしかしたら、槇ちゃんもすごくうつくしいひとなのでは」と、私はある日唐突に思ったのだ。

なぜだか、どうしても、昼間の陽気を浴びながら目を細めていたときに映る、こちらに走り寄る槇ちゃんの姿も、教壇に立つ槇ちゃんのぴんと伸びた背筋も、よれた部分のない真新しそうなポロシャツとスラックスも――なんだかそんなものたちを、いましかない尊いものに、私は感じているのである。

いつものようにカメラを持って、中庭に下りる。まわりの子たちがおしゃれだと口を揃える校舎の真ん中であるここは、吹き抜けの廊下が頭上に伸びて、東校舎と西校舎を繋いでいる。その廊下を通り過ぎていく学生たちは、みんなお揃いの黒い袖なしのワンピースから、すこし膨らんだ長袖の白シャツをのぞかせていた。

きれいなんだけどねえ、と言葉に出そうとして、すぐに飲み込む。おなじような服、おなじような髪型、おなじような笑い声。高校生はたいくつだ、と私はこっそり思っている。

「槇ちゃんが撮りたいなあ」

一度、馬鹿みたいに真面目な顔をした槇ちゃんを、こっそり写真に収めたことがあった。一階の職員室、窓の傍が槇ちゃんの場所で、そこで書類やらなんやらを整理している様子の槇ちゃんを見て、いたずら心で一枚だけ撮ったのだ。窓はすこしだけ開かれていて、槇ちゃんはその小さな隙間から、シャッター音に気が付いて不思議そうにこちらを見た。

カメラを向ける私に槇ちゃんは、なんだかとても複雑な顔をして、いつものように怒鳴ることも、笑うこともせず、ただ数秒じっとこちらを見つめてから、小さな声でなにかを呟き、窓と一緒にカーテンまでも閉めてしまったのだった。

そのときに撮った、たった一枚の写真を、私は部長と顧問の先生に頼んで、自分の家に持って帰っていた。顧問の先生は「よく撮れているから、槇先生に許可を貰って、部室にでも飾れば良い」と言っていたけれど、私はなぜだか、それはしたくないと思ってしまったのだ。

自室の壁に貼られた一枚の槇ちゃんの写真は、学園でよくある光景で、でも一枚の絵画みたいに整っている。槇ちゃんがそれなりに格好いいのは知っていても、写真のなかの槇ちゃんは、別格に整って、きれいな「なにか」だった。このひとはきっとにんげんではない、とその日のベッドのなかで考えてから「いやそんなはずがないな、槇ちゃんはにんげんだ」とまぬけな私は寝返りを打ち、その日の記憶はそこで途切れている。

槇ちゃんのことを綺麗だと思ったのは、もしかしたらあの写真が原因で、理由なのかもしれない。

あの学園にいる槇ちゃんを撮ることができたら、それをあの学園に飾れたら――そうすれば、きっと私はあの学園を肯定できる。すきだと言える。そんな根拠のない自信、の芽吹きのようなものを、きっと私はうっすらと感じていて、だからこそ、槇ちゃんの姿を目で追いかけてため息をついているのかもしれない。

生徒指導の先生に呼びだされ、日頃の態度云々をとやかく言われた後、いつものように「もっと真面目にできないのか」と言われて、つい頬を膨らませる。体育館の端っこに設けられた狭い生徒指導室に充満する煙草の匂いと、ヤニがこびりついたような先生の不健康な歯を見ていると、なんだかここにあるものは、ますますつまらないなと思う。

「まじめってなんですか」

心の声が口をついて出てしまう。先生の眉が跳ねたせいか、私のなかで「ああまただ、また間違えた」と、この学園のものがまたひとつ、黒く塗りつぶされていくのだ。

槇ちゃんに会いたいな、と、反省文のために持たされた作文用紙を机の下で広げて思う。

さすがに、先生に怒られた今日くらいは授業に出るつもりだったから、教室にはいたものの、なんだか騒めく教室も色あせ、友人たちからも遠巻きにされているような気がした。もちろん、私が怒られて帰ってくることなんて、私の友達からすれば「よくあること」だから、こんな昼時の憂鬱だって、勘違いのようなものなんだけれど。

「空子、また反省文?」と友達が私の顔を覗き込むので、私は反省文の作文用紙を机の中に突っ込んでしまって、机の天板に体を伸ばし「そだよ」と言う。それからそのままちょっと上体を起き上がらせ、頬杖をついて窓の方を見る。グラウンドに槇ちゃんの姿はない。当たり前だ。

友達が笑いながら「反省文って、何回で停学だったっけ」と訊いても、私は「わかんない。そもそも数えてない」としか答えられず、その私の返し方に彼女は困ったように笑っている。

「あんまり不真面目だと、槇先生に嫌われちゃうよ」

彼女の何気ない一言に、ぴくりと眉が跳ねる。頬杖をついたまま彼女をちらりと見て、それから立ち上がった。急に様子を変えた私に、友人は当たり前にびっくりしている――「まじめって、なに」

ひやりと冷えた声だった。我ながら、らしくない、と思うけど、そういうのもきっと私らしいのだとも思う。……この学園で生活するほどにつきまとう「真面目」と「清楚」は、本当に頭にくるのだ。

「まじめってなに? そういうのに括られているの、面倒くさくない?」

吐き捨てて教室から出ていく。教室内のざわめきが静かになった気がしたけれど、きっとそんなのただの気のせいで、この狭いくせに大きな学園のなかでは、私と彼女のふたりの困惑なんてものじゃ、波紋すら作ることができないのだ。

不貞腐れてまたいつもの定位置、大木のそばに寝転がって空を仰いでも、ついていないことに、今日はあまり晴れておらず、空はどんよりと曇っていて、どこか肌寒い。カーディガンを羽織ってくればよかったなあと思っても、あんな風に言い捨ててしまった私では、友人のいる教室に今更のこのこと戻ることもできない。

「嫌な日」と口の中で呟いて、片腕で顔を覆ってしまう。眠ってしまおう。はしたなくてもいい、と槇ちゃんが以前私に投げた言葉を拾い上げて、そういえばあの言葉はなんだったんだろうと再び考える。ポケットからスマホを出して検索してみて、その意味に唖然とした。

「品がない、嗜みがない……」と検索結果を読みながら、ふふと渇いた笑いが漏れる。

「なるほど」と声に出しては見たものの、でもこれだって、おおまかにいえば「不真面目」に似ている気がしてますます面白くなかった。ここの人たちは本当に、皆してこうなんだな、とうざったくなっていく。そんなぬかるみの感傷から、男の人の声が「二宮」と私を呼び戻してくれる。

「……槇ちゃん」

「またサボっているのか」

お説教をしてやろうと言わんばかりに息を吸った槇ちゃんは、授業の前らしく教材を脇に抱えている。いつも通りのお洒落なポロシャツにスラックス、跳ねた前髪。

私は「ねえ、槇ちゃん」と彼を呼んだ。お説教をいうのをやめて、こちらの言葉を待ってくれている槇ちゃんは、きっと優しいひとなんだろう、とぼんやり思う。思っている間に槇ちゃんが「なんだ」と訊ね返したので、私は槇ちゃんの目を見た。きらきらと光を浴びる、綺麗な目だ。

「はしたないって、不真面目ってこと?」

槇ちゃんが驚いた顔をする。それから彼はやや考えて「不真面目……いや、どちらかというとだらしない、かな」と唸っている。

「それで」と彼は追従した。

「それで、それがどうかしたのか」と槇ちゃんが問い返したから、私は「槇ちゃんが私にはしたないって言ったんだよ」と言おうとして、でもそんなの、きっと何の意味もないと気が付いてしまう。

「なんでもない。つまんないなって」

そうそっぽを向いた私の前に屈みこんで、槇ちゃんは真剣な声で「どうかしたのか? なにかあったのか」と言った。でも、私は「なにもないよ」とぱっと笑って切り返したのだった。

曇り空からぽたりぽたりと雨が降り始めたようで、私の頬に落ちた水滴が重力に負けて滑って落ちていく。襟元を濡らしたそれを「いやだなあ」と呟いて、濡れてできた染みを見ようと襟元を軽く引っ張ってみる。槇ちゃんはそんな私をじっと見ている。

槇ちゃんが無言でいるから、私も槇ちゃんにはなにも言わない。言わないことは楽なのだ、と心の中で小さく唱えて、槇ちゃんに笑ってみせる。槇ちゃんはやや黙したあとに「そうか」と言って「授業には出ろよ」と、お小言のすべてをその少しの言葉に詰め込んでどこかの教室に行ってしまった。私は「はあい」とにっこり笑んで返したけれど、胸にたまっていく正体不明のもやもやに引きずられ「今日はもう、この木の傍ではないどこか別の場所でサボってしまおう」と思った。

保健室から窓の外を眺める。

体を休めるためのベッドに座って、室内を分けるカーテンを閉めてしまえば、そこはもうひとりの空間だ。窓際のベッドを陣取った私は、薄いレースのカーテンをすこしだけ引いて外を覗いていた。

建物にぶつかってぱたぱたと音を立てる雨粒が、地面に吸い込まれていくさまを見ているのは、なんだか心が落ち着く気がした。掃除の時間を知らせる校内放送が流れている。保健室の先生がベッドに近づいてくる気配を感じ、窓からちょっとだけ離れて先生を待つ。

保健室の先生はベッドのカーテンを開けてこちらを見、私の顔色を確かめて「だいじょうぶそうね」と言った後、念のためという風に「二宮さん、掃除はどうする? もう戻れそう?」と訊ねた。

「大丈夫です。戻れます」と言って笑って保健室を出たら、あとはまた、くだらなく色あせた日常だ。保健室から戻るときって、どうしてこう、非日常のように感じるのだろう。いつも通りの校舎がやけに薄暗く感じるし、掃除の為に出てきた見知った学生たちすら、どこか知らない面々のような気がする。

「空子」

今度は、女の子が私の名前を呼んだので、そちらを振り向いた。やっぱり、と私はその子にも笑顔を見せる。さっき、私が勢いで酷いことを言ってしまった友人が、緊張した面持ちではあっても「掃除、いこう」と笑い返してくれた。

数歩先を行く彼女が、湿気た廊下で、きゅっと上履きが滑る音を立て、こちらを振り向く。私は依然と窓の外を見ていて、そんな私に、彼女は「雨、結構降ってきたね」と言った。

「ちょっと寒いねえ」と私が「ほら、鳥肌」とシャツの袖を捲って見せ、それに彼女が「カーディガン、持ってきてあげればよかった?」というので、私は「ううん。いいよ」と首を振る。

私がめくりあげたシャツの袖を元のように伸ばして、皺を直そうとぴんと引っ張るのを見ながら、彼女が「ねえ、空子。ごめんね」と泣きそうな声で謝ったけれど、私はそれには敢えて「いいよ」だけで済ませてしまった。でも、だからといってこんな喧嘩、こんな波紋では、やっぱり私の生活も、この学園も、まったくもって変わりようがないのだ。

きっと「真面目」に生きていけたら、もっとこの学園も、たのしく過ごしていけるのだろう。

「私のほうが、ごめんねだ」

言って、笑ってみせる。この学園で息ができない私は、呼吸のしかたよりも先に、笑いたくない気持ちを覆い隠すだけの、からっぽな笑顔がうまくなっていくのだった。

胸が苦しくなる夢を見た。まともでいることができない私に、みんなが後ろ指をさし「あのこはだめだ」と言う。その場でオアシスのように輝く槇ちゃんが、ひとりだけこちらを見て優しく笑っていたから、私はそんな槇ちゃんのもとに行きたくて、息を切らせて走り寄ったところで、槇ちゃんが「真面目じゃないから、お前はだめだよ」と吐き捨てた。

かみさまの槇ちゃんが、その言葉を最後にして、崩れ去っていく。

目が覚めたとき「ああ、槇ちゃんはかみさまだったんだ」と思った。汗をびっしょりとかいたせいで張り付いた前髪を掻き上げ、なんだかとってもむなしくなる。私は槇ちゃんをかみさまだと思っていて、でもきっと、そんな「正しい」槇ちゃんは「真面目じゃない」私を知れば知るほど、怒ってどこかにいってしまうんだろう。

私の世界は、狭くて息苦しい、この学園がすべてだ。

今日もまた、お洒落で整った学園にピントを合わせる。夕日が白と黒でまとまった校舎に濃い影を落とし、赤と橙と白と黒がコントラストを作っている。ざわざわと風が吹いて、気温は暖かだとはいえ、日が落ちるとやっぱりまだ少しだけ、空気が冷たくもある。

気乗りしない写真を数枚撮って、すぐに下校の時間になる。部活動の仲間が集まって活動内容を報告し合って、それからそれぞれ帰路につく。暗くなりきれず、夏ほどに明るくもない立夏の夜は、昼間の陽気がすっかり隠れ、薄手のカーディガンが要るのだ。

今日は槇ちゃんに会えなかった、と私は小さくため息をつく。槇ちゃんに会えない日はざらにあって、でも、槇ちゃんは私を特別扱いなんてしていないから、それは当然のことなのだ。

槇ちゃんが私を、特別な生徒にしてしまうことは、どうしても想像ができないし、そんな未来はきっとないだろうとも思う。特別がどんな意味かによるのはそれはそうだけれど、よくある少女漫画で見かける、特別な先生と生徒の関係性はいやだなと思うから、きっと私のこれは恋や愛なんてものではないのだろう。

夢を見たのだ。槇ちゃんの夢だ、槇ちゃんが唯一の、かみさまな夢だった。

学園中からつま弾きにされている私に、槇ちゃんだけが笑いかけてくれる夢だ。でも走り寄ったら、槇ちゃんも私を拒絶してしまうような。起きてすぐは心臓がばくばくするほど嫌な気持ちだったけれど、いまになって考えると、あれはやっぱり私の中での理想だった気がする。

あの夢の槇ちゃんを、かみさまだと思う理由はわからない。でも槇ちゃんは往々として私にとってはかみさまで、それはきっと、誰が何と言おうと、槇ちゃん自身がどれほど突っぱねようと変わらない。

恋でも愛でもない感情は信仰心としか言いようがなく、女子高生のそれがどれだけ陳腐なものなのかは重々に承知していても、やっぱり槇ちゃんにだけ、唯一覚える「きれい」という感情は信仰なのだ。

「重たいなあ」と口に出して自分のことを笑い飛ばして、やっと気持ちが浮上する。五月の夜はすきだ。心地よい肌寒さに、ちょっとだけ冷たさを残した夜風が頬を撫でるのだ。

帰り道の途中の町角にある、個人経営らしい小さな服屋の前を通ったとき、たまたま槇ちゃんのような人影を見つけたので、私はそちらをじっと眺めてしまったのだけれど、その人影も私のように、私とは別の綺麗な女の人を見つめている。

女性の白いスカートが、くすんだ灰色の夜空とそれを照らす間抜けな街灯に、ふわりと浮かび上がっている。長い茶髪を編みこんで、耳に揺れる大ぶりのピアスを、槇ちゃんらしき人影は、じっと見ていた。

私はつい、その人を「槇ちゃん」と呼んだ。その男の人は一瞬こちらを見て、すぐに背を向ける。足早に去っていく人影を、私ははっきり「槇ちゃんだ」と思った。

槇ちゃんが見ていた女性に視線を移せば、彼女は槇ちゃんや私とはまた別の、いまだに煌々と灯が付いている服屋のショーウィンドウを眺めていた。店主が店先に出てきて看板を片付けはじめたところで、彼女もなにも言わずにスマートフォンに目を落とす。

細い綺麗な指が小さな画面を滑り、彼女は耳にそれを当てて「もしもし、今、どこ?」と澄んだ声で言った。そこまで見て、私もすぐに目を逸らして家に帰ったので、それきり私は見知らぬ彼女の顔ごと忘れてしまったのだった。

午後になって、職員室の窓からちらりと見える槇ちゃんを、こっそり写真に収めようとカメラを向けた。でもさすがに二度目ともなると、槇ちゃんも油断なんて一切していなかったようで、すぐにこちらに気が付き、窓もカーテンも閉めようとする。私は慌てて窓枠を手で押さえ、そんな私に槇ちゃんは「危ないぞ!」と短く声を上げたのだった。

「勝手に撮るな」と言った槇ちゃんの表情は、いかにもしかたなく私と話してくれているといった様子で、でも私の方は、そんな槇ちゃんが面白くって上機嫌である。私は「あのね」と言った。

「かみさまが撮りたいの」

槇ちゃんは私の言葉に、きょとんと目を丸くした後「神様?」と後ろやら右やら左やらを目で伺って「神様なんていないぞ」と訝しげにしているので、私はくすくすと笑いながら「いるんだよ。槇ちゃんには見えないけどね」と返して、豆鉄砲を食らったような槇ちゃんの顔を指さし「鏡、貸してあげようか」と言ってみる。

槇ちゃんはやや考えたあとに、私の言葉の意味を理解して、はあと深いため息をつき「お前は本当に、へんなことをいう」と頭を抱えている。

「おもしろい?」

「頭は大丈夫かなと思う」

槇ちゃんは窓枠にのせている私の手を払いのけ「俺は無神論者なんだよ」と言い放って窓をぴしゃりと閉めてしまった。私はひとり、口の中で小さく「そうだね」と呟く。そうだね、私だって、かみさまなんてしんじていないよ。

窮屈なこの学園で、呼吸するための空気を、必死に求めているのは、きっと私だけなのだ。

「槇ちゃんは良いね」と言ってみて、その自分の言葉になぜだか泣き出しそうになるけれど、私は泣くことよりも、笑うことの方が得意である。

槇ちゃんは良いね、この学園のこと、きっと好きなんだろうな。息ができないなんて、考えたこともないんだろう……槇ちゃんからなにかをきいたわけでもないけれど、この学園で一生懸命に働く槇ちゃんは、きっとこの場所が好きなのだろう、と私は勝手に想像していて、でも、その想像は「勝手な妄想」ではないのだと知っている。

「私もすきになりたいな」と心の中でひとりごちてから「さみしいな」と口に出す。晴天の空を仰いで白い雲を眺めて、夏の入道雲が見たいなと贅沢なことを考える。いまはやっとのことで「夏が立った」頃なのに、だ。

「真面目に授業に出れば、きっとなにか、夢中になれることも見つかるぞ」

槇ちゃんが、窓からこちらを見て言う。なんで窓越しに声が聴こえるんだろうと思ったら、閉めたはずの窓が開いていて、槇ちゃんは一度、閉めはしたけれど、すぐにまた窓を開けていたらしい。

私は槇ちゃんの優しい表情と、真摯な声で、以前のことをぼんやりと思い出す。

カメラを初めて向けたとき、槇ちゃんは険しい顔をして、さっさと背を向けたのだ。小さくなにかを呟いた槇ちゃんの声は、当たり前に私の耳には届かず消えていってしまったことを憶えている。

私は気が付くと、槇ちゃんに「あのときなんて言ったの?」とたずねていて、槇ちゃんが「あのとき?」と訊き返した。

「はじめて私が盗撮したとき」

私の冗談に「盗撮っていう自覚があったのか」と槇ちゃんは呆れている。それから「あのとき……」と声にだしながら思いだしているような間のあと「ああ」となにかに合点してから、槇ちゃんはじっと私の顔を見る。

言おうか言うまいか、と彼が迷っていることを知って「おしえて」と私は笑った。槇ちゃんは「まあなあ」と曖昧に言ってから、小さく「お前が羨ましいなって」と、風に揺れる若葉で、かき消されてしまうような声でこぼした。

「羨ましい?」と、つい追求したくなってしまった私に、槇ちゃんは咳払いをする。

さあっと耳元を流れていく風に、目線を上にあげれば、緑に生い茂る枝と、白い校舎の壁が見える。私は笑った。ひさしぶりに、心から笑いたくなって笑った気がした。

「槇ちゃん、私の被写体になってください」

そういって手を伸ばすと、槇ちゃんが唐突に、仏頂面で「真面目は美徳だぞ」とお説教を始めそうな様子を見せ「二宮には勤勉さが足りない。この学園の校則を知っているか」と二の句をついだので「そのはなしはあとでもよくない?」と私は頬を膨らませる。

槇ちゃんは「いいか、二宮」と、ちょっと言葉を溜めたあとに「俺は、お前のそこが羨ましいよ」と目を細めた。笑っているようでまったくもって笑えてないその顔に「へたくそだなあ」と思ってしまう。

「槇ちゃん、私のほうがもっとうまく笑えるよ」

「お前は笑わないで良いときも笑う」

槇ちゃんの言葉に不貞腐れて目を逸らし、ゆるりと差し出した手を下ろす。槇ちゃんは「なあ」と私に再び声を掛け「お前はきっと、人に好かれるんだろうな」

槇ちゃんの言葉に、私の方が目を丸くして「それ、本気で言っているの?」と呆気に取られてしまう。槇ちゃんは「本気だよ」と言って、それから今度こそ、完全に窓を閉めてしまった。

「残酷だ」と漏れた声こそ、私の本音であって、でも、窓もカーテンも閉ざしてしまった槇ちゃんには、私の声は届かなかった。

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