第4話 灯籠流しの夜を、君と

『おはよ〜!今日のお祭り、行くよね?』

「おはよう。俺に拒否権は無いんでしょう?」

『もちのろん太だよ!』

「もちのろん太?嗚呼、勿論、か」

『そそ!もちのろん太、可愛いでしょ〜。仕方ないから、歩高も使って良いよ?』

「遠慮する」


けらけら、と彼女が笑う度に、彼女の背負う鞄についたウサギが揺れる。可愛いとも可愛く無いとも言い難い、絶妙な容姿をしているウサギのキーホルダー。確か、ウサ丸と言ったか。


『ウサ丸はこんなに可愛いのに誰も分かってくれない!みんな可愛くないって言う!』


なんて憤っては泣いて、彼女の両親を困らせていたっけ。あれは、幼稚園の頃だったか。

その話をしたら、屈託なく無邪気に笑っている彼女は頬を染めるんだろうか。した事はないから分からないけど、いつかしてみたいかな。


思案する俺を置き去りに数歩前に出て、意味もなく制服のスカートを翻して一回転する彼女は、どうしようもなく愛おしい。

ふ、と口元が緩んでしまって慌てて表情を整えた。クルクルと回転を続ける彼女に追いつくべく一歩踏み出そうとした時、彼女が不意に空を仰いだ。思わずつられて、青い空を見上げる。


容赦なく注ぐ日差しが目に痛い。


『…………では、……を……でく……る?』

「ん、何?よく聞こえなかった」

『へへ、なーんでも!さ、いこ。遅刻しちゃう』

「あ、ちょっ。……昨日沢山歩いて、筋肉痛で走れないから、待って」

『筋肉痛!?何でぇ!?やっぱり運動部入るべきだったんだって』


あはは!と気持ちのいい笑い声を上げながらも足を止めてくれる彼女に追いついて、ふたり並んで歩き出す。他愛もない会話がひどく楽しい。

あんなにも回っていたのに涼しい顔で前を見つめる彼女を盗み見て、気づかれないよう息を吐く。


見て見て飛行機雲!おじさんが持ってきてくれたマンゴーがすっごく美味しそうでね〜。あ、トイプーだ!お祭り、今年も人すごいかな?リンゴ飴は外せないよね。歩高が大好きだもん。


朗らかに様々な話題を降ってくれる彼女に相槌を打っていると、あっという間に学校が見えてくる。楽しい時間は、何故過ぎるのが速いのか。

いつものように彼女と正門で別れ、浮き足立った様子で話し込む生徒で溢れかえった廊下を縫うようにして教室へ向かう。

道中、部活をサボタージュしたことがバレて顧問に叱られている彼を追い越す。鬼の様相で彼を叱るのは、学校1怖いとすら言われる体育教師。


あーあ、ご愁傷さま。


口の中でそう呟いて、教室の前に並んだロッカーからヘッドホンを取り出す。いつもより賑やかな声をシャットアウトする為に音量を2段階上げて、いつも通り机に突っ伏した。





『今日はあっという間だったね。みんな、お祭り行きたくてそわそわしてたからかな?』

「んー、かもね」


丁度、同じ事を思っていた。

たったそれだけで、単純な心は軽やかに跳ねる。


教科書の類は全部ロッカーに置いてきた。

そう告げれば、彼女の口角が上がる。可愛い。

どちらともなく頷き合って、いつも足を踏み出す方とは反対側。祭り会場の方向へと一歩踏み出した。


『うわぁ、今年も凄い人』

「……だね。みんな、よく飽きないよ」

『毎年来てる歩高がそれ言うの??』

「どちらかと言うと、君に言ってるんだ」


両端に所狭しと屋台が並べられた街道は、既に人であふれていた。人口密度のせいだろうか、そこだけ一際異様な熱気を発している。


今からでも、帰りたい。まだ間に合う。


そんな意思を言外に込めて彼女を見るも、既にほんのり頬を染めている彼女には届くはずもなく。喧騒の中へと臆す事なく飛び込んでいく彼女の背中を必死で追う。……とはいえ、流石に毎年来ているから、はぐれる事も戸惑う事もない。

ある意味流れ作業のように、それでも全力で祭りを楽しむ。射的に、輪投げに、精を出す。


いつの間にか、夜の帳が下り始めていた。

そろそろ移動しなければ。


「……あれ?」

『ん〜、歩高どした??』


顔を上げた拍子に、ふと聞き慣れた声が聞こえた気がして視線を彷徨わせる。

昨日のクラスメートを見つけた。どうやら無事に来れたらしい、居残り練じゃなくてよかったね。

隣を歩く彼女は、なるほど確かに可愛らしい。

ばち、と目が合う。気まずそうに逸らされる。


『歩高?ねぇ、誰か知り合い?』


見てはいけないものの様なその反応は不服だが、わざわざ声をかける事はしない。

彼女といる自分を見られたくない、その気持ちもわかるから。

ただ、人混みに消えていく2人をぼんやり見つめながら、上手くいくといいな、と思った。


『歩高!どうしたのってば!!遠いところ見ちゃってさ。幽霊でも居たの?やめてよ!!怖い話するなんてひどい!!』

「なんでもないし、怖い話はしてないからね」


そんな軽口を叩き合いながら、無事大量の戦利品を抱えて、目的地へとたどり着く。

毎年、2人で訪れている人気のない川辺。

去年と同じ様相を保ったままそこに鎮座している、程よい大きさの石に腰掛ける。

火照った体を撫でる夜風が気持ちいい。


俺が射的でとったウサギのぬいぐるみを愛おしそうに抱いて離さない彼女にりんご飴を手渡して、自分はたこ焼きを口に運ぶ。サラサラと静かに流れる水を眺めながら、喧騒を遠く遠くに聞きながら、取り留めのない会話をする。

いつも通り、他愛ない言葉をぽつぽつと交わす。


『今日貰った物、全部宝物にするね』

「こんなんで良いの?誕生日」

『うん!あっ、もちろん今日までの思い出も、ぜーんぶ大切な宝物だよ?えへへ、こんなに幸せだと、心の宝箱溢れちゃう』

「俺も、だよ」


白い左手が、不意に静かに差し出される。

その表情は逆光になってしまって分からないが、伸ばされた手が微かに震えているのは、分かる。分かってしまう。

一度目を閉じて、小さな手に右手を重ねるべく、腕を伸ばす。


あと少しで、その指先に届く。触れる。


それでも、触れる事は出来ない。

重力にしたがって地面に落ちた俺の手を見て、彼女は静かに息を吐いた。

その瞳は、ひどく優しく凪いでいる。

つい直前まで熱っていたはずの、一瞬で冷蔵庫に突っ込んだかのように冷えた手を、固く固く血が滲むほどに握りしめる。


『……やっぱりだめかぁ』

「悪い、」

『んーん、歩高は悪くないよ!全然大丈夫!!……ごめんね』

「ちが、」


遠くで上がる歓声に、否定の声は掻き消される。

ああ、と何かを思う間もなく、ぽたぽたと視界の端で橙の灯が浮かび始める。

音もなく、淡い光が水の上を流れていく。

透明な水脈に橙色が揺らめいて、次第に川全体が温かな色に染め上げられる。


この祭りのメインイベント、灯篭流し。

それが、ついに始まった。始まってしまった。


『ね、歩高』

「……うん」

『あと少し、になっちゃった』


くしゃ、と泣きそうに笑う彼女を見て、俺は、数年前のことを思い出していた。

忘れたくて、なかった事にしたくて、それでも決して忘れることのできなかった、記憶。


茹だるように暑い、8月17日の事だった。

その日俺は夏風邪にやられていて、朝出た熱が夕方になっても下がらなくて、一日中布団の中で丸まっていた。


『ほのちゃんとお祭りいく』『りんごあめたべるってやくそくしたもん』『ねーちゃんずるい』


華やかな浴衣を纏って髪を綺麗に結い上げて、意気揚々と祭りに出かける姉2人の背中を恨めしく、それでも高過ぎる体温に抗う事はできず大人しく見送った事を良く覚えている。


『火乃香、リンゴあめ買ってくるから、いっしょにたべよ。で、またこんどは2人で行こう』


情けなく駄々を捏ねる俺に、火乃香が新しく約束を結びに来てくれた事も。ね!と笑うその顔が、ひどく美しく見えたことも。彼女の買ってくるリンゴ飴は、きっと何より美味しいんだろうと思った、思ってしまった事も。


『ん、じゃあ、まってる……。やくそくね』


だから、頷いた。約束を、信じてしまったから。

しかしその約束は、完全には守られなかった。

その年のお祭りが、行われなかったからだ。


《花袋川付近で、一台のバイクと歩行者の接触事故が発生しました。バイクの持ち主は接触後走り去り、歩行者はその場で死亡が確認されました。安全確保の為今年の祭りは急遽中止と致します》


そんなメールが届いたから、お姉ちゃん達を迎えに行ってくるね。なんて、俺の部屋に顔を出した母親の、顔の白さは忘れられない。

いてもたってもいられなくなり、布団を這い出て、誰もいないリビングでテレビをつけた。

その瞬間の絶望を上回る出来事は、きっと無い。


『被害者は囃火乃香さん。犯人のバイクは彼女を数メートル引き摺った後も加速を続け逃走……』


他人事のように淡々と語るキャスターの声が何処か遠くから聞こえて、その後の記憶は何もない。


『歩高』

「うん」


ぽたり。上流からまたひとつ灯りが流れ来る。

ぽつり。足元に、またひとつ雫が溢れ落ちる。

ぼたぼたと、地面に濃く色を付けるその水滴は、止まる事なく俺の目から溢れてくる。


止まれ、止まれよみっともない。

せめて、どうか、今日だけは。

そんな願いは届かない。叶わない。

ただ、漏れる嗚咽を噛み殺す。


不意に、両頬が冷たいもので包まれた。

慌てて視線を下げれば、大きな両目が、もう潤むことのない彼女の瞳が、優しく弧を描いている。


『歩高、ごめん。ごめんなさい。ごめんね。……ずっと、ずっと大好きだよ』

「俺も、俺もずっと……!」


その続きを伝えたいのに、喉が詰まって声が出ない。息が、言葉が続かない。

そんな俺を慰めるように彼女は優しく微笑んで、頭を撫でるフリをして、静かに離れて行く。

ウサギのぬいぐるみを、りんご飴を、両手に抱えた彼女は、ゆっくりと、それでも確実に川へと足を進めていく。橙の灯に吸い寄せられていく。


待って、待てよ、待てって!待ってってば!!

まだ、手を繋いでいないだろう。約束を、果たせていないだろ!?だから、頼むよ。いかないで。


追い縋る声は彼女に届かず、紡ぎたい言葉は声にはならず、伸ばした腕は空を切るばかり。


『じゃぁ、歩高。お別れだね。さよならだ』

「……また、来年、だろ」

『あはは、そっか。そうだよね。うん、そっかぁ』


ありがとう────。


不細工なウサギとリンゴ飴を乗せた、小さく暖かな灯籠が、目の前を音もなく流れていく。

ほんのりと周りを照らし続ける小さなそれが、遠く遠くで先を行くそれらに混ざり分からなくなって、ついぞ夜闇に溶け落ちるまで、ただ見送る。

やがて、水の流れる音と、木々が風に揺れる音以外何も聞こえなくなる。いつの間にか、上から流れる灯籠もぱたりと止んでいる。


祭りは終わった。終わってしまった。ここからは、何も変わらない日常が待っている。

それでも口を開く。息を整え声を出す。


「また、来年。待ってるから。」


その声は、虚しく響いて消えていく。

それでよかった。構わなかった。決して姿は見えなくても、きっと届いているだろうから。


なぁ、火乃香。そうだろ?


鞄からヘッドホンを取り出して、耳にあてがう。彼女の好きだったバンドの新曲をそっと流した。美しい夏を、切ない恋を、哀しい愛を歌う歌。

ふと思い出して、温くなったリンゴ飴を口に運ぶ。噛み砕く。


「はは、まず……」


思わず苦笑。

溢れ続ける涙と一緒に噛んで砕いて飲み下す。

あの子には、気づかれていないと良いけれど。


そんな事を考えながら足を進める。夜道を歩く。

温かな灯りのついた家へ、大切な家族の待つ家へ、帰るために。

目を真っ赤に腫らしたおばさんと、俺の家族とで、あの子の話をするために。


全員で、また次の夏へと進む。その為に。

君のいない世界を、明日も歩き続ける為に。

いつかまた、灯籠流しの夜を君と迎える、その日まで。

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