第3話 献花
『君の誕生日、丁度満月だよ』
我が家のなんちゃってロマンチストとは違う、正真正銘のロマンチストな彼女にそれを伝えるべく、メールアプリを起動する。
もはや諳んじる事だってできる、彼女のアドレスを送信先に設定して、【知ってた?】なんて簡素な件名に続けて本文を打ち込む。送る。
「よし」
送信済みのフォルダにそれが移動した事を確認して、電源を落とす。……充電、は、まあいいか。
用済みのスマホを鞄に突っ込んで、自室へ放る。
ごつん、と鈍い音がしたが気にしない。
「ただいま」
「お帰りなさい。遅かったね〜」
「ちょっとね」
階段を降り、台所に立つ母親に帰宅を告げれば、安堵の色が滲んだ声が帰ってくる。それに気がついた姉が、大袈裟だって!大丈夫だよ、と笑っている。
食欲をそそる匂いに誘われて席についた俺を、背を向けているはずの彼女は決して見逃さない。
「こら。手洗いうがいして、ちゃんと手伝う!」
思いの外鋭い言葉が飛んできて、つい肩を竦めてしまう。おかしいな、背中を向いてる筈なのに。
おっかないね、と囁く姉と目を見合わせて、笑い合う。いつまでも子供なんだから、と、呆れたように母さんも笑う。決して広くないリビングに、温かな笑い声が満ちる。溢れる。飽和する。
「おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
生姜焼きをお腹いっぱい食べて、温かい風呂で汗を流し、家族みんなでだらだらとテレビを見て笑い合い、ソファに腰掛けながらウイスキー右手にカシューナッツ左手に映画を見る父に挨拶をして自室へと戻る。
今日は、とてもいい日だったな。
明日も晴れるといいけれど。
眠い目を擦りながら布団を引く。目下、この煩わしさをなんとかしたい。1人暮らしを始めた姉に徴収されたベッドはいつ返って来るんだろうか。
あーもう、誰だこんなとこに鞄置いたの。俺か。
「あ、やば」
鞄の中に明日提出の課題がある事を思い出した。
ネチネチ喋る、鬱陶しい、数学教師の嫌がらせ。終わらせるべきか、否か。
────まぁ、明日の朝やれば良いだろう。
そう結論づけて邪魔なそれを足で押しやって見ないふり。引き終えた布団に潜り込む。
薄ら開けた窓から、蝉の声を微かに聞きながら目を閉じれば、鼻いっぱいに広がる太陽の匂い。
ああ、どうしよう。幸せだ。
居心地のいい家がある。笑い合える家族がいる。
布団を干してくれる母がいて、ナッツを分けてくれる父がいて、軽口を交わせる姉がいる。
それに、隣の家には好いた人がいる。
お祭に共に行ける彼女がいる。
もし、この幸せが壊れたら、俺は。俺は──。
『歩高はバカだなぁ。気にしすぎるとハゲるんだよ。ほら、リラックスリラックス!』
どこかから、そんな声が聞こえた気がして頬が緩む。君がポジティブすぎるんじゃ?なんて反論は声にならない。既に瞼も開かない。
『眠い、ね。お休み。良い夢を』
「ん……きみも、ね…………」
さらりと、夏風が頬を撫でていく。いつの間にか、蝉の声は止んでいる。
そのまま、優しい夢へと意識が溶けた。
『私、気づいちゃったんだけど。今年の誕生日って満月じゃない?それって、なんか、凄くロマンチックだよね?や〜私は幸せ者だなぁ』
「女の人は一体満月に何を期待しているの。所詮周期の問題じゃないか」
『ロマンチックだよ。分かってないなぁ歩高は!月にまで祝福してもらえるってことなんだよ、ロマンチック以外の何物でもない事無い?』
「なるほど」
いつもの様に、寝坊した!と階段を駆けてくる姉を嗤いつつ、行ってきますと告げて外に出れば、曲がり角のところで火乃香が俺を待っていた。
早足に駆け寄って朝の挨拶を交わし、取り留めの無い、生産性もない、されど楽しくてしょうがない、そんな会話をしながら学校に向かう。
『じゃ、また後でね!ちゃんと宿題終わらせるんだよ〜!』
「ん。またね」
正門を潜るなり、ぱたぱたとこちらに手を振って走り去っていく彼女をぼんやり眺める。
サラサラと風に舞い踊る長い黒髪。
髪が風に揺れる度に見える、汗ひとつない首筋。
白い袖からスラリと伸びる細い腕。
陽炎の中に消えていく、華奢な背中。
やっぱり可愛い。好きだ。
思わず立ち止まって、まじまじと見つめてしまうほどに。ああでもそろそろ行かないと、課題が。
不意に、振り返った火乃香と目があった。
音の聞こえそうなウインクに、分かりやすく心臓が跳ねる。顔が熱いのは、きっと陽射しのせいじゃない。
頬がだらしなく緩むのを周りに気づかれないように、視線を下げて足早に教室へと向かう。
「それにしても、あっついな」
額をぼたぼたと伝う汗を拭う。靴を履き替えながら水筒を呷る。
ほんの数分歩いただけなのに、既に体がばてている。運動不足だろうか。いや、きっと夏の所為。
溜息を吐く俺を誹るように、足元の影がゆらりと揺れた。
やっとの思いで、教室の前に辿り着く。
扉を引いた瞬間全身に打ち付けるエアコンの風。
ここが楽園か。今なら空も飛べそうだ。
日差しに晒され続けた全身が悦びの声をあげるのを聴きながら、廊下側、1番後ろの自分の席へ。
鞄からカーディガンと負の遺物を取り出す。
グレーのそれを羽織れば、冷気に晒されていた肌が安堵するのが分かる。この時期は暑すぎるし寒すぎるから良くない。また風邪を引いてしまう。
そんな事を思いながら、昨晩放り込んだままのスマホを取り出して、電源ボタンを押す。
「あれ……?」
画面は付かない。やはり充電はすべきだったか。
先に立たない後悔に意味はない。とりあえずヘッドホンを装着し、耳に当てる。外界の音を消す。
しっとりとしたピアノの音と、そこに溶けるように響く繊細な声に耳を傾けるフリをしながら宿題を片付ける。
ケリをつけて伸びをすれば、ちょうど自分の真後ろにある掲示板が目に入る。
色とりどりの掲載物は、広報委員の努力の結晶。
その中でも一際目立つそれを、注視する。
┌─【花灯町 灯篭祭りいよいよ明日!】───┐
○第82回、『灯篭祭り』が8月17日水曜日に行われます。皆さんも是非行ってみてください。
○お祭り最後の花袋川で行われる灯籠流しは圧巻!
○他にも見所は……
└────────────────────┘
「いよいよ明日、ね」
分かってはいたけどもうそんな時期か、と、深く深く溜息を吐く。
俺の知る限りただ1度の例外を除いて、毎年毎年飽きもせずあの子の誕生日3日前に行われる祭り。昔は伝統ある行事だったのに、最近では子供やお祭騒ぎ好きの為の娯楽に成り下がったイベント。
俺は、正直好きじゃない。
きっと、一生好きにはなれない。
けれど、イベント好きの彼女に引っ張り回される形で、なんだかんだ俺も毎年足を運んでいる。
好きじゃないなんて、火乃香のキラキラしい笑顔を前にして口にできない。
「それに、約束しちゃったしな」
『なんだかんだ、楽しみにしてる自分もいるくせに』
なんの音も流れていないはずのヘッドホンの奥から聞き慣れた声がする。
いつの間にか、少し低くなっていた俺の声。
『夏祭りデートだぞ』
「いやうるせえよ!」
小声で呟き、ヘッドホンを外す。使い物にならないスマホごと鞄に叩き込むのと、担任が扉を開けるのがほぼ同時。
頭を勉強に切り替えながら、ぼんやりと窓の外を見る。空の青さが目に痛い。夏、なんだよなぁ。
「夏休みが本番だから」
お決まりの台詞で朝礼を締めた担任の顔を見る。
そんな事、一切思っていなさそうな顔を。
だるい。帰りたい。と、露骨に書いてある顔を。
俺だって帰りたいよ、なにが楽しくてお盆まで登校しなきゃいけないんだ。
……まぁ、受験生だのなんだの、手を替え品を替え夏休み登校を正当化している先生方も、明日は早く終わらせると断言しているから良いけれど。
それでも、やっぱり早く時間が過ぎてほしい。
スローモーションで動く時計の針を見ながら、そんな事をぼんやり思った。
「長かった……」
『え〜?楽しかったよ!!歩高は本当にひねくれてるなぁ』
俺の首根っこを押さえてはネチネチと授業態度を指摘する社会科教師の隣をすり抜けて正門へ。
火乃香は既に待っていて、俺に気づいた途端頬を膨らませて、遅い!!と笑う。
ああ、かわいい。好きだなぁ。
素直にごめんと言葉を返して、肩を並べて歩き出す。至福の時間を堪能するべく、歩幅は少し小さめに。
いつものように、火乃香がこちらを見上げながら口を開いた時、だった。
「木下。今日、これから時間ある?」
「……今日、部活は?」
「今日はちょっと。そんなことより暇?だよな?」
距離感という概念がインプットされていないらしいクラスメートにがっしり肩を掴まれる。
部活一本、進学もスポ推狙い!と宣言している彼の、鍛えぬかれた腕は振り解けない。抵抗するだけ無駄らしい。
諦めて話の続きを促せば、彼の目がわかりやすく輝いた。
「俺さ。その。明日彼女と初デートで祭り行くんだ。“初”デート。だから、良い所押さえときたいの。頼む。協力して」
「はぁ……?」
バスケ馬鹿に見える彼も、立派に彼女が居たらしい。そんな話は聞いたことがないから少し意外だが、まぁ、分からなくもない気はする。
男ばかりのあの空間で、そんな話をしたら何を言われるか分からない。
少なくとも、揶揄いの的になるのは目に見える。
それなのに、さして仲良くない俺に打ち明けたのは何故。口が固そうだと判断されたのか。言いふらす相手も居ないだろう、みたいな判断なのか。
それはそれで、なんとなく、かなり癪に触る。
ちら、と火乃香に視線を遣れば、彼女はいつも通り、否、いつも以上に満面の笑みを浮かべながら、口をパクパクと動かしている。
『行っておいでよ』
『また明日』
……確かに、彼は離してくれなさそうだから、しょうがない。本当は、一緒に帰りたかったけど。
小さく頷けば、彼女は満面の笑みのままひらひらと手を振って体を翻し、揺れる陽炎の向こうに消えていく。
その背中を見送って、パタパタと尻尾を振りながら俺を待つ彼に向き直る。
「分かった、良いよ。でも、なんで俺?」
「だって、毎年行ってるんだろ?」
「……嗚呼」
じりじりと降り注ぐ日差しに眉を顰めながら、花袋川までの道を、空気を読めないクラスメートと歩く。ただ無心で足を進める。
おかしいな。本当なら、今頃火乃香と。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、隣の彼は意気揚々とお熱い話を繰り広げる。どうやら、年下の彼女が可愛くて仕方ないらしい。
分かるよ、好きな人の話をするのが楽しいのは分かる。分かる、けれど。
ただでさえ暑いのにやめてくれ!
なんて、そんな事は言えない。
楽し気に話す彼の邪魔はできない、したくない。
……尤も、俺の楽しみは奪われているんだけど。
ケンカをしたらあの子はきっと傷つくから、しない。──いや、喜びそうな気もするな……?
そんな事を思いながら、甘ったるい惚気話に相槌を打つ。歩き続ける。
「……あ」
「あ……?あぁ」
ふと、嫌なものが視界に入ってしまった。
道の脇に置かれた大量の花やお菓子。
泣き崩れる誰かの顔が浮かんで、慌てて目を逸らす。深く、深く息を吐く。
「この前の事故ってここだったんだな。知らなかった」
「そうだよ。この辺りは危ないから、気をつけたほうがいい」
神妙な顔で頷く彼に釘を刺し、空を見上げる。
胸の内に広がる苦々しさを消し飛ばす為大きく息を吸い込めば、肺に広がる夏の匂い。
風と、草と、死の匂い。
「どうした?早く行こうぜ、日が暮れる」
「ん、今行く」
何故か駆け足で先を行く彼を追うべく足を踏み出す。なにか、柔らかなものを踏んだ。
そんな事は、どうでも良かった。
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