第2話 生姜焼き

他愛もない会話をしながら、沈む夕日に背を向けて足を進めれば、家はどんどん近くなる。

あと少しだけ。もう少しだけ。そんな願いは届かない。あの角を曲がれば、もう、直ぐそこが家。


す、と彼女に気づかれない程度に、でも確実に歩速を落とす。どうか、どうかもう少しだけ。


あと、もう少しだけで構わないから。


『歩高?どうしたの。どこか痛い??』

「大丈夫。ほら、早く帰ろう」

『カラスが鳴くからお家にか〜えろっ、だね』


自分の足元から遠く遠くに伸びる影法師が、弱い俺を嘲笑う。意気地ない俺を静かに責める。


空の端が、次第に黒く染まっていく。

夜が、昼を、空を飲み込んでいく。

夜の訪いが早いのは、もうすぐ夏が終わるからか。それとも。


やがて、見慣れた家が見えてくる。

肩を寄せるように並んだ2軒の家。

手前に見える温かな灯りは俺の家のもの。

奥に見える彼女の家には、見慣れない車が停まっている。


『叔父さんが来てるんだよ。私の好きな果物、お土産にいっぱい持ってきてくれたんだ』


俺の視線に気がついた彼女が、嬉しそうに笑う。叔父さん。彼女がそう呼ぶ人に心当たりはある。

明朗快活に笑う男の人。優しい人。幼い頃から、彼女と2人、色々な場所へ連れて行ってもらった。


ふーん、と我ながら軽薄な返事をしたところで、家の前にたどり着く。嗚呼、今日はここまでか。


『じゃ、また明日〜!!』


足を止めた俺を振り返り、満面の笑みで手を大きく振って、踵を返して消えていく。

そんな彼女をなんとかして呼び止めたくて、でも、その『なんとか』がどうしても思い浮かばなくて、ただ立ちすくみ、門扉の向こう、静かな夕闇の中に溶ける背中を見つめる。見送る。


────本当は、分かっている。

いかないで。の、たった5文字。

たったそれだけで良いのに、その言葉を口にできた事は、未だ、無い。


ぱたん、と扉が閉まる音が聞こえて溜息を吐く。

なぜ何も言えないのか。情けない。

自問しながら踵を返し、扉へと一歩踏み出す。


踏み出そうと、する。


「っうわぁ!?」


なんの前触れもなく肩に触れた手に驚き、情けない悲鳴が喉から漏れる。飛び上がろうとした体は、巻きついてきた腕に押さえ込まれて動かない。


理解が追いつかない。とても、怖い。

けれど、固まっていてはいけない。


フリーズした脳を必死に回して足掻く。もがく。声を出すべく息を吸う。が、声を上げる必要はなかった。

あっさり離れた腕から慌てて距離を取り辛々の思いで振り返れば、ニヤニヤ笑う見慣れた顔。

サンダルから出ている爪先を狙って足を出す。無防備に晒されるそこを強く踏む。


「なんだ、姉さんか」

「いたっ!?痛い!!!全くもう。おかえりなさい。遅かったね?」

「……ただいま。姉さんこそ、今日は休みじゃなかったっけ?」

「ちょっとお隣さんにね〜」


怖い人で無くてよかった。そっと胸を撫で下ろしつつ、新たに浮かぶ僅かな不安に眉を顰める。

この辺りは、側から見たらただの閑静な住宅街な癖して、自称都会の駅裏並みに治安が悪い。

二人乗り騒音爆速バイクが公共の道路を我が物顔で走るのはもはや日常茶飯事で、物盗りが出たとか誘拐未遂が起こったとか、そんな噂話も絶えることはない。

特にこの時間、昼と夜の境の時間が1番危ないんだという事を、この地区に住む人間は皆、痛いほどよく知っている。


知っている、はずなのに。


姉は、どうも昔から危機感が薄い。

肌着同然の格好で街を歩き、心配する母親や俺の事を大袈裟だよ、と笑いとばす。

全く持って大袈裟ではないというのに。

今日もまた部屋着同然の、いかにも無防備な格好をした姉に、背後からこれまた無防備に抱きつかれれば、心配にもなってくるだろう。


「もう少し危機感を持った方がいいとおも、

「あー!それにしても。もう直ぐだね。お祭り」

「はぁ……。そうだね。今年はどの彼氏と行くの」

「うっさい。それ、絶対お父さんには言わないでよ」

「はいはい。分かってる」


聞く耳を持とうとしない姉と2人、橙の灯の漏れる玄関に向かって足を進める。

いつの間にか、辺りにはとっぷりと夜が満ちていて、見上げた空には、満月になり損ねた月が静かに浮かんでいる。


「歩高〜?どうし、あ」


俺の視線に気がついた姉が月を見上げて足を止め、何かを思い出したように数度頷く。


が、それだけ。


綺麗な空より美味しいご飯!がモットーな彼女はあっさりと視線を扉に戻して、1人でズンズンと家の中に入っていく。

俺の為に扉を押さえて待っているとか、そういう気遣いは相変わらずないらしい。パタリと閉まる扉の向こうから微かに聞こえてくる、今日のご飯何〜?そんな事より先ず手洗い!なんて会話に思わず失笑。


ふと、満月の下で告白されるのが夢だと、姉2人は口を揃えて言っていたのを思い出す。

2人揃って花より団子のくせに、調子良く花も求めるなんて全く都合の良い事だと、父と2人、こっそり呆れ果てたのだ。

そういえば、上の姉……就職が決まって、もう家にはいない彼女が、もうすぐ夢が叶うかも、なんで幸せな連絡を彼女に寄越していた。

女2人だけの秘密だよ、なんて前置きされたそれを俺が知ってるなんて知れたらタコ殴りにされるので、決して言えないが。


「ああ、だからか」


空を仰いで足を止めるなんて、珍しいと思ったんだ。

これまた知られたら殴られそう。隠してるつもりなのに、変なところで勘がいいんだよな……。

そんな事を思いながら、笑い声が微かに漏れる扉へと足を進める。


……あ、これは生姜焼きの匂い。やった。


好物の匂いで喜ぶ俺も、たいがい花より団子かも知れない。それは、嫌だ。なんとなく。

姉に揶揄われないように、否応無しに弾む気持ちをそっと押さえ、扉を静かに引き開けた。

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