第十七話 行方を追って

 索田は螺旋階段を上りながら考えた。


 大人になると、なぜ無意識に子どもの頃の自分を忘れようとするのだろう。純真無垢な自分を。自分はこういう人間だとはっきり決めつけて、子どもの頃とは違うのだという証明がほしくなる。簡単なことを簡単に楽しむことができないし、夜に月が輝いていても空が暗いのはなぜか、いつしか考えなくなってしまう。

 自分は大人になりたくない、そう索田は考えていた。大人は汚いしずるいのだ。それなのに今や自分も当たり前にことに、索田は時折嫌気がさした。


    あの男は――――


 索田は思う。あの男は、いつも無邪気な大人だ。なぜそんな振る舞いができるのか索田には分からなかった。いつも楽しそうで、いつも人間に興味をもっている。索田はあの男に会うと何日も連続で徹夜したときのように疲れるのに、少し羨ましいとさえ思っていた。

 里佳のことも索田にとっては同じように見えていた。どんなことにでも興味を示し、与えられた食事を輝かしい目で見つめる里佳は、索田にとって面白い観察対象だった。それと同時に、自分が嫌悪も抱いていることに索田は気づいていた。



 二階へ上り、いつの間にか長い廊下を歩いて、三階へ続く階段まで来ていた。索田はいったん考えを振り払うことにする。


 三階の中央の部屋の前に着いた。索田は顔に笑みを貼り付けると、ドアノッカーに手を伸ばす。

 すると、戸はひとりでに勢いよく開いた。


「おや」

 索田の前に和登と失木しつきが飛び出してきた。

「せ、先生!」

「あらぁ、辰二郎しんじろうさん」

 二人が一斉に口を開く。索田が戸の前にいたのは意外だったようで、二人は急ブレーキでなんとか止まるも索田の胸に倒れ込みそうになった。索田は思わず一歩後退する。


「どうしたというのだい」

 事情が分からない索田はそう聞くほかない。表情を曇らせている和登よりも先に、失木が口を開いた。

「里佳さんが突然いなくなってしまったの」

 それを聞いて、索田は首をかしげる。

「しかし、失木さんが相手をしてくれたのだろう?」

 和登は索田を見ると少し安心した。索田は怒っていなかった。


「ええ、たしかにしたわ。けれど、その後なのよぉ」

 失木がのんびりと続ける。

「お兄さんのお話になってねぇ。暗い表情になったかと思ったら、姿を消しちゃったのよぉ」

 索田は黙って聞いていたが、失木が話し終わると普段通り口角を上げて言った。

「問題ないよ。想定の範囲内さ」


 索田は失木の黒髪を手ですくった。

「ありがとう。助かったよ。君は本当に魅力的だ」

 そう言って失木の髪に自身の唇を重ねると、髪から手を離した。失木はほほを染めて応える。

「うふふ、お役に立ててよかったわ。でもこんなこと、あまり人にしちゃダメよぉ」

 索田は目元で笑って頷くと、和登のほうに向きなおった。


「和登くん、これで最後にするよ。君の力を貸してほしい」

 和登は黙って二人のやりとりを眺めていたが、索田からの指名を受けると、失木に目礼もくれいして廊下へ一歩出た。そして索田にこたえる。

「分かりました。お役に立てるならば」


 索田は失木に笑顔を贈ると、和登に目配せをして廊下を歩き始めた。

「じゃあ、わたしもここを片づけたら戻るわねぇ」

 失木は去っていく二人におっとりと手を振ると、里佳と歓談していた部屋へと引き返した。


 ――――――――----‐‐


 索田は和登を連れて書庫にいた。


 一面をびっしりと本で覆いつくされているこの部屋には、高いところの本を取れるようにと簡素な木製の階段が取り付けられている。同じように木で作られた机が二か所に置かれており、それぞれをムートンレザーの重厚なソファが囲っていた。

 その一つに腰かけている索田が言う。


「彼女は今、お兄さんと対面しているだろうね……ああ、やはりそうだ」

 索田は目に力を込め、眉間にしわを寄せている。その瞳は光を放っているように見えた。目の前の紙を見つめているようだが、焦点が合っていないようにも見える。

 一方の和登はいつもと変わらずただ背後から索田を見守っているばかりで、いかにも手持ち無沙汰そうだ。


「兄だなんて、可笑おかしいね」

 索田はせせら笑う。和登は同意も否定もせず、ただ索田が次の行動に移るのを待っている。


 索田の瞳は光を強くした。すると索田の耳には声が聞こえてきた。


――――……それから家事をなんでも完璧にこなしちゃう男の子にも。おいしい料理を食べさせてもらって、ふかふかなベッドで眠ったの。お兄ちゃんが作ってくれる食事と同じか、ひょっとしたらそれ以上――――


「ふふ、和登くん。褒められているよ」

 索田は顔を動かさずに言った。それを聞いてもまだ和登はじっと立っている。

「……俺には彼女から賞賛される覚えはありません」

「君はそう言うだろうと思ったよ」

 索田は和登のことを分かっているので、意外そうにもしない。

「スマートフォンがここにあるまま彼女だけが移動すると、二台に増えるのだろうか? それともあそこでは持っていないことになっているのだろうか。いずれにしても興味深いな……まあいいさ、後ほど確認してみよう」

 ぶつぶつ言っていた索田は、ゆっくりと目を閉じた。

 次に目を開いたときには、索田の目はすっかり輝きをを失っていた。


「彼女自身が創造した霧のなか。空野くうの海斗かいと――偽の兄と一緒にいる」


「承知しました。では」

 そう言うと、和登は索田から三歩離れた。腕をまっすぐ前に伸ばし、今度は和登が目を閉じる。


「やってみます」

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