第二章:言霊が紡ぐは幻なりや

第7話:歪んだ日常茶飯事

 ライシ・ヴォルトという人間はもうこの世には存在しない。

 これより生きるは祓御雷志としてであり、始まるのは第二の人生ではなく初の異世界ライフである――と、雷志がそう宣言してから、翌日のことだ。

 今日がその記念すべき異世界ライフの初日を飾るわけなのだが、主人公たる雷志の顔は決して穏やかなものではない。

 舌打ちをし、忙しなく爪先で床を叩いている。

 苛立っているのが手に取るようにわかる挙措に、エルトルージェも心配そうに雷志を見つめていた。

 しばらくして――「ホンマになんなんやこの家の連中は⁉」、と。ついに机に拳を叩きつける暴挙へと出た。衝撃に耐えられなかった机が、彼の|拳槌(けんつい)の形に従ってくっきり跡を作り上げる。

 これにはたまらずエルトルージェが駆け寄った。


「ど、どうか気を静めてくださいライシ様! お怪我をしてしまいます」

「あ、あぁ。すまんエルトルージェ。せやけど俺はどうしても許せへんのや」


 ここで、数時間前のことを思い出してしまった。エルトルージェに咎められて一度は冷静さを取り戻したものの、瞬く間に雷志の顔は怒りから険しい表情ものへと変わった。


 数時間前――。


 空はまだ東雲色で、屋敷もまだしんと静まり返っている。

 その頃から雷志は屋敷内を徘徊していた。午前五時になると、どいうわけか目覚ましよりも早く起きてしまう。異世界でもその習慣が消えることなかった。

 斯くして意識が完全に覚醒してしまい、時間を持て余してしまった雷志は散歩に出かけることにした。

 エルトルージェが用意してくれた衣服――「あまり目立ったんやなくて、普通かつ動きやすいのがいいんやけど」、と。彼の要望に応えてくれた一品に袖を通す。

 改めて彼女が優秀なメイドであることを認識する。着心地は、なかなかよかった。

 散歩は単なる朝食ができるまでの時間つぶしではない。今後のことについて、それを考えるためにも最適であった。


 まだまどろみの中にある屋敷は、しんと静まり返っている。

 もっと朝早くから活動をしているものだ、とは自分の勝手な思い込みであったと知った――「ぶっちゃけど、どうでもえぇけど」、と。雷志はすぐに思考を切り替える。

 散歩は単に朝食が出来上がるまでの暇潰しではない。今後をどうしていくか、雷志は決めていかなくてはならない。

 ライシ・ヴォルトとしてではなく、祓御雷志じぶんじしんと生きていく。そうと決めたならば、次に雷志は奪われてしまったモノを奪還しなくてはならない。


(俺はこれから、どうやって生きていくべきなんやろうな……)


 今の雷志には、生きる目的……理由と差し替えてもよい。

 それが欠如してしまっている。祓御雷志がこの世界で生きていくための目的、それを思慮するのに一人でいられるこの時間は、ちょうどよかった。


(エルトルージェが一緒やど、なんや集中できひんわ)


 隣で支えると誓ってくれた心優しきメイドに、最初こそ雷志も感謝していた。

 それがわずか数時間足らずで考え方ががらりと変わってしまう出来事に直面してしまう。

 事あるごとにアクションを起こしてくるエルトルージェ。食事の用意だけならばまだしも、食べさせようとしてきた時にはさしもの雷志も丁重に断りを入れている。

 世の中には、俗に言う、あーん、を渇望している輩がいる。

 雷志の身の回りにも、性を拗らせて妄想の海に漂う友人もまぁちらほらといた。

 そんな彼らが雷志を見やれば、たちまち殺意の衝動に駆られるであろう、と安易に想像してしまい彼も苦笑いを作るしかない。

 それはさておき。

 食事のみならず入浴、更衣、果ては添い寝間でしようとしてくるエルトルージェ。

 これには雷志も問い質すのを禁じ得ず、以前からやっていた、とさも当然のように返答してきた彼女に過度の世話をしないことを約束させた。

 自分でできることは自分でする。着替えを手伝ってもらわねばならないほど、互いに子供ではない。

 とは言え、これからもエルトルージェを説得していくのを、雷志は覚悟していた。

 渋々と承諾こそしてくれたエルトルージェであったが、顔はまったく納得していない。


「あれはどう見ても、次の手を考えてますって顔やったな。まったく……俺の身にもなってくれっての」


 正直に言うところ、エルトルージェはとてもスタイルがよい。

 年齢はやはり同年代で、しかし雷志の周りにいた同級生でも彼女に勝るプロポーションの持ち主はいなかった、何度も記憶を掘り起こしているから、これは間違いない。

 豊満な胸を押し付けるようにしてくるのも、エルトルージェは常日頃からやっていた、と答えている。こういう部分に関しては、ライシ・ヴォルトが羨ましい――雷志自身であるのだけれど。


「勝手な時だけライシってのは、あまりにも虫が良すぎるなっと……」


 神々しい陽光が、山の向こうから差してきた。

 あまりにも眩しかったから、手で顔を隠しつつ雷志は東の空へと目をやった。今日という一日が始まる。

 屋敷の方からも、徐々に活気が目立ってきた。眠りに就いていた住人らも活動を始めたのだろう。そろそろ戻る頃合いだ。

 小さな溜息を一つ。雷志は来た道を戻る。屋敷へと足を向けた彼の心境は穏やかではなかった。どうせだったらこのまま帰りたくないとさえも思ってしまうほどに、表情かおには疲労感が濃く示されている。

 兄を見下しているのが愚弟だけ、と思う雷志に追撃する者が現れたのだ。

 ヴォルト家の絶対権力にして当主であり、認めなくない本当の両親である。長男である雷志ライシを見やる瞳は、とても冷たかった。

 眼中にすらない、話すのも心底嫌で仕方がない、という挙措に雷志は気付く――「この屋敷で味方なんはエルトルージェだけか」、と。

 エルトルージェを同じ出来損ない同士仲良くしておけ、と吐き捨てた両親の冷酷さを目の当たりにして、優しい両親と妄想を描いてしまった昨日の自分を殴り飛ばしてやりたくなる。


「……さっさと、必要な知識身に付けてこんな家出ていったる。跡を継ぎたいんやったらあのボケに勝手に継がせたらえぇ。俺かてこんなクソな家はゴメンや」


 今は耐える期間だ。何もかもを失ってしまった雷志は、知識を得なくてはならない。

 ここは異世界である。魔法もあればモンスターもいる、はず。

 根付いている常識だけで挑めばたちまち死を迎える。

 それは愚の骨頂だ、自殺行為に等しい。

 必要な知識さえ手に入れたら、エルトルージェと共に屋敷を出る。その先に何が待ち受けているかを、雷志は知る術がない。知らなくていい、何もかもわかってしまっては、それはあまりにもつまらない。

冒険は、何が起きるかわからないから面白いのだから――「まぁそうなったら、家にあるモンちょこーと拝借はさせてもらうけどな」、と。人知れず雷志は黒い笑みを浮かべた。

 屋敷の中に入ってすぐに、耳障りな怒声が飛び込んできた。

 音の発信源は、雷志のすぐ目の前で起きている。


「おいウスヌロ! もっときびきび動いたらどうなんだい⁉」

「も、申し訳ありませんアルス様!」

「ったく、使い物にならないクズばかりなのかなこの屋敷にいる使用人は⁉」


 アルスが罵声を浴びせてられているメイドは、ただ平謝りだ。

 この屋敷では日常茶飯事な光景で、これだけでも雷志を大いに苛立たせたというのに、更になる怒りをこの後彼は憶えることとなる。

 平伏しているメイドを、アルスが蹴り飛ばした。女性を、ましてや顔を狙って蹴ったのである。

 メイドが蹴られた勢いで壁へと叩きつけられた、その瞬間。


「お前、何やっとるんや⁉」


 雷志はアルスに掴みかかると、彼の顔面を思いっきり殴り飛ばした。

 今まで数多く、喧嘩をしてきたことはあった。

 だがそれらはすべて言葉による暴力で雷志は解決してきている。故に感情任せに拳による暴力をしたのは、実に数年ぶりであった。

 拳に肉と骨を叩いた強い感触が伝わってくると、アルスが廊下をスライドダウンする様が見えた。頬を抑え悶え苦しむ彼を他所に、雷志はメイドの方へと駆け寄る。


「おいしっかりせぇ! 大丈夫か⁉」

「ラ、ライシ様……」

「血が出とるやないか! お、おい誰か! 誰かおらへんか⁉」


 雷志の一言に、この騒ぎを聞きつけたであろう使用人が数名駆け寄ってくる。

 頭から出血しているメイドを見やり事態を把握した彼らの行動は極めて速かった――「すまんけど頼むわ」、と。雷志が手短く伝えると、力強く頷いてメイドの処置を施していく。


「……さてと」

「うわぁぁぁ……い、痛いよぉ……!」


 使用人らが立ち去ったのを見届けた後、雷志は未だうずくまっているアルスを強引に起こした。彼の右頬が大きく腫れていて、少しずつ赤から紫へと変色していくのがよく見える。


「お前、自分が何やっとるかわかってんのか⁉ メイドや執事はお前の……いや、俺らの玩具やないねんぞ! 皆正当な対価をもらって、それに見合う仕事を皆してくれとんのや! それをお前は……!」

「騒々しいな。何をしている」

「あん?」


 威厳に満ちた声が廊下に響き渡った。


「元凶のおでましってところか……」

「ライシよ、貴様……自分が何をしているかわかっているのか?」

「アホな弟を躾とるだけですわ。常識がなってないガキは、一番嫌いなもんでね」

「あぁアルスちゃん! ほら、こっちにおいで!」

「うぅぅ……母様かかさまぁぁ……」


 泣きながら母親の胸に飛び込むアルスに、雷志は頬をひくりと釣り上げる。

 アルスとは三歳年下で、その頃の自分は逆に一人暮らしをしてみたいと言って親と口論していた時期だ。

 その過去に照らし合わせてみると、アルスがなんとも情けなく見えてしまう。


(マザコンかいな……これでよく次期党首を名乗れたもんやで。完全に誰もついていかへんわ。しっかし……)


 母の豊満な胸に顔を疼くめているのだけは、羨ましくて仕方なかった。


「ライシ、アルスは貴様のような出来損ないと違って優秀な人材だ。このヴォルト家の未来がかかっている……それを傷付けるような真似をすることが何を意味するか、お前にはわかるか?」

「はっ! あんな内弁慶のマザコンなんが次期党首っていう時点でもう終わりやと思いますけど?」

「……口を慎め。その不愉快な喋り方をやめろ」

「関西弁を舐めんといてもらえます? これが俺の標準的な喋り方なんで、すいませんなぁ」

「貴様……!」

「あなた。まずはアルスちゃんの……」

「……この家での自分の立場を弁えろライシ。家畜と同然に生きるのであれば大人しくしておけ。不服であるのならば早急に出ていくがよい」

「はっ、そらどうも――このクソ親父」

「……夢現症候群むげんしょうこうぐん。まったく、厄介な病だ」


 憎悪でも吐き出すかのような口調で台詞を吐き捨てていった彼らの背中に、雷志は両の中指を立てて見送った。

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