第3話:運命の人

 ショーケースの中から赤い瞳で彼を見つめているのは、一人の少女。

 対がいないから未だ運命の相手と巡り合えていない彼女に、雷志は異常さを憶えざるを得ない。

 明らかに他とは一線を画している。


(な、なんやあの作品⁉ ストレスとか溜まりに溜まって爆発した勢いで作ったんかいな)


 他の作品にはある華々しさや、勇ましさ、可憐さなどが微塵にもない。

 薄暗い地下洞窟を彷彿とさせる世界観(ジオラマ)、わずかな隙間より差し込むライトの光が照らしているのは【彼女が紡ぐ言葉は災いか祝福か】――この作品の主人公である少女にんぎょう。手足を鎖によって拘束されている。


(なんでこれだけ、こんな感じなんや……?)


 ショーケースまで歩み寄る雷志。ふと、冊子を手に取る。

 何かここに彼女に関する情報が記載されているに違いない。

 そう踏んでページを開いた雷志の眉間に、シワが寄せられる――「なんも書かれてへんやん」、と。雷志が手にした冊子には、文字一つすら記載されていない。

 どれだけ捲っても、晒されるのは真っ白なページばかり。

 またしてもここで、雷志は女へと尋ねようとした。

 彼が振り返った時には既に、待っていましたと言わんばかりに、嬉々とした顔で口を開こうとしている最中であった。


「この物語を紡いでいく相手が、どうやら見つかったようですね」

「へ?」

「おめでとうございますお客様。お客さまがこの娘の運命の方として選ばれました」

「は? ちょ、俺ェ……?」

「はい」

「いやいやいやいや! ちょ、ちょっと待ってくれへん? いきなりそんなこと言われてもやな、どうリアクションしたらえぇかわからへんわ!」

「お客様? お客様もこの娘を見た時、何か不思議な感じがしませんでしたか?」


 女からの指摘を受けて、雷志ははっとする――「そう言われてみれば……」、と。彼の中でも思い当たる節があった。

 先のあの人形を一目見た瞬間から、どうも気になって仕方がない。

 他にも魅力的な作品ばかりであるのにも関わらず、雷志は人形が宿すあの赤い無機質な瞳から目を離すことができなかった。


 たかが人形である。

 人形を初めて目の当たりにした好奇心旺盛な幼子であったならばいざ知らず。

 祓御雷志はもうすぐで未成年から卒業しようという年頃だ。

 一度は惚れた身なれど、現実を直視してとうに見るだけに留めておこうとした雷志の心中では、ある一つの感情がふつふつと沸きつつあった。


(……この人形、めっちゃほしい)


 この時、生まれて初めて雷志は強い盗欲を憶えた。

 たかが女一人。相手の方が大人と言えど、男と女なら体格も力もまるで違う。

 強引に盗むことは不可能ではない。そんな危険すぎる思考を、雷志は理性によって留めた。如何なる理由があろうとも、犯罪に手を染めることは、人の道を踏み外すことだけは絶対に許されない。

 一時の欲を優先して後に残る絶望と対峙するだけの勇気がないことを、雷志は誰よりも理解していた。


(アカンアカン……何危ない考えしとんねん俺。盗むとか完全犯罪やんけ)


 咳払いを一つ。雷志は女に言った。


「そ、そろそろ行かせてもらうわ。よぉ考えたらオカンも飯作ってる頃やろし早よ帰らなめっちゃ怒られるわ」

「まぁ……それはそれは」

「そんじゃ、俺はこれで。面白い作品見させてもろてありがとうな」

「えぇ、ではまた……祓御雷志さん」

(なんや……あっさりと帰らしてくれたな)


 女に見送られながら雷志は【夢幻の如き遊戯場】を後にした。

 空を覆っていた暗雲は晴れ、隙間より暖かな陽光が地上へと差し込まれていた。

 濡れることなく帰宅できることに雷志も安堵の息をもらして――「あれ?」、と。疑問を孕んだ声を吐くと共に、ゆっくりと雷志は【夢幻の如き遊戯場】へと顔だけを向けた。

 閉ざされた扉を凝視する彼の顔は、見る見るうちに青ざめていく。


「なんであの人……俺の名前知っとったんや?」


 入店してから現在に至るまで、雷志は女に名乗っていない。この事実に気付いた雷志は、そそくさと逃げるようにその場から立ち去ることを選択した。


「なんや、関わったらアカン人と関わってしもたかもしれへん……」


 最後に、雷志はもう一度だけ【夢幻の如き遊戯場】へと振り返った。窓の向こう、あの女が外を覗いていた。手には件の人形が大事そうに抱えられてる。


「ヤバいヤバいヤバいって‼」


 何が危険ヤバいのか、雷志にはその理由がわからない。だが彼の中に備わった危機察知能力――本能は激しく警鐘を打ち鳴らしていた。

 遠く離れているのにも関わらず、近くで見つめられているかのような感覚がどうしても離れない。

 雷志はそれから振り返ることなく、全力でその場から離れた。




 時刻はちょうど午後五時を指し示したばかり。

 蒼かった空も今や茜色へと移り変わり、赤々と輝く夕陽に向かって飛び立つ烏がよく見かけられる。

 夕刻の商店街は、多くの人で賑わっていた。

 今から帰宅する者、遊ぶ者、などなど。とにもかくにもその賑わいはさながら祭りのようであり、雷志の日常を構築する景色でもあった――「ようやく帰ってこれたわ……」、と。近くのベンチにへたり込むように雷志は腰を掛けた。【

 夢幻の如き遊戯場】からここに至るまで、全力疾走してきた。

 途中で息が切れて、脚が棒のように固くなった。その度に彼の肉体は休息を取るように命令を発したが、雷志はこれをことごとく無視した。

 【夢幻の如き遊戯場】での出来事により生じた恐怖が圧倒的に彼の心中を支配していた。

 とにもかくにも、安全な場所へ逃げたい。

 その場所というのが、雷志がいつも目にしている日常風景である。

 ようやくその日常へと己が戻ってきた。理解した途端、これまでの疲労がどっと雷志に押し寄せる。

 滝のような汗を流して息も絶え絶えな雷志を、通行人は怪訝な眼差しを送っていく。

 その視線にいちいち反応を返せるほど、今の雷志には余裕がない。身体を休ませる、それを何よりも優先させた。


(……大分落ち着いてきたな)


 呼吸もわずかに乱れてこそいるが、息苦しさを憶えなくなってきた。

 汗も引いてきて、逆に肌寒さを感じる。充分に休息を取れたと判断して、雷志はベンチから腰を上げる。

 休息してから凡そ三十分で、商店街はより一層賑わいを見せている。


(そろそろ帰らなオカンがうるさいな)


 彼の脳裏には、今頃夕食の支度をしているであろう母の姿があった。エプロン姿がよく似合う、齢四十であるというのにまったくそう見えないことで近所ではちょっとした有名人でもあったりする。

 そんな母が作る料理が、雷志は何よりも大好きだった――「早よ帰ろっと」、と。軽快な足取りでスタートを切る。

 たったった、と地を蹴り上げて疲労をもはや微塵も感じさせない。通い慣れた道をすいすいと進んでいく。

 そうして、雷志は遠くにある自宅を視界に捉えた。灯りが点いたリビングでは、母が料理している姿がちょうど見えた。


(今日の飯はなんやろなぁ)


 タイミングを見計らったかのように、雷志の腹部から腹の虫がくぅくぅと情けなく鳴いた。一刻も早く、この腹の虫を満たしてやらないとやかましくなる。意気揚々と雷志は我が家の扉をついに開け放った。


「ただいまー!」

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