肩を並べた一時

 サイの歪んだ笑みなど見たのは、初めてのことだった。

 アゥトブは何も言えずに、再び歩き出した。

 声をかけずとも、サイが隣に並ぶのは分かっている。

 用があって探しに来たのだし、その理由を作ったのは自分だというくらいは理解していた。


 俯き気味にサイは、アゥトブの隣を歩く。

 しかし会話はなかった。


 何かを含んだように、むにゃむにゃと口は蠢いている。

 言葉を吟味するよりも、思いついた端から口にするのがサイだ。言い辛いことがあって、言葉を探しているのだろうが、それもあまりないことだった。

 いい加減に、文句でも叩きつけられるのだとアゥトブは考えていたし、それも仕方がないと聞くつもりでいた。


 やがてサイから出た言葉は、予想を外れていた。


「一緒に植物、見てもいい?」

「……サイが、面白いものじゃない」

「それでも、いいの」


 前を向いたまま呟かれた、掠れたサイの声は、アゥトブの顔色を窺ってのものには聞こえなかった。


「分かった」


 だからアゥトブは、頷いて歩き出した。

 サイが追いかけ回るため渋々共に行動した幼い頃は別として、初めてアゥトブが自身の意思で同行を許可したことになる。


「ありがとう」


 力ない声で返したサイを横目に見れば、ますます苦い笑みを浮かべていた。


 アゥトブとしては、己が好き勝手に行動している自覚はあった。

 そして、それを誰かに邪魔されたくないのと同じくらいには、強要したくもない。

 だから、サイがアゥトブ自身に許嫁相手としての価値を見出し、こちらに合わせようとする態度そのものが煩わしいものだった。


 いつも一人に見えるアゥトブだが、幼いころからつるんでいた者と話さないということはない。

 彼らが狩りや、その練習と称した遊びで森にいた時にでも出くわせば、近況などの情報くらいは交わすものだった。

 アゥトブは、大人が推奨するよりも少々遠くまで森を観察してまわっていたため、彼らが欲しい獲物に関する各地の情報を持っていた。アゥトブも彼らの行き先が観察区域と重なるなら、あえて避ける意味はなく、共に出かけたりもした。

 だからといって、次に出くわした時に無理に誘ったりはしない。男同士であれば、それで終わる話だ。

 女の言う譲った、合わせた、という言い分は、だから次は自分に譲歩しろという意味をしばしば含んでいた。そして母親も含めた彼女らの、その内に変わるなどという幻想によって、行動の矯正を試みようと接されれば閉口もする。受け入れる気はないから、初めから断るのだ。

 少なくとも、初めから伝えておく事が、アゥトブなりの気遣いであった。


 しかし、いつからかサイだけは、自ら好んでアゥトブに合わせようとした。

 悪意や恩着せがましさなどなく、幼い頃のような実害もないために、アゥトブとしては対処のしようもなく苛立たしさだけが募っていった。

 何もしていないというのに、自分が誰かの行動を縛る結果になるなど、耐えがたいことだったのだ。

 いっそ、わざと嫌われるような酷いことを言おうかと何度も考えた。


 それでも、これまではアゥトブも、ここで暮らす身ならと無用な争いは避けてきた。いずれはサイと暮らさねばならないのだろうと、漠然ながら考えていたのだ。


 しかし、婚約の儀に参加する資格がないと告げられた時、その思い込みは呆気なくも崩れて消えた。


 ――何も、この地に留まる意味はない。


 これまでの自分が、いかに掟に囚われていたのか気が付かされたのだ。

 目が開かれた瞬間だった。


 実のところアゥトブは、望んで資格を失ったわけではなかった。

 なんせ一人で森をうろつくからには、獣との遭遇を想定し武器を持ち歩いていたし、当然ながら狩りに関する知識も学んでいた。

 同世代とは狩りに出かけることがあったため、父親から「狩りに参加してるのか」と言われれば、「参加してる」と答えていたのだ。

 会話の少ない父子故の不幸な行き違いだった。


 もっと早くに行く末を明確に思い描いていたならば、サイに無駄な夢を見せることになどならなかったのだ。


 そこだけは自らの落ち度だ。

 今は消沈した様子のサイと肩を並べ、黙って歩いた。



 ♣♣♣



 今でこそ、確かにアゥトブは植物の細部まで観察し、日帰りできる範囲で森をさまよい歩いているのは事実だ。

 だが、植物そのものに興味があるわけではなかったし、それを誰かに伝えたことはない。


 アゥトブが観察しているのは、葉脈に絡むような、目には捉えられない流れだ。

 森葉族の持つ森の中で狩りをする為にあるような風を読む耳は、視界に入らないものの形を、受け取った情報から脳内に描き出す。

 その感覚を研ぎ澄まし、集中して一点へと耳を向ければ、鼻の奥に微かな刺激を受ける。何かの流れを追っているというだけでなく、受け取ってもいる。

 それは、魔素と呼ばれる、生物の体内に存在するものだ。


 初めて森を探検した時に見付けた塀の木々の中、高い位置にある洞が気に入り、そこで遊ぶことが多かった。

 高い位置に見える枝葉や、洞を半分隠すように垂れかかる蔦草などが、冒険心をくすぐったのだ。

 そこで過ごしていた数年後、アゥトブは、ある違和感に囚われた。見ている景色は同じはずが、何かが間違っていると思える奇妙な感覚だ。

 自然の風景が、同じ様相でありながら完全に同一であることなどないだろうが、それとも違う。

 用心深く見る内に、アゥトブは違和感へと手を伸ばす。


「蔦……?」


 掴んだ蔦草は、蔓が随分と太かった。それでいて葉の部分は元々のままながら、厚さだけが増している。初めて来た頃より、身長も伸びていたアゥトブだ。本来なら、記憶より小さくなったと感慨に思うのが普通だろう。

 そこで、同じものが変容していると気付いたのだ。


 初めは何かの病害かと考え両親に確認もしたが、植物が一定の大きさを保っている方がおかしいと言って笑われただけだ。

 それからアゥトブは、蔦以外にも目を向けるようになった。確かに両親が言うように、同じ種類の木々が同種と判別はできても、同じ形状をしているわけではない。それに、多くの場所に違和感はなかった。

 だが、そうして気にかけて眺めるようになったある日、別の草にも異常を見つけてしまったのだ。

 だから、それらについて両親だけでなく大人達に訊ねて回ったのだが、やはり答えは同じものだった。子供の言う事だからと、笑ってあしらわれて終わったのだ。

 自分の方が知識に乏しいのは当然だろうと引き下がったものの、一度気にかかったことが頭から離れてはくれなかった。


 それから、以前は洞の中でよく見た虫が目に付かなくなるといった変化があった。腐りかけた水溜まりの上で塊をつくっていた羽虫が、太ったために地に這っているのを見かけたこともあった。

 植物だけならば大人の言う通りと納得することもできたが、虫もとなれば、何かがおかしいと考えざるを得なかった。

 以前はなかったことから、ここ数年の内に始まった異変ではないかと思われた。


 しかし、あるものは異常を示し、あるものに変わりはない。

 そこで、異常を見つけた草同士に共通点がないかと観察するようになった。

 変化がないものとも比較するなどして、長い事眺め、魔素量の違いに目を付けた。

 生物全てに存在するものだ。そのまま伝えれば、その流れが少しばかり多いからなんだと言われるだろう。

 だから、より多くの事例を集めるべく、さらに森を徘徊するようになっていった。




 現在ほど理解の及んでなかった頃、大人達に訊ねて回ったために、長老にまで話が伝わってしまった。

 社会を乱す行動と受け取られたのだろう、大げさな反応をするなと窘められ、二度とその話をすることは許されなかった。

 今ならアゥトブも、その判断には頷ける。ただし、根拠のない話をしてしまったという点においてのみだ。

 だからこそ事実を知るべく、ますます励んだのだ。


 サイにも一度、それを伝えようとしたことはあった。

 付きまとうようになったサイから、しばらく逃げ回ることになった日々の後、両親にも仲良くしろと口うるさく言われたために仕方なく、『遊んだ』と伝えるためだけに二人で採取に出かけたときだ。

 サイも少しは、個々の性質の違いに気を回すことができるようになっていた頃だった。

 大人達は社会を守らねばならない自負のため、なるべく掟から外れることを考えもしない。同世代なら、まだしも柔軟な視点を持っているのではないかと考えたのだ。


 サイは珍しくアゥトブから話しかけてくれたと喜んで、内容を理解しているのか受け流そうとしているのかも分からない緩んだ顔で言った。


「え、植物が変? そういうこともあるんじゃないかなぁ。お母さんだって、時々少し太っただとか言って狩りに出かけちゃうし」


 特に期待をしていたわけではなかったはずだが、そこでアゥトブは自分で思うよりも深く落胆してしまった。

 それから共に行動することを避けてきたのだった。

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