続編 十一月の満月
あんなに暑かったのが今ではすっかり風が寒く底冷えした。
この日、僕は妻の陶子と喫茶ことりにやって来た僕は店に入ろうと玄関のドアノブに手をかける。
すると突然、呼び鈴の音色と同時にドアが開いた。
「あっ、いらっしゃいませ」
そう言った、ジャケットを羽織った私服姿の男性は僕の知っている店員だ。
彼は僕たちの顔を見て「どうぞ」とドアを押さえながら中に入るのを促すと、陶子は驚きながらも心なしか嬉しそうに会釈し入れ違いに出て行ってしまった。
落ち着いたレンガ色の内装をオレンジの電球色が仄かに照らす店内。奥にはひっそりとピアノが置いてあり、僕は後に続く陶子と共にそのピアノに近い席へと進むと向かい合わせで着席する。
早速氷に水が入ったグラスとお手拭きを持ってやって来たウェイトレスがメニューを手渡した。
「どれにする?」
「同じものにしましょう。その方が早く来るから」
陶子は目移りするメニューを眺めながらこれ、と指差す。
「たらこパスタはどう?」
「じゃあそれにしよう。それとお勧めのコーヒーを二つ頼むよ」
「畏まりました、それでは本日のお勧めをお持ちしますね。少々お待ちください」
注文を聞いたウェイトレスは僕たちの顔を見比べるように微笑んでいる。
妻と外食なんて久しぶりだったし、この店に連れて来たのも初めてだったのでそんな顔をしたのかな?
カウンターの奥へと消えていくウェイトレスを目で追いながら、陶子は店の奥にあるピアノへと視線を移すと皮肉まじりに呟いた。
「この店、ピアノが置いてあるのにことりなのね」
淡いブルーのブラウスにフレアスカート姿、緩く巻いた髪を一つに束ねここに来る為にいつもはしない格好をしてきた妻と向き合い、僕は年甲斐もなく照れ臭さを感じた。
くりっとした目で幼さを感じるも今では落ち着いた雰囲気の妻はまるで猫のような性格だった。普段は何食わぬ顔でいるのに時々好奇心を持ったように接してきて気まぐれに甘えたいときだけ甘えてくる。そのくせ些細な事でやきもちを焼いたりと、結婚した当初はまあそんな感じだった。
だが最近は日常に忙殺されてか干渉などほぼ無くなり一緒に居ても気にもせず、互いの時間を楽しむようになってしまった。
僕たちは既にそんな間柄なのである。そう思っていた。
「お待たせしました」
しばらくするとウェイトレスがたらこパスタを持って来た。
皿の上には薄紅色に染まったパスタが美しく盛り付けられ、その上に青
シンプルかつ一見地味な洋と和の組み合で出来た料理だが、ミートソースやグラタンほど重く無くどんどん食が進む。
「たらこパスタって、何気に最強よね」
美味しそうに食べながら同意を求める陶子は暫くすると、頃合いを見るようにこっちに目を向ける。
「ふーん」
彼女が皿の上でつぶになったたらこに絡まるパスタをフォークでくるくると回しながら猫のように何かを詮索している事に気付くと、僕は何気に意識を彼女に向けた。
「いつもこの店で他の女の子と会ってるのね」
唐突な一言で僕はサーっと血の気が引いた。彼女の問いに無意識に鼓動が早くなりながらもそれを気づかれまいとたらこパスタを頬張るのを止めず、こう返した。
「連れて来るのは仕事の女子社員だけだよ」
「ほんとに?」
「何だ、じゃあ君はそれを確かめる為にこの店に来たのか?」
「じゃあ貴方は何故ここに連れて来たの?」
「僕はこの店を君を連れて来たかった、それだけじゃだめなのかい?」
「そう、それで他の女の子と来てたんだ」
何も悪い事はしていないのに彼女の言葉が突き刺さる。
僕はただ好きなこの店を一緒に共有したいだけだ。お互い忙しかったのを今日やっと連れて来たのに、彼女からいつの間にか持たれていた疑惑を証明する為に此処に来たのでは無かった筈だ。
この状況を緩和させてくれるピアノが流れていないせいか、店内からはザワザワと会話が雑音のように聞こえて来る。
懐疑的な妻の目を逸らしながらも水の入ったグラスの淵に口を付けカラン、という音が鳴ると、突然僕達の席に誰かがやって来た。
「いつも来てくれてありがとうございます」
「あっ」
陶子は夫に声をかけてきたのが、さっきドアの前ですれ違った男性だと気付いた。私服でラフな姿だったのが今はきちっとしたシャツにカマーベスト、髪もちゃんとしている。
「陶子、この人がここでピアノを弾いている葉木さんだ」
「さっきはちょっと足りないものを買いに急いで出たんですよ。奥様ですか?この店は初めてですね」
「言ってくださいよ。僕はなにもやましいことなんて無いって」
「ははは」
冴えない表情で笑う葉木さんは「あっ」と突然思い出したような顔をすると、背を向けピアノの方に向かいながら言った。
「そうだ、お二人には今日にぴったりの曲を弾きますので‥ちょっと待って下さい」
ピアノの音色が静かに流れ出す。たらこパスタを食べ終わると、二人分のコーヒーが届いた。
深いコクのある苦味の中にもチョコレートのような甘い香りがする、二種類のベトナム産の豆を合わせたというブレンドコーヒー。それを飲みながら一つ一つの音色を紡いでいくメロディーを聞いていると、段々心が落ち着いてくる。
すると陶子は何かに気付いたように呟いた。
「この曲‥あの曲よね」
流れてきたのはとある女性歌手の『フロストムーン』というタイトルで、「十一月の満月」という意味を持つ曲だった。
僕たちが付き合っていた頃‥今くらいの肌寒い季節にラジオ等でよく流れていたのだが、僕たちはこの曲に聞き入りながら、当時二人が歩いた街並みを思い出した。
夜の駅前はクリスマスに近かったけど今のように賑やかでは無く割と静かだったのだが、ビルの大きなディスプレイにこの曲が流れていた。
後にこの歌手は他にも有名な曲は沢山あるけど、陶子はあの時とあの曲の事を幾度か話してくれた。夜の街を歩いていた時にこの曲が流れていたというただそれだけの事なのだが、彼女にとってはこっちの方が思い出深かったのだ。
次第にピアノの音色に惹かれていった陶子は葉木さんに興味を持ったのか、スマホを手にこの店や彼の名を検索してみた。だが彼の経歴や詳細は特に何も出ない。
すると、彼女は猫のような気まぐれな表情で葉木さんと話しても良いか聞いてきた。
僕たちは曲の合間に葉木さんに声をかけると、陶子はこう尋ねる。
「この曲を弾いたのは偶然じゃ無いですよね。どうしてですか?」
「それはですね、以前彼から聞いていたんですよ。今度妻とこの店に来たら弾いて欲しいって」
「そうだったの‥」
どうやら僕の誤解は解かれたようで内心ほっとした。そもそも浮気なんてどれだけ社内の女子におごっても次の出会いなんかある訳無いのに、勘違いも甚しすぎる。
でも無関心な関係だと思っていた妻が焼きもちを妬いていたから良かったのだろうか。
「葉木さん、この店をもっと貴方のピアノで売り出せばお客さんも増えると思うわ。ここにも一人、ファンが居る事だし」
葉木さんに提案しながら横目で僕を見る陶子に彼は冴えない顔で笑う。
「いやぁ、あくまで主役はお客様なので」
店を出ると、陶子は申し訳ない顔をしながらも猫のような目でこう言った。
「たまには私も連れてきてね」
「解ったよ」
そう言うと彼女は気まぐれに体をくっついてきた。
家路に向かう僕たちは気にもしない間柄になっていたが、肌寒いこの日は心なしか寄り添いながら街を歩いたのだった。
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