喫茶ことり
嬌乃湾子
喫茶ことり
ここは僕が平日によく来る馴染みの街だった。
歩きながら外から店内の様子をガラス越しに覗く僕は、中の賑わう人々を目にする度にここも満員だと自覚すると幾度も店を通り過ぎ、途方もない顔で視界の行き交う人々からふと目を外した。
水色に近い淡い空が広がり、所々千切れたような雲の間の柔らかな日差しは既に真上から傾き始める。
ほ〜〜〜〜〜〜けっきょけっきょっ
どこかでウグイスがまだ未完成の歌声を披露しているよ。
道路沿いに咲かせた白木蓮の木に止まる鳥、あれは何の鳥だろう?
そう見上げると視線を感じた鳥はすぐに何処かへ飛んで行き、眼を追う隙も与えず視界から居なくなる。
仕事の得意先を回っていた僕はお昼にしようと店を探していた途中だったのだがこの時間、ご飯を食べる所は何処もいっぱいで中々入れる店が見つからない。
肌寒い筈のこの季節でも常日頃から自分の臭いには気をつけているものの、汗ばんできだしたシャツの首元のネクタイを緩めながら今日に限って‥‥と焦りながら辺りを見渡した。
そうこうしているうち、一つの喫茶店を目にした。
名前は「喫茶ことり」。一見おしゃれだけど目立たない外観の店だったが、散々歩き回った僕はそろそろ限界がきていたのでこの店に入る事に決めた。
カラカラカラーンという呼び鈴の音と共にドアを開けると、わりと広い店内に静かに流れるピアノのメロディー。奥の方で奏者がピアノを弾いているのだ。
同じ喫茶店でも有名チェーン店だと雑談をしに来る客が多いので余り落ち着かないが、この店の客は皆、店内に流れるピアノの音色に聞き入っているようで静かだ。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
上品なウェイトレスが来て注文を尋ねると僕はコーヒーとビーフカレーのセットを頼んだ。待っている間、暫くピアニストを眺めていた。
ピアノを弾いている彼は僕から見たら結構年上だが魅力的な男性である。
聞くと彼はソロピアニストの葉木さん。この店の専属だそうだ。彼は曲を弾く時もあるけど大体はポロン、ポロンと喫茶店の雰囲気に合わせて鍵盤を弾き、聞こえる音は押し付けがましくもなくとても心地良い。僕は、この後仕事が待っているという事も忘れこの世界に浸っていた。
「ここですか?先輩が言っていた、美味しい食事とピアノのお店って」
仕事周りで再びこの街に来ていた僕は、一緒に得意先を回っていた後輩の常盤さんを喫茶ことりに誘った。
彼女は最初、有名チェーン店じゃ無い店に入った事に少し戸惑っていたが、席に座ると徐々に店の雰囲気に魅了していき、一人で居るかのように奥から聞こえてくるピアノのメロデイーに酔いしれた。
「僕が誘ったんだから今日は奢るよ。好きなものを頼んで」
常盤さんは遠慮なく卵サンドウィッチに苺のシュークリームと紅茶セットを頼む。
注文を受けてやって来た卵サンドウィッチの柔らかいパンとふわっとした卵のハーモニー、続いて苺を混ぜ込んだホイップクリームと表面の生地の上だけをカリッと焼き目をつけた香ばしいシュークリームに僕の顔も見ることもなく絶妙な表情をしていく。
「よく入るね」
「甘いものは別腹ですよ」
僕の驚く顔を尻目に美味しそうに卵サンドウィッチを平らげた後に苺シュークリームを名残遅しそうに一口づつ口に入れる常盤さんはしばらくすると、紅茶を啜りながら小声で聞いてきた。
「先輩、結婚ってどんな感じです?」
女子の興味のある話題を振ってきたな、と思いながら僕は少し考えると、手にしていたコーヒーを皿に置いてこう答えた。
「僕と妻は同い年だから、ほぼ対等みたいな感じだね」
「え?そんなの、当たり前じゃ無いですか?ひょっとして、年下だったら尊敬してくれると思ってるとか?」
「僕は一生懸命働いている事を妻に喜んでほしいと思うのに、それは違うのかい?」
「そんな事言ったら重いですよ。家事は奥さんでしょ?奥さんも、感謝はしてるけど、対等だときっと思ってます」
重い。そうかな?年下の後輩に軽くそう言われた僕は反論もせず、残っていたコーヒーを口につけながらピアノ奏者の葉木さんに目線を向ける。
彼女が食べ終わるまで二人の間には沈黙の時間が流れていた。流れるピアノの旋律で少しも苦痛にはならなかったが、暫くすると彼女は初々しい目で僕を見た。
「先輩、私がこの前ミスをして悩んでいたから連れて来たんでしょ。有難うございます」
何となく彼女を連れて来たのだがこんな風に感謝されるとは思ってみなかった。何も言わず笑顔で答えると、僕たちは店を出て仕事に戻ることにした。
それから数ヶ月後のとある休日、喫茶ことりの前。
「ここ?あなたが言っていたピアノのお店」
カラカラカラとドアを開くと中からピアノの音色が聞こえる。あの店に魅了された僕はまたやって来て、妻とこのお店の中に入ったのだった。
終わり
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