第3話 Trace
言葉をちゃんと選べているかと聞いて、はいと答えられる人はそれほどいないと思う。
どんな言葉が他者を傷つけるか、どれが自身にとって傷つく言葉なのか、それすら把握していないことの方が多い。
自分という存在を百パーセント把握することなんて不可能に近いから、与えられた情報だけで判断しなければいけないし、他者のことはもっと分かるはずがない。
どの言葉で怒るのか、どの言葉で喜ぶのか。そんなの他人次第だし、他人である自分が知る由もないんだ。
でも、言葉は選ぶものだと思う。無差別に言い放ったらどうなるか分からない。きっと誰かは傷つくだろう。
口から発しられる言語が喜びに繋がる可能性はどれくらいか、とか、そういうのは私が知るよしもない。知っているのは言葉が痛みを与えるということだけ。
どれほど年月が経ってもきっと覚えている。こういうのは理屈じゃない。
現実で歳を重ねようと、夢で一連の流れを見てしまおうと、痛いものは痛いし、消えたりしない。
――だったら最初から言わなければいいのでは?
そう思った私は口を閉ざした。そう思えるからこそ、私は未だに口を開かない。
それから、口もきけないのかという言葉を何回言われただろう。なまずのお面を被った怪しい男も言っていた。
唯一見える口元は楽しそうにつり上がっていて、記憶の中にいる彼女達を連想させてしまう。
『口なんてないんじゃねーの?』
『あの口かざりかよー!』
『にんげんなのに!?』
私の前の机に集まり、何がおかしいのか、笑い声をあげていた彼女達は、未だに脳裏にこびりついている。
『や、め……』
『ん? 今なんか言った?』
『えー幻聴じゃないの?』
よくあるいじめの、よくある光景だ。
『こいつが喋るとかないって!』
『喋ったら気持ち悪いしね!』
『そうだよねー!』
それでも、口を閉ざす理由としては充分だった。
男も彼女達も楽しそうになじる。目の前の人間がどれほど辛そうにしても、楽しそうに。
彼らに「痛い」という表現は伝わらないのか、それとも、「痛い」という表現を楽しんでいるのか。どっちにしても私には分からないし、分かりたくもない。
逆に彼女達も男も分からないだろう。
身体の震えを。乾いた喉を。聞こえる心臓の音がいつもより早いことも。零れそうな涙も。擦れる声も。怖いって感情が一番厄介で、自身を弱くしてしまうということを。
「あはははははははっ!」
突然聞こえてきた笑い声に、私は肩をとび上がらせた。
今は夜中だというのに暗い道を選んでしまったようだ。街灯と星の光しか見当たらない。静寂の空間には、私と見知らぬ男女の集団だけがいた。
集団はコンクリートで整えられた地面に座って、何かを話している。丁度街灯から外れている場所で、顔はよく見えない。
それがいけなかった。
(怖い)
もし、彼女達があそこの中にいたらと。もし、彼女達のように彼らが罵声を浴びさせてきたらと。そんな想像ばかりして、私の身体はまた小さく震えた。
意識しなくても足が速くなる。挙動不審に距離を取っていく。今の私には離れるべきだということしか分からない。
(怖い)
久しぶりだ、逃げることしかできなかったのは。もう後悔しないようにと、ずっと間違っていると思った相手には反論するようにしていたから。泣きたくもなるし、身体はやっぱり震えるけども。
私だって最初から弱虫だった訳ではない。ただ、哀しかった。それなりに頑張って言い返したりもしていた。
でも、全部潰されて全部無駄になってしまう。
その内諦めた。感情と一緒に口を閉ざせば、後はひたすら耐えるだけ、ただ終わりを待つだけだ。
(ねえ、駄目な人が息をしてはいけない世界ですか)
夜の空気が、冷たくて、痛かった。
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