藤原VS裏切りの神崎ひかげ

和田島イサキ

タマ娘 ステイヤーズ・ロンリネス

 裏切りには死をもって報いねばならない、と藤原は思った。

 思ってしまった。本当は思うべきではなかったというか、一般的な二十代女性の思考としては残念極まりないとは思えど、しかし突発的な感想に嘘はつけない。これは、背信だ。神崎ひかげはわたしを裏切った。あんなに一緒だったのに——と、気持ちが一度〝よくない方〟へと傾いてしまうと、もう転げ落ちていくのを止めることはできない。そう生まれた。そもそもが後ろ向きな性格なのだ。当の神崎には知るよしもなくとも、それが藤原という女の本質だった。

 自家中毒。なんでもないことを過剰に不安視してしまう、〝まずい方のわたし〟のスイッチが入ってしまった感覚。何年ぶりだろう、と藤原はほぞを噛む。直近のそれはもう覚えてないけど、最古の記憶は小学生の頃だ。あまり得意ではなかった体育の授業の、特に不得手なマラソンの時間。同じく運動の苦手な女子数名から「タマちゃんも一緒に走ろ?」と誘われ、それを頭から信じてしまうくらいには純粋だったあの頃。結果はまあよくある話で、もともと「私たちは座学ができればそれいいから」くらいの自認でいたはずのインテリ少女たちの、でもゴールを目にした途端に発火する闘争本能。まるで芥川の蜘蛛の糸もかくやと言わんばかりの光景。みるみる小さくなるみんなの背中に、わけもわからぬまま抱いた「どうして?」という疑問が、いま再び藤原の胸中に吹き荒れる。


 ——これは、裏切りだ。

 ひかげちゃんはわたしを裏切った。

 結局、ひかげちゃんもわたしを置いていくんだ——。


 それは日曜の昼下がり、藤原の住まう自宅アパートでのこと。

 綺麗に整頓された部屋の中央、小さなテーブルを挟んで向かい合う女ふたり。藤原と、そしてその親友、神崎ひかげ。この神崎という女は少し変わった武勇伝の持ち主で、なぜかやたらと猛獣に襲われては、そのことごとくを撃退してしまう。それも、腕ずくで——というか、酔った勢いで。人呼んで「限界酔拳の神崎ひかげ」、しかし平和な休日午後の私室、危険生物の登場する余地のない環境ではそれも故なきこと。少なくとも藤原はそう思っていて、つまり猛獣からも日々の勤労からも解放されたいわゆる「オフの日」、いまふたりの目の前に立ちはだかる〝敵〟は、テーブルの上に鎮座する予想外の物体——。

 切ったりんごを甘く煮詰め、その上にタルト生地を被せて焼いた後、ひっくり返して完成する西洋菓子。

 ——タルトタタン。

「いやぁその、そんなタルトとかタタンってほど大袈裟なものじゃないんだけどさ。でもほら、今日って、アレでしょ? タマちゃん」

 神崎の言葉。もじもじと、まるでイタズラをとがめられた子供みたいな仕草。藤原は思う。なにこれ珍しい、と。きっとこういうのを「がらにもない」っていうんだろうなあ、なんて、そんな考えはしかしいわゆる逃避というもの。逃げるな。直視しろ、テーブルの上のその〝現実てき〟を——ちなみにこの「タマちゃん」というのは藤原のあだ名で、それこそ小学校の頃からの呼び名なのだけれど、でもいまとなっては神崎くらいのものだ。常日頃、それなりに顔を合わせる付き合いの中で、藤原のことをその名で呼ぶような相手は。

 アレってなに? と、そう先を促していいものかどうか。神崎の言わんとすることを図りかねる藤原に、でもようやくのこと、神崎は意を決した様子でまなじりをあげる。

「——タマちゃん! お誕生日、おめでとーっ!」

 ぱぁん、とクラッカーの破裂する音。もとい、まるで﹅﹅﹅クラッカーが破裂したかの﹅﹅ような﹅﹅﹅音。藤原は思う。なんの音だろこれ、と。おそらく目の前の神崎から発せられた音には違いないのだけれど、しかし藤原の目に映る範囲にクラッカーと思しきものはなく、ならばいったい人体のどの部位からくの如き音が出るやら、それもなんらそれらしい動作もなく——と、そんな答えのない問いに頭を悩ますうちに始まる、お誕生日にはもはやお馴染みの歌。

 ハッピーバースデイ・トゥ・ユー。実はこの神崎、酔うと唐突に歌い出すことも少なくない。酒で程よく湿ったのどに持ち前の肺活量、加えて酔いが平素の照れ屋さんぶりをうまく打ち消して、その結果藤原は毎度のこと、

「どうして私生活のだらしない破天荒系のお姉さんって、みんな歌だけ異常にうまかったりするのかなあ」

 と、うっとり聴き惚れてしまう羽目になるのだけれど、しかしいまはそんなことよりまずお礼だ。

 ——ありがとうひかげちゃん! とってもうれしい! うれしいけど、でも——。

「これはあの、あくまでわたしの個人的な感想なんだけどね? もしかして、わたしの誕生日って、もうちょっと先の場合もあるかもしれない」

 というか、結構先かもしれない。なんなら全然かすってもない可能性も否めないかもしれない——という、藤原としてはおよそ持ちうる勇気のすべてを振り絞ったその発言、いつもの笑顔の裏に「あああごめんねひかげちゃんせっかくの好意をわたしが生まれてくる日を間違ったばかりに」という強い反省の念を押し殺しての命がけの指摘に、でも神崎は自信満々に胸を張る。

「ブッブー、掠ってますぅー。やだなぁ、私がタマちゃんの誕生日を忘れるわけないでしょ?」

 その後に続いた日付は確かに藤原の誕生日で、じゃあどうして、という疑問はしかし無駄だった。問いそのものが無意味であり無益、なぜなら神崎の言葉通り、少なからず掠っ﹅﹅ては﹅﹅いた﹅﹅のだから。

「私さあ、昔からずーっと思ってたんだよねー。お誕生日って、年、月、日のうち、月と日しか合ってなくない? だったら、もう日だけ合ってたら、お祝いしてもいいと思うんだぁ」

 神崎の言葉。藤原は頷く。そっかあ、確かに! ひかげちゃんすごい、すごいけど、でも——。

「うん! 日、かなり惜しかったと思う! 次はきっと当たるよ、ひかげちゃんなら!」

「でっしょー? 下ひと桁は合ってるから、つまり掠っ﹅﹅ては﹅﹅いる﹅﹅もんね。タマちゃん、おめでとー!」

 うんうん、とひとり悦に入る神崎に、でも藤原は思う。おんやあ? まさかもう出来上がってらっしゃる? と。まあ当然と言えば当然のこと、なにしろ相手は他でもないあの神崎だ。曰く、産湯うぶゆの代わりにワンカップに浸かった女、曰く、飲み過ぎのため火をつけると容易に爆発する人間酒樽爆弾ヒューマン・ボンベ。常に酒と共にあるのが彼女の人生で、だからその後の釈明は藤原からすれば正直、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない言い分。

「いやいや! やだなータマちゃん、知ってるくせにー。私、このごろ断酒してるんだってば」

 そういえばそんなことも言っていた、というか、それは他でもない藤原の勧めだ。ひかげちゃんこのままじゃ死んじゃうよ、と、具体的には尿酸値周辺の動きが独特の感性に彩られているよと、その藤原なりの気遣いから出た婉曲表現がしかし、かえって神崎の心の柔らかいところを直撃する結果となった。違うのそんなつもりはなかったのごめん、と、そう半泣きでぺこぺこ謝ったところでしかし覆水は帰らず、だから力なく項垂れる神崎の、

「どうして生活習慣の病って全部おしっこに出るんだろうね……」

 という呟きに、ただ藤原はひとこと「あ、そこなんだ」と思った。そっか、いくらひかげちゃんでもおしっこ関係のあれこれは恥ずかしいんだ——なんて、いま思えばここまで失礼な感想もそうそうないのだけれど、とまれ藤原は改めて思う。

 ——おしっこへっちゃら系ウーマン扱いしてごめん。でも、だからって〝これ〟はやりすぎだと思う。

 目の前に、タルトタタン。要は誕生日ケーキの代わりなのだと、そのくらいは藤原にだって当然わかる。そこじゃない。問題は、いま藤原の内心を千々ちぢにかき乱しているのは、それが「何か」でもなければ「何故」でもない。

 神崎が、それをどのようにして用意したのか。

「ひかげちゃん。行き違いがあるといけないから、ちゃんと確認しておきたいんだけど——」

 意を決し、どうにか絞り出したその質問。返った答えは、しかしもとより聞くまでもない。

「え? うん、さっき作ってきたの。ちょうどいい感じのりんごが手に入ってさ、いや久々だから勘を取り戻すのに苦労はしたんだけど」

 でも、味の方は大丈夫なはずだから——若干はにかみながらのその追い討ちが、藤原の脳天にグサリと突き刺さる。綺麗に入った。膝に来た。まるでこの間のお返しと言わんばかりの、お手本のようなクロスカウンターだ。

 ——作った﹅﹅﹅

 この、まったく非の打ちどころのない完璧なお菓子を、言うに事欠いて〝久々﹅﹅〟に?

 久々ってことはつまり以前にも経験があるってことで、それはいつから、どうして、どの女のために——際限なく膨れ上がる疑問の奔流が、藤原の脳と胸中を焼き焦がす。締め付けられる。ギュッと、あるいはドクンと、脈拍が不規則に跳ね上がるのがわかって、でもそれを無理矢理飲み込んでふわりと微笑む。こういうとき、いつも内心に唱える無敵の呪文——〝藤原は笑顔の似合う素敵な子です〟。なにはなくとも、特別やれることや目立った特技がなくとも、せめて笑うだけのことならわたしにもできる。やれる。目の前の誰かを、周りのみんなを、せめて不愉快にさせないことくらいは。

 深呼吸をひとつ。急な動揺、不意に訪れた激情の波を鎮めるのに、必要な時間クールタイムはおよそ六秒。慣れたもので、だからこれくらいはどうということはない。心拍が平常に戻るのを感じた後、藤原は神経を研ぎ澄ませ、己の心身の状態を確認する。

 手指は——動く。

 声は——出せる。

 平常心。問題ない。捌き切ったのだ、いまの強烈な一撃を。

 危なかった。腕力特化タイプだったはずの友人が、きっちり器用さ依拠の技能まで習得していた衝撃。藤原は神崎と幼なじみ同士で、しかし一時期少し疎遠になっていた間に、どうやら彼女にそれを要請したらしい何らかの過去。藤原は思う。あと数ミリずれていたら即死だった、と。掠っただけでこの威力、もし直撃していたら、わたしの豆腐のように柔らかいメンタルはきっと——。

「あっそうだタマちゃんそれとねうんとね、こっちはおまけのマカロンでー、まあこいつは暇さえあればモリモリ作ってるから間違いな」

「ぐわああああああーーーーーーーーーーッ!」

 突然の死。藤原は思う。お願い優しくして、と。野生の藤原は臆病な生き物だから、びっくりしただけで死んじゃうこともあるんだよ、と。

 マカロン。あの値ばっか張って全然量の足りない、しかも味までいまいちパッとしないあいつ。見た目ばっか気にしてまったく戦力にならない菓子サーの姫。お前そんなメルヘンチックななり﹅﹅して口に入れた途端『おばあちゃんちにあるお得用パックの落雁』みたいな味で攻めてくんのやめろと、こういうことを言うと大抵、

「それはお前が財布を気にしすぎて三流以下の紛い物フェイクばっか引いてんのと、あと舌が坊やだからさ」

 みたいなことを、なぜか直接言われることはないのにそういう空気が支配的で、まあ確かに高級品に挑む勇気はないしお子様舌なのも否定はしないけれど、でもそんなわたしでも生きていける社会が欲しい。わたしだってお天道様の下で堂々と生きたい。マカロンにくみしなかっただけでハイ残念お前はインスタでは一生キラキラできない方の人類ーみたいな、そういう烙印を押される世界は間違ってると思う。

 閑話休題。藤原は思う。マカロン自体は何も悪くないし、もちろん世のマカロン好きたちにも罪はない、と。むしろ今になって「言いすぎたかも、どうしよう」とハラハラ変な汗を流してしまうのはいつものことで、しかし目下の問題はそこじゃない。神崎だ。神崎ひかげとその裏切り。驚きから突然の死を迎えてしまった藤原を前に、さすがに驚いたか「ヒェッ!?」と飛び退く姿勢を見せた彼女の、その無敵の拳がこれらのお菓子を生み出したのだという、現実リアル

「びっくりしたぁ! タマちゃん、ぶちのめされた巨大ワニみたいな声出すね!?」

「ワニって鳴くんだ? ていうかぶちのめしたんだ?」

 どんなだった、という藤原の問いに、でも「ピンクだった」との返答。えぇーそんなマカロンみたいなワニいるかなあ、とは思えど、でもその実、藤原には彼女を疑う気持ちは微塵もない。神崎ひかげは嘘をつかない。いやまったくつかないわけでもないのだけれど、でも酔っ払いの嘘はわかりやすい。すぐバレる。少なくとも、藤原からしてみれば。そして神崎自身もそれを知っていればこそ、藤原相手につまらない嘘はつかない。

 そういう間柄だ。そんな付き合いを長年続けて、時には共に死線をくぐりさえした、そんな唯一の相手が言っているのだ。

 お菓子作ってきたよー食べてー、と。

 それも、久しぶりだから大変だったー食べてー、と。


 ——どうして。

 どうしてひかげちゃんは——どうしてひかげちゃんまで﹅﹅、わたしをひとりぼっちで置いていくの——?


 藤原は思う。あるいはこれが羨望であったなら、まだいくらかマシだったろうに、と。

 神崎ひかげは魅力的な女だ。いろいろたまらない女だと藤原は思う。常人離れした腕力と肝臓の持ち主で、またその印象通りに普段の生活は破滅的、でもその磊落らいらくさが彼女の魅力でもあった。あと、美人だ。藤原にとって、神崎に会うたび思うものの一度も告げられていないことのひとつに、「わたし、ひかげちゃんの顔が好き」というのがある。言えるわけがない。だって、どんな顔して、そもなんのために。とにかく神崎は美しい女で、強さを始めとした様々な美点を備えていて、だからこそ藤原はつい、考えてしまう。

 引き換え、わたしは何、と。

 虫?

 とまでは、さすがに思わないにしても。しかし藤原には何もない。少なくとも藤原自身の自己評価として、「猛獣を素手で殺せる力」に匹敵するような美点は。また、そんな過酷な戦いの日々を平然とこなし、なおかつその度に藤原の身ばかりを案じてみせる、その強さに裏打ちされた優しさも。

 人間関係における非対称性、一方的に守られるばかりの立場。そこに引け目を感じてしまう——と、別にそういうわけでは、全然、ない。当たり前だ。だって素手でクマだのサメだの殺しまくる方がおかしい。そのくらいの常識は藤原にもあって、だからただ漠然と〝この関係はそう﹅﹅いう﹅﹅もの﹅﹅〟と、なんなら「わたしも顔がいいのかもしれない」くらいに思っていた。一般的にはともかく神崎の趣味では、わたしみたいな顔がストライクなのかも、と。つまり、あまり真面目に考えていなかった。そういうものだ。人と人とが仲良くなるのに、誰かが誰かを好きになるのに理由なんてない。

 ——でも。

 それでも、そんな藤原でさえなんとなく、なにか「お互いの立ち位置のようなもの」くらいは気にすることがある。

 ひかげちゃんは素敵な女だけれど、でも行動があまりに滅茶苦茶だ。まだ若いのに尿酸値がもう〝終わり〟に片足突っ込んでいて、そんな生活を例えば破滅願望や自暴自棄の類ではなく、「えっ、これって普通じゃないの?」くらいの感覚で送っていた。大変だ。これはいけない。ああ、この子はわたしが修正してあげなきゃ——と、いま思えば失礼極まりないけどそんな思いがあって、また実際そのような付き合いを続けてきた。例えばこう、仮にわたしたちが姉妹であったとするなら、きっとお姉さんはわたしでひかげちゃんが妹なんだろうな、と、少なくともそれが藤原の自認だった。

 それだけに、そんな「デキる世話焼きお姉ちゃん」ポジションを自負していただけに、いま眼前に現れたその〝ふたりの世界の敵〟は、あまりにも強大かつ無慈悲だった。

 お料理の腕。というか、お菓子作りの技術。

 タルトタタンに、色とりどりのマカロン。聞いてない、なんて、そんなことはしかし当たり前の話。藤原は料理ができない。厳密にはできないわけではないのだけれど、しかし〝それ〟を目の前にしてなお「できる」と言い切るだけの勇気はなかった。藤原は思う。そういえば、自炊とかお菓子作りとか、そういう話ってあんまりしたことなかったな、と。ほとんど話題に上らないことを理由に、そして神崎の私生活の壊滅具合から、彼女も自分と同じなのだと思い込んでいた。そんなことはなかった、と、ただそれだけの現実がしかし、いまの藤原にはあまりにも重たく、強い。

 脳裏に蘇る小学校の頃の記憶。これは、裏切りだ。あの子たちはわたしを捨て駒にした。そう認めるまで、その行為が「背信」であると理解できるようになるまで、あの時は結構な時間を費やした気がする。土埃舞う小学校のグラウンド、平素のおすまし顔が嘘のように、闘争本能剥き出しの顔で競い合う少女たち。あさましく、醜く、でもどこまでも素直な欲望の発露。

 意味がわからなかった。幼い藤原にとってそれは、急に世界が壊れてしまったようにすら思えた。「どうして?」という問い、小さくなる背中のどれひとつとして、そこに答えを返すものはない。ひとり取り残されたグラウンドの真ん中、ゴールを目前にして座り込む幼い藤原に——怯えて泣きじゃくるあの日の自分に、でも藤原は未だ手を差し伸べることができない。怖い。だって、きっと彼女わたしは俯けていた顔を上げ、そのまま縋るように問うてくるだろうから。

 どうして? と。


 知らない。

 そんなの、わかるわけない。何年も経って、大人になって、まだ——。


「……タマちゃん? え、あの、だいじょぶ?」


 訝るような神崎の声。それは、藤原にとっては無意識のこと。どうやら漏れ出ていたらしい心の声に、つまり神崎からすれば意味不明であろう「そんなのわかるわけない」に、藤原の顔がさっと青ざめる。青ざめていた。きっと平素の藤原であれば。実際は違った。血の気が引くよりも早く別のたかぶりが来て、具体的にはポロリと目元からこぼれる何かがあった。

 つまり、泣いた。えっなんで? とは思えど仕方がない。人は処理しきれない量の情動をいっぺんに抱えると、どうやら自動的に泣いてしまうようにできているらしい——と、後々になって藤原はそう思うのだけれど、でもそのときはただ普通に「いや、なんで?」と思った。思っただけで済んでいればまだしも、相変わらず藤原は無意識だった。つまり口をついて出ていた。そのまま。思った通りに。

「ひかげちゃん。なんで?」

「ほんとだよ! いやごめん! ワニかな? タマちゃんワニが死ぬ系の話ダメだった? ごめんね?!」

 実のところこれは神崎の勘違いで、実はピンクの巨大ワニは彼女の想像以上にタフな生き物、実はトドメは刺せていなかったばかりか百日後に全快して再び襲いかかってくるのだけれど、でもそんなことは誰も知らないしどうでもいい。藤原は思う。そうじゃないよ、と。今のはただちょっとびっくりしただけっていうか、少し俗語的な表現になるけどいわゆる「解釈違い」というもの、ひかげちゃんはあくまでパワー系酔いどれOLでいてくれないとわたしの立つ瀬がないから——なんて、そんな情けないこと言えるはずもないからもう本当にどうしようもない。

 もしいまの藤原に何か言えることがあるとすれば、せいぜい、

「この世の中をォ! この世のアアーーーーンゥワアアァァアア! この世の中! 世の中をォ、えだい!」

 みたいな、もちろんそんなことは言わないのだけれどでもそういうことだ。どういうことだ?

 例えばこう、非が完全に自分だけにあり、対面の相手はもとより外部のどこにも責任の押し付けようがない、というような場合。人はもう、ただ滅茶苦茶に泣いて駄々こねまくるより他にどうしようもなくなるのだ、と藤原は知った。あるいは、思い出した。それは実に十何年か越しの感覚、すべてをぶん投げてご破産にすることで現実を認否するのは、まさにあの日のグラウンドで自ら取った行動。

 今なら、わかる。あの時、一歩も進めなくなったその理由が。ゴールを目前にしながらへたり込んで、戸惑い怯えるだけならせめて走り終えてからでもよかったはずが、それをしてしまうのが怖かった。その行為が、着順の確定が、同時に目の前の現実を固着させてしまうみたいで、つまりあの子たちの悪鬼羅刹の形相とその後の微妙な空気に、わたしが仕上げのエンドマークを打ってしまうのが怖かった。「どうして」という問いを、あるいは悲鳴を、でもギリギリのところで飲み込んだ少女わたしは、でもその後——今はっきりと思い出した、あのとき、泣いて震えながら笑ったのだ。笑顔。周囲を不快にさせないための基本の防御姿勢。笑っていれば嵐は過ぎる、笑顔でさえいれば幸せは返ってくるのだ、と、あれからずっと貫き通してきたその処世術はしかし、結局なんのことはない——。

 ただの逃避だ。と、藤原は今、初めて己の弱点と向かい合う。

 目の前に、あの日の自分。なり﹅﹅だけはすっかり大きくなって、でもなんら成長のないわたし。藤原は思う。変えたい。世の中は無理でも、せめてこの、どうしようもない後手後手の人生だけは。あなたにはわからないでしょうね、なんて、勝手に挙動不審に陥っておいてそんなことは言えない。言えなかった。少なくとも今日この日までは。だってあまりにも身勝手で、ぶつけられる側からすればただの理不尽、こんな筋の通らないわがままを他人に押し付けるわけにはいかない——と、その思いやりの皮を被ったみみっちい保身を、ただ嫌われるのが怖いだけの小さな自分を。

 いま、ようやく。試しに放り捨ててみる決心がついた。

 ——ひかげちゃん。

 こういうとき、どう言えばいいのかわからないけれど——。

「たすけて」

 結局、口をついて出ていたのはその言葉だった。依頼としてはあまりにも漠然とした表現、いや藤原とて他にもいろいろ考えたのだ。慰めて。抱いて。いますぐ滅茶苦茶にして全部忘れさせて。それらの具体的な指示があれこれ脳裏を巡って、でも「いやこれなんか違う気が」と思いとどまるだけの理性がまだ生きていたのは幸運だった。もっと素直に、ただ感じたままの要求をぶつけて、でも思えば〝彼女に助けてもらう〟ことなら、それはこれまで幾度となく繰り返してきたこと。

 あの時、グラウンドにはいなかった無敵のヒーロー、神崎ひかげはわたしを助けてくれる。

「オッケー任せて! よしよしタマちゃんいいこいいこ」

 それなら得意、とばかりに身を寄せてきた神崎の、その無敵の拳が炸裂する。具体的にはさっきチラリと藤原の考えたこと、そのすべてを即座に実践してみせる。抱っこしてよしよしして嫌なこと全部どうでもよくしてくれて、つまり抱く・慰める・滅茶苦茶にするの三位一体だ。

 藤原は思う。すごいなこの人、と。なんでいっつもお酒ばっかり飲んでるのにこんないい匂いするんだろ、と、神崎の胸に顔をうずめながらぼんやり思う。いい匂い。まるでラムのような甘い香り。ていうか、ラムの匂い。さっきタルトタタンから漂ってきていたのと同じ香りが、いま神崎の呼気からもりもり漂ってくる。これって。

 じっ、と唇を見つめる藤原に、神崎が一瞬怯んだような表情を見せる。そのままバツが悪そうに目を背ける——のかと思いきや、なんか「んっ……」と目を伏せた。ほんのり頬を染めながら、覚悟を決めて何かを待つような様子で。酔っている。

「……えっ? それって、つまり、余った分を処分するのも『飲む』に入る、ってこと……?」

 問い詰めた結果。それが神崎の言い分で、いやそんな言い訳ってある? とはしかし、思わない。当人に「言い訳」のつもりはなく、つまり神崎は心底本気でそう考えているのだと、その事実が藤原には手に取るようにわかる。だめだこの子、やっぱりわたしが正しく育て直してあげなきゃ——なんて、そんな誰にでも備わっているであろう普遍的な母性はさておき、藤原はつくづく思い知る。

 ——やっぱり、敵わない。

 ひかげちゃん、本当に無敵だなあ、と。

「そんなことないよ? いやー、だって格好悪いしさ、本当は内緒にしときたかったんだけど」

 あんまり得意じゃないんだよね、刃物って——そうひらひら振ってみせる神崎の手の、でもどこまでも滑らかで傷ひとつない指先。思わずこぼれ出た「何が?」という問いに、すなわち「だってこういうときは絆創膏だらけとかそういうのでは」という思いに、でも間を置かず返る「えっ? 何がって何が?」という返事。しばらくの行き違いの後、やがて示されたその答えは、神崎の見せてくれた一枚の画像。

「見てよこれ。りんごの皮剥くだけのはずが、何本もダメにしちゃったもん、包丁」

 ——無敵すぎでは?

「ほらー! 飲むからだよひかげちゃん! それで力の加減ができなくなるんでしょ?」

「はい! ごめんなさい! 反省してます! いやーでも余った分を処分するのはノーカンっていうか」

 本当に人間かなあわたしの友達——そんな考えをおくびにも出さず続けられる会話も、でもいつしかすっかり日常の光景。こんなんで本当にいいのだろうか、とは、でも藤原は思わない。迷わない。「タマちゃーん包丁の使い方教えてよぉー」と半べそかいてゴネる無敵の親友に、藤原はつい「しょうがないなあ」なんて笑いながら答える。知っている。本当にしょうがないのはわたしの方だ。彼女は本当に強くて美しい女で、だから教えられることなんて何ひとつあるはずもないのに。

 裏切りのタルトタタン。人知れず勝手に沈んで、そのまま囚われかけたいつかの心の傷を、でもそうとは知らぬままに木っ端微塵に粉砕してくれた拳。それも神崎自身の知らぬ間に、つまり藤原の中だけで、傷つくところからその救済と謝罪まで全自動で進んで、しかも最後にはなぜか藤原の方が「しょうがないなあ」とあふれる母性で赦免する形になっているのを、確かに、

「あれ? わたしたち、なんだかとってもドメスティックだね?」

 と思うこともある。が、しかしいずれにせよ同じこと。神崎ひかげは強い女で、そんな彼女にわたしはどうしようもなく惹かれているのだ、という、その事実だけはどうにも曲げようがない。

「それに家庭的ドメスティックなのはいいことだと思うし」

 だから刃物の使い方習おう、わたしも一緒に頑張るから——こうして一緒に通うようになったお料理教室で、ふたりは無事復活したピンクの巨大ワニの再襲撃を受けることになるのだけれど、でもそれはまた別のお話だ。

 藤原は思う。この関係がいつまで続くか、そもわたしたちの〝これ〟ってどういう関係なのか——皆目見当もつかないのだけれど、でも不安はない。「ひかげちゃんなら大丈夫」という信頼があって、そしてもうひとつ、「そのためにはわたし自身が彼女に着いていかなきゃ」という覚悟があった。あるいは、欲求というのが正確か。

 どうしても手放したくないからこそ剥き出しになる本能。泣いて立ち止まるだけでは何も解決しない、少なくともそれで困るのが自分だけという状況では、そんなのなんの抵抗にもなりはしないのだから。世界に置いていかれそうになったのならば、自分の足で食らいついていくより他にない。

 あの日のグラウンド。滲む視界に霞むゴールはまだ遠く、でもいまは見える。立ち上がり、我欲を剥き出しにしてまで走るべき、その理由がいまならはっきりとわかる。

 藤原は思う。これは、背信だ。ひかげちゃんはわたしを置いてけぼりにした。裏切りには死を持って報いねばならず、でもそのためにはまず追いつく必要がある。追い上げ、競りかけ、横に並ぶ。道の続く限りはそれができる。いつかいやが応でも訪れることになる報い、それがふたりを分かつまで、この追いかけっこはきっと終わらない。時には笑い合うように、また時には執着を垂れ流しにして、いつまでもぶつかり合えるのがわたしたちだ。

 もう藤原は待たない。手を引いてくれる優しい誰かを、ただの慰みでしかない甘い言葉を。

 足は——動く。

 腕は——振れる。

 やれるのか。自分に問う。

 応、と答える。ならば、走る。

 そういうことになった。

「ところでタマちゃん、急で悪いんだけど、今夜泊めてくんない? いやさあ、キッチンが爆発しちゃって……へへへ。お願い!」

 待って何したの、という問いはでも、ラムの香りの向こうに消える。勧められるがままに頬張ったタルトタタンの甘味。おいしい、という素直な感想と、しかしそれ以上に藤原の胸を揺さぶる、いろいろだらしないけど顔だけはいい女の「へへへ」の威力。

 なんという——。

 なんという、女なのか。

「たまらぬ女であった」

「タマちゃん? また無意識でなんか喋ったね? だめだよ? 戻って?」

 裏切りのタルトタタン。それが合図であったかのように、藤原と神崎は走り出す。

 同じ道を、どこまでも、いつか来たる甘き報いのときまで。


〈藤原VS裏切りの神崎ひかげ 了〉

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藤原VS裏切りの神崎ひかげ 和田島イサキ @wdzm

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