第14話 あなたは、犬に咬まれたことがありますか?

犬に咬まれそうになった話


とりあえず、色々センシティヴな話題は、脇に避けておこう。



 連日の天候不順の最中に、ようやく晴れ間も見えたある日の事。

私は、少し離れた場所にある、普段はさほどいかない公園に行った。

車でもよかったのだが、そこの公園は駐車場が狭いから自転車だ。


 本を2冊持って、ラジオも持って、スポーツドリンクも持って行った。

その公園には中央に東屋がある。周りは芝生。

公園の外周には未舗装の歩道。所々にベンチ。

東屋にはベンチというか、丸太を切って作った長い椅子状態の物が2つ。真ん中に大きな板で作ったテーブル。

まあ、よくある公園のひとつにすぎない。

 

 そこに荷物を置いて、少し深呼吸。

私は無人の公園で、すこし散歩してから、東屋に戻って本を読み始めた。

ラジオも付けていたが、暫くするとどう見ても、普通ではなさそうな老人がやって来て、濁声で何かを言った。

「え? 何でしょう?」

「おお、そこは犬の毛が酷いからなぁ、気を付けろよ」

私は気が付かなかった。

「ああ、ほんとうだ。随分たくさん、捨てたみたいですね」

 

 老人がそこを指さして言った。

「なんだかぁ、きたねぇよな」

白っぽい長い犬の毛が、東屋のコンクリートの床の外、丁度芝生の境にびっしり溜まっていたのだ。

 

 その老人は、まるでガラケーのような古い携帯のような機器を取り出して、いきなり何か音量を上げる。

聞こえて来たのは、プロ野球の中継。デーゲームってやつだった。

老人はにかーっと笑った顔。そして顔をその画面に向けていた。

 

 どうやら野球中継のTVだ。たぶん耳が遠いのだろう。かなり音量が大きい。

私は、ラジオを切った。まともに聞こえないのだ。やむを得ない。

相手に、音量を下げろとか言うつもりはない。


介護をずっと続けた母の時も、そうだった。TVの音が小さすぎて聞こえないと、悲しい顔をするので、無線手元スピーカーを買って、母の近くに置いてそこで音量をあげて母の耳に聞こえる状態にしていた位だ。

 

 私が、その野球中継のアナウンサーの声を聞きつつも、小説を読んでいた時だった。

はっとした。

いきなり小さい犬が、私の足元に来ていた。じゃれつくような様子の中、咬み付こうとしていたのが、はっきりと分かって、私は飛びあがった。

 「あーら。だめよ○○ちゃん。そこのおじさん、びっくりしちゃってるから、こっち来なさい」

笑いながら、見知らぬおばさんがゆっくり、やってくる。

犬にはリードが付いていなかった。

 

「こっち来なさいじゃなくて、リードを付けてください!」

「人がいるのに、リードなしで犬を放すのが常識のある人のやる事ですか!」

 私は、些か怒気をはらんだ声だった。

 

そのおばさんも、老人も、びっくり顔で私を見ている。

そのおばさんは、犬を拾い上げた。

私の顔が相当怒っていたのだろう。おばさんはしぶしぶ犬にリードを付けた。

「咬まれたらたまらないから、私は帰る!」

そう言い捨てて、私は東屋のテーブルに置いた荷物をすべて回収。

自転車に乗って、家に戻った。

 

 

 

 『あなたは、犬に咬まれたことがありますか?』

 

 

 私は、ある。残念なことに。

 

 私は子供の頃、犬を飼っていた。中型犬だ。血統書付きの猟犬の母親の血を色濃く引く雑種で、我が家に貰われてきた犬。

その犬は利口で、滅多にそれこそ必要のない時は吠えないし、咬むとかも無かった。

だが、私は中学の時に近所の家に回覧板を置きに行って、そこの飼い犬にがっぷり咬まれた。

その時の歯形が今でも左腕に残っている。

まあ、その時は家人が慌てて、私を病院に連れて行き注射が打たれたとか、そんな事があったのだが、それは細事で、どうでもいい。

ちなみに、この家の犬には長い長い鎖が付けてあった。運動不足にならない様に庭を駆け回れるようにしてあったのだ。

 

 まだある。

次は、高校生の時だ。

 

 婦人会の連絡を母に頼まれ、普段は行った事の無い家に行った。門の裏に置いて来いと言われた回覧板を持って。

 

門を開けて中に入った瞬間に、駆け寄ってきた白いスピッツにジャンプして咬まれた。

やはり防御しようと咄嗟に出した左腕だ。これもいまだに犬の噛み跡が、犬歯の跡が残っている。

 

 ここのおばさんは、常識外れだった。

出てきて、最初の一言がこれだ。

「あーら、うちの子は噛んでもいたくないでしょう? 甘噛みだから。 おほほほ」

ばっかやろう! こっちはガッツリ咬まれて痛いんだよ。血が出てるんだよ!

なーにが、甘噛みだ。ふざけんな。

正直、これがその当時の私のその場で思った事だった。今でも忘れていない。

おばさんは謝ろうとすらしない。


私は無言のまま、投げ捨てるように回覧板を置いて、家に帰った。

で、母にあそこの犬にやられたよと報告をすると、母はあーあという顔だ。

「だから、門の裏に置くだけにしなって言ったでしょう」

そういって母は、いきなり自分の服を腹の所だけ捲った。

その当時から母は少し腹が出ているのだが、そこにはガッツリと咬まれた歯と犬歯の牙の跡があった。

私のより酷い。


「あの人は、馬鹿だから言っても分からないのよ。だから中に入ったらだめなのよ」

母のその一言で、すべてを察した。


 ちなみに、その家は数年後にそこに住むことが出来なくなって、犬を手放し、何処かに引っ越したという。

その時には既に私は社会人になっていて、実家を離れ東京に出ていた。

後日、何があったのか私が尋ねても、母は話してはくれなかった。

 

 そして。まだあるのだ。

 

 もう、犬に咬まれたとかいう事を、ほとんど忘れていたある日。

会社帰りに寄った公園でベンチにヘタレこんでいた私に、やはり「リードの無い犬」が走って来て、私は咄嗟に右手でかばったが、その右手を咬まれた。

中型犬だった。

その後、飼い主が来たのだが、その時に犬は素早く、私の右手を離した。

それで私が犬をにらみつけると、飼い主がやって来て、私が何か酷い事でもしたかのような顔をした。


飼い主は若い女性だった。

その女性は逃げるようにして、犬と共に走り去った。

すみません、すらないのだ。


ワイシャツには犬歯の跡が付き、そこには血が滲んでいた。

狂犬病予防注射をしてあるかどうかすら、疑わしい。


その日は、アパートに戻ると、そのまま寝てしまったような気がする。

しかし、結構深く牙が食い込んだのは、否めない。暫くはかなり痛かった。

その跡が今でもはっきりと残っている。

そう、はっきりとわかる。そこだけ三角形で白い傷痕がぽつんぽつんと2か所。

 

 ……

 

 私がリードの無い犬に何故、咬まれるのか、さっぱりわからない。

私が攻撃的な事をした訳じゃないし、なにか食べ物を持っていた訳でもない。会社の仕事で疲れてベンチに座り込んでいたら、いきなり咬まれたのだ。

 

 犬に嫌われているのだろうか?

 

 

 そして。実は、もう1回あるのだ。

 

 この日は、休日で公園に行った時の事だった。

やや大きめの公園を散策して少し疲れたからと、公園のベンチに座った時だった。

遠くを見ていた私の脚に、痛みが走った。見ると小型のビーグル犬みたいなのが、私の足をがっつり咬んでいた。

右の足首だ。残念なことに、今でもこの踝の上の処に咬まれた歯形が少し残っている。


 うわっと大声を上げ、右手で払おうとすると犬は直ぐに離したが、今度はその右手を咬まれた。そこに、その飼い主であろう人物がやって来て、犬をさらう様に持ち上げて、逃げ去った。若い女性だった。横に男性も来たので、夫婦だったのだろう。

もちろん、『御免なさい』すらない。

右足首は少し血が滲んで、白い靴下には穴が開いていた。

そして右手は手首の裏側から15センチくらい肘の方に向かった場所に牙の跡が残っている。あの時に結構出血した傷痕だ。かなり痛くて、暫くは仕事でキーボードを叩くと、傷痕が痛かった。その後数日して、痛みはだいぶ治まったが、残念なことにいまだに傷痕は消えてくれない。

たぶん、これも一生消えないだろう。


 犬に本気で咬まれたら、どれだけ痛いのか、分っているのだろうか。

それを全く知らない人にやってしまう犬を飼っていて、謝りもしない。


もうあれからだいぶ時が経ってはいる。咬まれた最後の一件でも15年くらいは昔の事だ。


もう私はこういうリードを付けない人達は一切信用しないし、常識が壊れているのだと思っている。自分の飼い犬が他人を咬む、あるいはそのそぶりを見せても、さっと逃げるとか、へらへら笑っているような人は、おかしいだろう。



 あともう一つ。

 

「うちの犬は噛んでも痛くないでしょう?」

とかのたまう、犬にリードを付けないおばさんたち。犬を飼う資格がない。さっさと犬を手放してくれ。

本気でそう思う。


本気で咬まれたら、深く食い込んだ牙の跡が残るんだぞ?


しかも。この牙の跡は一生消えないのだ。


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