第3話 日の目を浴びる

『日の目を浴びる。』


この表現をどう思うだろうか。

正しいと思うのか。間違っていると思うのか。


普通な表現なら、『日の目を見る。』が正しい筈で、これを書いた人は間違ってるんじゃないかと言いたげなコメントをネットで見た。


そもそも、日の目とは何だか、知っているだろうか。

日差し、日光の事である。そうであるから最初の表現というのは、あながち間違っていない様に思える。


だが、これは間違った使い方だという。

何故なのかは、理由が書かれていた。

「日の目(太陽・日の光)」は受け身で浴びるものではなく主体的に見るモノだから、浴びるのは表現として間違いだと書かれていた。

脚光を浴びたと同じような使い方をしているが、完全な誤用だという。


それだと日光浴は間違いなのか?とか、文学でもたまに見る、「日の光を浴びた。(浴びる)」とかは完全に誤っているのか?

突っ込み所は色々ある様に見えるが、それも違う。


そもそも、表現としての「日の目」とは「太陽・太陽の光・日光(日の光)」その物ではなく、「日の目」は「世の中の表舞台に出てきた時、人々が注目する目線」等の「比喩」であることに注目する必要がある。

故にこれは主体的に見ているほうから使う表現である。


と言う事が、調べてやっと分かった。



日の目を見る方はことわざだ。


これまで、良い物だったにもかかわらず長く埋もれていたものが世に知られるようになる。または長い間不遇だったものが、『世に認められる』事を指す。

しかし、これは「良い意味で世の中や人々に注目されるか、されなかった」時にしか使わない表現。

悪い意味で日の目を見たとかいうのは、本来の使い方としては間違っている。


じゃあ日の目を浴びるっていうのは、何だ?っていう話だが。


この表現を使った人は、たぶん、こう言う事だったんだなとは思う。

これは「ソレ」が無ければ、日光を浴びなかった。だが、「ソレ」によって日光を浴びた。

つまり、その事によって、人にそれが見えた、また白日の下に現れた。


しかし。

日の目を見るとは明らかに意味合いが違うから、そう書きたかった気持ちは良く判る。


だが、単純に「脚光を浴びた」、または「脚光を浴びる事は無かった」、或いは「誰にも知られる事はなかった」と書いた方がよかったのだろう。



日本語とは難しい。


その表現が正しいのかどうか、1度は確認のために辞書を引こうと改めて思わされた。



追記:

私はそれでも、熟語とか漢字については辞書は引いている。

何しろあやふやなままだと書こうとして、手が止まる。

調べて難しい漢字もペーパーにボールペンできちんと書けると、なんだか安心する。

ついでに、正しい読み方も。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る