古い夢を見ていたのだと思う。あれは十年前。故郷の村にある教会の一室で心だけが肉体から離れ主である精霊王の元に呼ばれた夜の記憶だった。

 嵐が吹き荒れる夜だった。

 その夜、私は魔法がかかった部屋に招かれた。

 神秘的なその部屋には床に水路が刻まれ、その合間を縫うようにして静かに聖水が流れていた。それはきらきらと輝きを放ちどこからか部屋の中に注がれる星明りを写し取る鏡のようにも見えた。


「おめでとう、ライラ。君が水の精霊王の新しい聖女だ」


 神々の住む世界にある水の都エイジス。

 精神だけがそこに招かれた私は多くの神々とかれらに選ばれた聖女や勇者たちに見守られて水の精霊王の正式な聖女と認められたのだ。


「ありがとうございます。水の精霊王エルウィン様。水の神を統べる古き偉大なる金麦の竜王エバーグリーン大公の和子。我が主を褒め称えます」

「古い名を知っているな。先代の聖女はご苦労だった。これから十年。辛いこともあるだろうが務めに励むがいい。我が眷属よ」


 いま、水が多く流れるその床の上に私は立っている。

 言わなければならない。

 この悲しい伝統を私の代で終わらせるためにも――次代に続けることのないようにここで終わらせなければならない。


「……我が主よ」

「何かな、聖女ライラ?  その地位に就くことに何か強い意志があるように思えるがそれはこの場で広めても良いことか?」

「いえ……」


 人生は一度きり。

 選べるチャンスも一度だけのことが多い。

 でも迷うことはたくさんある。 

 たった一つの決断が、二つの心を生み、いくつもの後悔を生むこともある。

 言わなければならない。

 例えこの場で怒りを買い、この命を失おうとも。

 明日に昨日の後悔はしたくなかった。


「言うがいい。そなたの思いはここに並ぶ誰もが聞いている」

「……え? それはどのような意味ですか??」

「心の声というものは伝播するものだ。人知れず、強い思いは歩き出す。それを魔法や奇跡と呼ぶものもいるようだがな」

「我が精霊王様。私は人ではありません。この場に居並ぶ方々――他の聖女様や勇者様にも我が同族は見受けられません。それでもよろしいのでしょうか?」


 そうだ。

 私は蒼狼族。

 祖先は青き狼の神だともいうがそれは神話でしかない。

 この場には……同族は一人たりとも見受けられなかった。

 

「……確かにこの場に獣人は少ない。それはまあ……蒼狼族だけでなく、獣人そのものが魔族だということも含んでいる。だが、それも古い話だ。今は人と同じく我が民であることに変わりはない。言いたいことを述べてみよ」

「蒼狼族が……魔族!? あ、いえ――では……」


 面白いと思った。

 かつては魔だった存在が聖になるなんて。こんな皮肉はどこにも存在しないだろうから。

 希少な存在が、稀有な発言をする。いいじゃない、それが多分、私が聖女に選ばれた運命なのだろうとそう感じた時、迷いは消えていた。


「何かな?」

「十年という縛りを……聖女が十年周期で寿命を終えまた新たな者が選ばれる。この悲しき習慣を閉じていただきたいのです。このライラの代で終わらせてはいただけませんか。我が主よ」

「お前はまだ六歳だったか?」

「そう、ですが。それが何か?」

「いや……年齢の割に聡い子だと思ってな。我が母、先代の水の精霊女王がまだ風の精霊王の聖女だった時も似たような願いをしたという話を、ふと思い出した」

「御母堂様が、ですか」

「聖女というのはどこも似たようなことを考えるのかもしれん。氷の精霊王の聖女も同じことをはるかな昔にそう提案し、氷の精霊王を困らせていた。しかし、結界の維持はどうするつもりだ? 聖女がいなくなればあの国は結界を失うことになるぞ」

「……一つの思いが二つの道を生み出す、と父から習ったことがあります。それは成功と破滅の二つだと。そしてそこには限りがあるものだと。誰かの悲しみのうえに多くの喜びが成り立つことは果たして正義なのでしょうか。王国には主たる国王がおります。民の悲しみをいつまでも……」

「確かに、それを続けて王国が繁栄するのもまた、非道といえば非道だ。最初にそう条件を持ちかけて来たのは当時の国王だったがな? とはいえ、ライラ」


 主は優しくも強い視線で私の目を射止めていた。それはすぐには叶えることができないとそう、語っているようにも思える。では、どうすればいいのですか、精霊王様。私を送り出したときの家族の誇らしげで、それでいて二度とこの村には娘が戻ってこないと理解した、あの悲しみに満ちた笑顔をまた誰かにもたらすのが良いことなのですか?

 そう言おうとした時だ。

 彼は静かに口を開いた。


「では、こうしようかライラ。お前の家族の笑顔に免じて十年の歳月の後にさらなる人生を設けよう」

「さらなる人生とはなんでしょう? 一度死んだのであれば、それはもう亡者になるのではありませんか?」

「いや、そうではないよ。ライラ、お前には死した翌日に同じ肉体に蘇生してもらうこととしよう」

「そ、せい……、ですか?」

「そうだ。蘇生したのちに王太子の妻となるがいい。だがもう聖女ではなくなる。正妃ということは難しいだろうが、側室とはなれるだろう。彼が王となり、その治世が揺るがないように支えるがいい。いずれ訪れるだろう結界の緩みとそれに乗じてやってくる魔の到来に備えれるように。それができるというなら、聖女はお前の代で終わるということにしよう」

「ですが、それでは結界はその時点で終わるということは……?」

「緩めることにはなる。管理者が不在となるからな。だが一度あの王国に張り巡らせたあれはそうそう簡単には消えんよ。それでどうだ? 我が聖女ライラ。待つものがいないというなら、それを聞き入れよう」


 待つものがいない……その言葉を聞いて私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、故郷に残してきた家族ではなく一人の友人の姿だった。私が死ぬと分かっているのに待っていると、約束だと言ってくれた彼。その想いを裏切る痛みが最も激しく胸を打っていた。子供同士なんだから、もうそんな希望は持たないでおこう、彼もいずれは忘れるだろうと思い忘れることにしたのに。まだあの優しさにしがみついている自分が情けなくなった。

 一つの思い、一つ決断が二つの心を生み出す。

 それは歩み出す勇気と過去への後悔。

 あのとき、私は精霊王様に向かって静かにうなづいた。

 この悲しい伝統を私の代で終わらせることが――次代に続けることのないようにここで終わらせることこそが、私の務めだと信じて。


 

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