まったく憶えてない

鵠矢一臣

まったく憶えてない

 私は記憶を失っていた。

 幸いにお腹がへったらご飯を食べる、蛇口をひねると水が出る、といった生活に関わる記憶は残っていたが、姓名、年齢、出身、交友関係、思い出、直近の行動に至るまで、自らの存在を証明するような記憶も何一つとして思い出せない。


 山道をあてどなく彷徨っていたところ親切な人物に保護され病院へ。後日に受けた精密検査の結果は一過性の健忘ということであった。


「いずれ思い出すでしょう」


 医師の言葉を半信半疑で聞いてから診察室をあとにすると、最初に自分を発見してくれた人物がやってきてブラウンの革製財布を渡してきた。

 その親切な人物は、私を病院に送り届けた翌日、なにか手がかりが残ってはいないかと発見した付近を再訪してくれたらしい。道のきわにぽつんと落ちていたのだそうだ。

 コイン入れやカードホルダーが付いたタイプの札入れ。

 中には免許証や、おそらく自宅のものと思われる鍵が。免許の顔写真は鏡に写ったのと同じ、男性のふてぶてしい顔。私のものであることは確かなようだった。

 住所はこの街から新幹線で二駅と、やや離れた都会を指している。

 主治医やソーシャルワーカーと相談した結果、その住所から通える病院の紹介状と警察を含めた各種相談窓口の案内をもらって、ひとまずは自宅らしき家へと帰ることになった。


 最寄り駅から徒歩20分ほど。住宅街の一角、無理して片側二車線にしたような幅の道路に面したマンション。

 茶色っぽいレンガ調の外壁。築年数は浅くは見えないが、かといってすごく年季が入っているというほどでもない。一階部分に駐車スペースが設けられている、ありふれた六階建てだった。

 506。玄関ドアに貼り付いている金属で形どられた文字を見ても何の記憶も蘇ってこない。表札を見るかぎり、ここで間違いはないようようなのだが。

 鍵穴に財布から取り出した鍵を差し込んでひねる。

 カチャンと拍子抜けするほど軽い音を立てて開いてしまった。


 電気は消えている。カーテンが閉まっているんだろうか、かなり暗い。真っすぐ伸びている廊下の向こうでは仕切り扉が閉じており、それ以上先は見通せない。途中にも扉が三つほど。ひとつは浴室ないしは便所のものだろう。当たり前だが人の気配はない。


「おじゃまします……」


 自分の家だと頭ではわかっていても気が引ける。

 どのぐらい留守にしていたのだろうか、家の中は下水管からせり上がってきたのではないかと思われる黴臭さとはまた少し違う不健全な臭いが漂っていた。

 玄関が閉まると、途端に真っ暗になってしまう。

 壁にあった電灯のものらしきスイッチをカチカチと何度も切り替えてみるのだがどうも点いてくれない。仕方なく玄関を少し開けて光を取り入れると、玄関扉の上に分電盤を見つけた。だが中を確かめてみたものの、ブレーカーは落ちていない。

 訝りはしたものの、奥で閉まっているであろうカーテンさえ開けば光も入るはずと、私は玄関の隙間に自分の靴を挟んでストッパー代わりにすると、意を決して奥へと進んでいった。

 廊下の奥、おそらく開けばリビングへが現れるであろう仕切りドア。真ん中にすりガラスがはめられているのは玄関からもわかったが、近づいてよくみると、どうやら向こう側に紙か布か、とにかく何か黒いものが貼ってあるのがわかった。

 もちろん、そんな事をした記憶はない。

 文字通り先の見えない不安に、唾を飲み込んだ。

「自分の家、自分の家」と繰り返しつぶやきながら、ノブを回しゆっくりと引いていく。

 中は真っ暗だ。閉じたカーテンと窓のわずかな隙間から微妙に光は漏れているが、なにか目張りでもされているのか、ほんとうに微かでしかない。

 まずは電灯のスイッチを探そうと一歩踏み入った。その瞬間――


 パンッ! パンパンッ!


 なにかの破裂音とともに部屋の電気が点灯した。


『ハッピーバースデー!』


 何人もの人物が同時に上げる声。

 照明を乱反射しながらゆっくりと落ちていく、金銀の紙片と細いテープ。

 ダイニングテーブルには大きなホールのケーキが置かれていた。


 サプライズパーティ? と頭に浮かぶ。

 だがおかしなことに、すぐさま部屋を見回してみたものの人の姿がない。

 代わりに、正面に大画面の液晶モニタが据えられており、その中では『ソロサプライズパーティー大成功!』という文字が行ったり来たり動き回っていた。


 今も鳴り止まない拍手の音は設置されたスピーカーからのようだ。よく見れば部屋のあちこちにクラッカーが固定されている。足元に目を移すと、仕切りドアの端から紐が伸びている。どうやら、この紐をたどった先に何かしらの装置があって、部屋の電気やクラッカー、その他もろもろを起動させたのだろう。


 まったく。記憶を無くす前の私はなにを考えていたのか。呆れ果ててしまう。

 よほど寂しかったのだろうか。自分で自分の誕生日をサプライズで祝おうとするなんて。

 ということは、私はこれだけの仕込みをした後、サプライズとして成立させるため敢えて記憶を無くそうとしたということだろうか? それとも、そんなつもりはなかったのに記憶をなくしてしまったのか。

 なんにせよ、ソロサプライズパーティーは失敗と言わざるを得ない。誕生日を楽しむような状況ではないし、そもそも自宅と実感できない場所でいきなり祝われたところで、恐怖以外の感情など抱きようがないではないか。


 自分とは思えない過去の自分自身に腹を立てながら、床に散らばったクラッカーのテープを拾いつつカーテンを開けにいく。

 やはりご丁寧にテープで目張りがされていたので強引に引き剥がして、ようやくカーテンを開くことができた。

 抱えたゴミを捨てようとゴミ箱を探す――とここで液晶の画面が切り替わっているのに気がついた。


『→』


 矢印が表示されている。たどった先には冷蔵庫。中を開くと二段目に棒状のチョコレート菓子で矢印が描かれていた。

 抱えていたゴミを放って矢印の示す先を追っていく。やはりそこにも矢印があり、同じようにして家のあちこちを回っていく。

 矢印の先に『×』マークが付いたのは寝室だった。これで最後ということだろう。

 開いたクローゼットの壁に赤いテープで描かれ、それは上方を指している。どうやら点検口を示しているようだ。おそらく天井裏に何か――おそらく自分から自分へのプレゼント――を隠してあるのだろう。

 こういった趣向に関して、悪い気はしなかった。さっそく道中で見つけた脚立を持ってきて点検口を開いた。

 小さい脚立だったので頭は届かず、ひとまず手で探ってみる。

 なにか伸縮性のある布のような感触に行き当たり、それをつかんで引き出した。


 思わず「うわっ!」と声を上げ放り投げた。

 天井裏から引き出したそれが、包帯を巻かれた人の頭に見えたからだ。


 体のバランスが崩れていく。


 傾いていく視界の中で見えたのは、投げた頭の包帯に書かれた『サプライズ』の赤い文字。首の切り口に何かをはめ込む人工的な穴が見え、ようやくそれが美容師などが使う頭だけのマネキンだとわかった。


 そして私は、開いていた部屋のドアに頭をぶつけて気を失ったらしい。


 次に気がついたとき、なんと私の記憶はすっかり戻っていた。

 自分の職業、過去の思い出、両親の顔、好きなアニメの聖地巡礼の為あの山へ入っていったこと。そして、突然の落石……。


 そこで私は固まってしまった。


 思い出そうとすれば何でも思い出すことが出来るというのに、どういうわけか、ソロサプライズパーティーをいつ企画して、どうやって準備をしたのか、何一つとして思い出せなかったからだ。


 ガチャン、と玄関の閉まる音がした。



(了)

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まったく憶えてない 鵠矢一臣 @kuguiya_kazuomi

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