最終話 甘夢の香りがする 2

**

 その日の相手は、見知った女性だった。といってももちろん古くからの知人ではない。この仕事を始めた頃に相手をした女性だった。歳はきっとそう変わらない。違うのは立場くらいだ。


「随分、慣れてきたのね」

「まあ」

「ほんとはこんな仕事したくないって泣いてた時とは大違い」

「そんなこと、言ってないです」

「言ってたじゃない。私に抱きついて」

「言ってない」

「どっちがサービスしてんだかわかんなかったわよあの時は」

「言ってないって言ってるでしょ」

 その話はあまり広げてほしくない。仮に拒絶きょぜつがその事実を是認ぜにんしてしまっていたとしても、話していたくない。


 コートを羽織って、化粧道具をバッグにしまう。

「五万円です」

 彼女の前に立ち私は言う。とっとと出て行きたくて。しかし、彼女はキャミソール姿のまま、ベッドの端に座って私を見るだけだった。

「何ですか」

「ミナトちゃんさ、いつまで続けるつもりなのこの仕事」



「説教ですか?」

「違うよ。める気もないし。ただ、いつまでするつもりなのかなって」

「別に、関係ないでしょ」

「無関係ではないのよ。ミナトちゃん」

「何言って……」

「ねえ。妹さんは、知ってるの?」

「!!」


 それは、あまりに唐突だった。混乱して、視線が右往左往するのが自分でもわかる。

「り、理梨のことを、どうして…」 

 言ってしまってから余計な一言だったと気付く。

「リリちゃんっていうのね」

「も、もういいでしょ。早くお金払って……」

「今日のミナトちゃんはいつもよりボーっとしてたわ」


 私の言葉をさえぎって言い、彼女は眼鏡をつけた。黒いフレームの眼鏡。その横顔だけみれば、公的な仕事についていてもおかしくないと思うくらいだ。

 いや、もしかしたらそうなのかもしれない。だからこうやって説教じみたことを。……いやいや、そんなことはどうでもいい。


「……手は抜いてないです」

「そう? ぼーっとしてたでしょ」

「してないです」

「まあいいわ。ところでちょっと聞かせてほしんだけど、あなた何人も相手にしてきたんでしょ? いろんな人にサービスしてきて、どう思った?」

「どうって……」

「何かかかえた人がいた時、関係ないって思った? それとも助けてあげたいって思った?」

「関係ないことです。一切」


 それは本音だ。相手がどうなろうとも、私には関係ない。私はただ一夜の相手をするだけだ。


「子どもを置き去りにした母親が相手でも、夫の貯金を勝手に下ろしてあなたにみついだ女の人が相手でも、母親を殺してやってきた女の子が相手でも、あなたは無関係?」

「関係、ないです。勝手にここにきてるだけでしょ皆」


「置き去りにされた子どもがその晩に死んだとしても?」


 眼鏡のフレームをなぞりながら女は言った。


「金を使ったのがばれて、夫に一生消えない傷が残るまで殴られたとしても?」

「……」

「何を選んでも正しくない。そんな答えに絶望して、少女が命を絶ったとしても?」

「やめて……」

「ねえ、知ってる? あなたは無関係と言うかもしれないけれど相手からしたら、あなたは立派な関係者になりえるのよ」


 無意識に、私は耳を塞いでいた。何も聞きたくない。

 どうして、こんなことをいわれなければ……私は、私は……ただ必死に、妹のために、こうやってしているだけなのに……。だって、しょうがないでしょ、こうでもしないと、私たちは……。

「う、ううっ……」

「……まあ、いいわ。最初に言ったけど、私はあなたを止めようとしてるわけではないの。ただ、現実はみてあげないと。そうじゃないと」

 言葉を切った彼女は、耳にくっつけた掌を無理やり取って、耳元でささやいた。


「酷く後悔することになるわ。絶対にね」


 何も言えなかった。ただ、以前私があの殺人犯の少女に言った言葉よりもはるかに重厚じゅうこう深長しんちょうで、みるほど痛かった。

「お金ね。五万だっけ」

「……五万です」

「じゃあ十万円あげる」

 彼女は得意げに笑み、財布からお札を取り出して私の前に示した。

 普段だったら嬉しいことのはずなのに、それを受け取るために手を伸ばす、たったそれだけの気力もなかった。

「……」

 彼女はしびれを切らしたのだろうか。小さく鼻を鳴らすと札を宙に放り投げた。そしてそそくさと着替えると、何も言葉を発することもなく、部屋を出て行ったのだった。


 どれくらいの時間が経っただろう。残されたのは十枚の紙幣しへいと汗の香りと背にのしかかった恐怖と。

「……お金……」

 部屋中をいまわってそれを拾う私は、本当にみじめだった。

 よほど目を背けたかったのだろうか。記憶の最後にあるのは、みじめさのあまり、床のカーペットに新しい染みができるその光景だけで、ふと気づくと私はアパートの部屋の前に立っていた。



***

「あ、お姉おかえり。ちょっと遅かったね」

 扉を開けると玄関先に理梨が走ってきた。おかっぱの髪の毛から、お風呂上がりのシャンプーの香りがする。


「うん……ただいま」

「……お姉? どうかした?」

「ううん……。なんでも、いや、ちょっとだけ……」

 受け答えもままならず、私は廊下にひざを折った。

「ええっ!? ちょっとお姉!」

「理梨」


 あまり、妹の身体には触らないようにしてきた。彼女の為というより私の為に。あの日、秘密基地で妹と寝転がっていたときに、何の前触れもなく唇を重ねてしまった時のように、私はいつ禽獣きんじゅうになり果てるともわからないから。ましてあんな手段で金稼ぎをしている今は尚更。


 けれど限界だった。今は、人肌のぬくもりを感じたかった。無条件に信用できる人間の温度を、ひたすらに。


「お姉……?」

 不意に抱きつかれた妹は混乱しているような声だ。


「間違ってないって、言って、理梨」

「え?」

「お姉ちゃんは、間違ってないって、お願い」

 困惑しつつ、妹は私の背に手を添えてくれた。そして。

「お、お姉ちゃんは、間違ってないよ何も」

「……」

「お姉ちゃんは、おせっかいだけど、ずっと、わたしのことを、大切にしてくれる、お姉ちゃんだから。わたし、寂しくないよ」

「理梨」

「お姉ちゃんは、世界一優しいから、わたしも、その、何ていうか……とにかく! ……とにかく、お姉ちゃんは、何も間違ってないよ。だから、そんな顔して、泣かないでよ……」


 理梨まで泣いているのが首筋にれる水滴の温度で分かった。

 こうやって妹の中で泣くのは、初めてだったかもしれない。妹の涙を受け止めることこそあったけれど、逆の立場は初めてだったかもしれない。両親がいなくなった時も、妹の前では泣かないと決めていたから。


 浮かぶ涙を無理やり拭い、私は笑って言った。

「ごめんね。理梨」

「……びっくりした。急に、泣きだすから。だいじょぶ?」

「もう大丈夫。理梨のおかげね」

「……そう。ならよかった」

 妹の表情はいまいち晴れていなかった。けれど、私があれこれと明るい話を重ねるうちに、次第に表情も元に戻って行った。

 それはほとんど自己暗示に近かったけれど、構わない。私は、間違ってないんだ。だって、すべては微かな未来のためなのだから。

 大丈夫。何も、間違ってなんかない。


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