最終話 甘夢の香りがする 2
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その日の相手は、見知った女性だった。といってももちろん古くからの知人ではない。この仕事を始めた頃に相手をした女性だった。歳はきっとそう変わらない。違うのは立場くらいだ。
「随分、慣れてきたのね」
「まあ」
「ほんとはこんな仕事したくないって泣いてた時とは大違い」
「そんなこと、言ってないです」
「言ってたじゃない。私に抱きついて」
「言ってない」
「どっちがサービスしてんだかわかんなかったわよあの時は」
「言ってないって言ってるでしょ」
その話はあまり広げてほしくない。仮に
コートを羽織って、化粧道具をバッグにしまう。
「五万円です」
彼女の前に立ち私は言う。とっとと出て行きたくて。しかし、彼女はキャミソール姿のまま、ベッドの端に座って私を見るだけだった。
「何ですか」
「ミナトちゃんさ、いつまで続けるつもりなのこの仕事」
「説教ですか?」
「違うよ。
「別に、関係ないでしょ」
「無関係ではないのよ。ミナトちゃん」
「何言って……」
「ねえ。妹さんは、知ってるの?」
「!!」
それは、あまりに唐突だった。混乱して、視線が右往左往するのが自分でもわかる。
「り、理梨のことを、どうして…」
言ってしまってから余計な一言だったと気付く。
「リリちゃんっていうのね」
「も、もういいでしょ。早くお金払って……」
「今日のミナトちゃんはいつもよりボーっとしてたわ」
私の言葉を
いや、もしかしたらそうなのかもしれない。だからこうやって説教じみたことを。……いやいや、そんなことはどうでもいい。
「……手は抜いてないです」
「そう? ぼーっとしてたでしょ」
「してないです」
「まあいいわ。ところでちょっと聞かせてほしんだけど、あなた何人も相手にしてきたんでしょ? いろんな人にサービスしてきて、どう思った?」
「どうって……」
「何か
「関係ないことです。一切」
それは本音だ。相手がどうなろうとも、私には関係ない。私はただ一夜の相手をするだけだ。
「子どもを置き去りにした母親が相手でも、夫の貯金を勝手に下ろしてあなたに
「関係、ないです。勝手にここにきてるだけでしょ皆」
「置き去りにされた子どもがその晩に死んだとしても?」
眼鏡のフレームをなぞりながら女は言った。
「金を使ったのがばれて、夫に一生消えない傷が残るまで殴られたとしても?」
「……」
「何を選んでも正しくない。そんな答えに絶望して、少女が命を絶ったとしても?」
「やめて……」
「ねえ、知ってる? あなたは無関係と言うかもしれないけれど相手からしたら、あなたは立派な関係者になりえるのよ」
無意識に、私は耳を塞いでいた。何も聞きたくない。
どうして、こんなことをいわれなければ……私は、私は……ただ必死に、妹のために、こうやってしているだけなのに……。だって、しょうがないでしょ、こうでもしないと、私たちは……。
「う、ううっ……」
「……まあ、いいわ。最初に言ったけど、私はあなたを止めようとしてるわけではないの。ただ、現実はみてあげないと。そうじゃないと」
言葉を切った彼女は、耳にくっつけた掌を無理やり取って、耳元でささやいた。
「酷く後悔することになるわ。絶対にね」
何も言えなかった。ただ、以前私があの殺人犯の少女に言った言葉よりもはるかに
「お金ね。五万だっけ」
「……五万です」
「じゃあ十万円あげる」
彼女は得意げに笑み、財布からお札を取り出して私の前に示した。
普段だったら嬉しいことのはずなのに、それを受け取るために手を伸ばす、たったそれだけの気力もなかった。
「……」
彼女はしびれを切らしたのだろうか。小さく鼻を鳴らすと札を宙に放り投げた。そしてそそくさと着替えると、何も言葉を発することもなく、部屋を出て行ったのだった。
どれくらいの時間が経っただろう。残されたのは十枚の
「……お金……」
部屋中を
よほど目を背けたかったのだろうか。記憶の最後にあるのは、
***
「あ、お姉おかえり。ちょっと遅かったね」
扉を開けると玄関先に理梨が走ってきた。おかっぱの髪の毛から、お風呂上がりのシャンプーの香りがする。
「うん……ただいま」
「……お姉? どうかした?」
「ううん……。なんでも、いや、ちょっとだけ……」
受け答えも
「ええっ!? ちょっとお姉!」
「理梨」
あまり、妹の身体には触らないようにしてきた。彼女の為というより私の為に。あの日、秘密基地で妹と寝転がっていたときに、何の前触れもなく唇を重ねてしまった時のように、私はいつ
けれど限界だった。今は、人肌のぬくもりを感じたかった。無条件に信用できる人間の温度を、ひたすらに。
「お姉……?」
不意に抱きつかれた妹は混乱しているような声だ。
「間違ってないって、言って、理梨」
「え?」
「お姉ちゃんは、間違ってないって、お願い」
困惑しつつ、妹は私の背に手を添えてくれた。そして。
「お、お姉ちゃんは、間違ってないよ何も」
「……」
「お姉ちゃんは、おせっかいだけど、ずっと、わたしのことを、大切にしてくれる、お姉ちゃんだから。わたし、寂しくないよ」
「理梨」
「お姉ちゃんは、世界一優しいから、わたしも、その、何ていうか……とにかく! ……とにかく、お姉ちゃんは、何も間違ってないよ。だから、そんな顔して、泣かないでよ……」
理梨まで泣いているのが首筋に
こうやって妹の中で泣くのは、初めてだったかもしれない。妹の涙を受け止めることこそあったけれど、逆の立場は初めてだったかもしれない。両親がいなくなった時も、妹の前では泣かないと決めていたから。
浮かぶ涙を無理やり拭い、私は笑って言った。
「ごめんね。理梨」
「……びっくりした。急に、泣きだすから。だいじょぶ?」
「もう大丈夫。理梨のおかげね」
「……そう。ならよかった」
妹の表情はいまいち晴れていなかった。けれど、私があれこれと明るい話を重ねるうちに、次第に表情も元に戻って行った。
それはほとんど自己暗示に近かったけれど、構わない。私は、間違ってないんだ。だって、すべては微かな未来のためなのだから。
大丈夫。何も、間違ってなんかない。
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