(5)



困った、と思った。私がどう頑張ってもこの腕を振り払うことが出来なくて、それどころが逆に強く抱き締められてしまう。頬に当たる彼の柔らかい髪がくすぐったい。風に乗って彼の香りがふわりと漂う。近くに控えている彼もまた私と同じような表情をしていた。


(とりあえず、どうにかして引きはがさないと)


私はそっと彼の背中に手を回し、優しく数回叩いてみる。それと同時に、どうしてこんな状況になってしまったのかと、今日の出来事を思い返した。











アドリエンヌの抱き心地を十分に堪能した私は、彼女と一緒に教室へと足を踏み入れる。ラルフとは同じクラスだが、ラインハルトとクロード、そしてレオンとはどうやら違うクラスのようだった。そういえばそうだったな、なんてゲームを思い出す。前世の記憶を思い出した当初よりもゲームの記憶が薄れているような気がした。あんなに大好きなゲームだったのに、十何年もプレイしていないのだから当たり前か。


「カーラ? どうかしました?」

「え? あ、いえ。大丈夫です」


空いている席に座った私に、隣から声をかけられる。アドリエンヌの大きな瞳を見つめ返してやんわりと頭を振ると、どこからか視線を感じた。そちらの方へ意識を向けてみれば、どこかのご令嬢が私達……というよりも私を見てコソコソと話していることに気が付いた。私のような身分の者がアドリエンヌとお話ししているから。いや、そもそもオルドフィールドに入学していることに対して話しているのかもしれない。

入学することが決まって覚悟はしていたのだけれど、実際目の当たりにすると少なからず心にクるものがあって。短く息を吐き出した私に『本当に大丈夫ですの?』とアドリエンヌが再び声をかけてくれた。


「少し緊張をしているようです」

「緊張?」

「はい」


なんて笑って誤魔化してみる。しかし緊張しているのは本当だった。ゲームではシルヴィアとしての生活しか知らない。彼女が転入してくるまで自分はどのように過ごせばいいのか。どのように振舞えばいいのか。考えることはとても多い。

それにゲームと少し内容が違うのも気になっている。アドリエンヌとカーラは仲がいいわけではなかったし、レオンの恐らく側近であろう人物もあまり記憶にない。レオンルートで出てきたっけ? スチルはあった? それとも立ち絵のみ? ぐるぐるぐるぐる、いろんなことを考えてみるけれど私のキャパシティーはすでにオーバーしそうで。むしろ頭から煙が出てきてるのかもしれない、うん。


「頭がパンクしそう」


ぽつり、呟いた言葉と共に教室のドアが開かれる。中に入ってきたのは見た目が若い男性だった。教師陣が着用しているローブを身に纏っているので彼も教師なのだろう。ゲーム内の教師陣はテキストでしか登場していなかったので、このような風貌なのだと思わず見入ってしまう。教師はぐるりと教室を見渡した後、大きく息を吸ってから自己紹介を始めた。


「こ、これから1年間、このクラスを担当するロベルト・エヴァンズです。よ、よろし……げほっ、げほっ」


どうやらロベルト先生は意気込みすぎたらしい。苦しそうにむせて、その目にはうっすらと涙を浮かべている。大丈夫かな、という意味を込めてアドリエンヌの方を見ると、彼女もまた同じような表情で私に顔を向けた。


「し、失礼しました。えっと、どうぞよろしくお願いいたします」


なんとも締まりの悪い自己紹介になったようだが、ロベルト先生は小さく頭を下げ、そして何事もなかったようにオルドフィールドの簡単な歴史、授業の簡単な説明などを行っていった。クラスのみんなも特に何も言うことなく、ただ静かに先生の声に耳を傾ける。先生の説明を聞く限り、難しいことはなさそうだった。前世での学校生活に少し似ている。違うのはその授業内容ぐらいだろうか。一般常識はもちろんだが、そこに魔法が入ってくる。魔法。魔法の授業。それに関しては難しそうだったが、なんとかなるだろうと安直に考えてしまうのが自分の悪い癖なのかもしれない。


「……というわけで、本格的な授業は明日からとなります。ではこれから敷地内の案内をいたしますので、私についてきてください」


先生の言葉に従って(貴族の子供らが素直に従うなんて少し驚きはしたが)、クラスのみんながぞろぞろと教室を出ていく。アドリエンヌと私も席を立ち、最後尾を歩くことにした。まぁ単に私が立ち上がるのに手間取ってしまったのだけれど。1クラス当たりの人数はそこまで多くはないが、さすがに全員となると列が長くなる。先生の声を聞き洩らさないように集中していると、近くを他のクラスの生徒が通ったことに気が付いた。


「あちらも同じタイミングで案内されているようですわね」


こそっとアドリエンヌが耳打ちをしてくる。私は『そうみたいですね』と小さく頷きつつ、そのクラスを盗み見ることにした。どうやらそのクラスはラインハルト、クロードのクラスのようだ、ということはレオンもいるということで。彼を探してみたけれどその姿は見えなかった。


(王太子殿下だから遠慮したのかなぁ)


彼のことだ。きっと自分がいると周りの人の心中が穏やかではなくなるなどと考えたのかもしれない。側近であろう彼も見当たらないので一緒にどこかにいるのだろう。そう思っていた。


「あら、カーラ。靴紐が解けておりますわ」

「え? あ、本当ですね」


アドリエンヌに指摘され、足元に視線を向ける。学校指定の革靴は紐を結ぶタイプのもので。しっかり結んだつもりでいたが、どうやら歩いている間に解けてしまったようだ。

さすがにこの場で結び直すわけにもいかないので(もちろん、ここが家だったなら堂々と結び直していたのだけれど)どこか人目の付かないところで結び直そうと、アドリエンヌに笑いかけた。


「アドリエンヌ、先に行ってください。結び直したらすぐに向かいますので」

「まぁ、そのぐらい待ってますわ」

「大丈夫です。ちゃちゃっと結んじゃいますから!」


私のせいでアドリエンヌに迷惑を掛けるわけにもいかない。それに急いで結べば追い付くはずなので、せっかく申し出ではあったがお断りした。少し不満そうではあったが『カーラがそう言うのなら』と渋々頷いたアドリエンヌに手を振って、私はこっそり列を抜けて人目の付かないところを探した。かと言ってあまり離れてしまうと分からなくなってしまうので、近場でちょうどいいところを探したのだが初めて歩く場所で見つかるはずもなく。廊下を曲がったところで急いで結んでしまおうとしゃがみ込んだ。

子供の頃は苦手だった蝶々結び。どうやら子供の手は不器用に出来ていたらしく、よく不格好な蝶々結びが出来上がったものだ。まぁアゼルは子供の頃からきちんと結べていたので、カーラが特別不器用なんだと思うことにしたのだけれど。しかし今ではすっかり結べるので、アドリエンヌに宣言した通りちゃちゃっと結んでしまおうと手を動かしていると、ふと影が差し掛かった。


「カーラ・マルサス様ですね」

「はい……え?」


きゅっと結んだ後に顔を上げると、そこにいたのは予想外の人物で。思わず声が漏れてしまった私に彼は特に何も言うことなく、ただじっと見降ろしていた。


「あの?」

「お呼びです」


端的な言葉に『誰が?』と問うまでもなくすぐに理解する。目の前の彼、つまりレオンの側近であろう人物がそう言うのだから、それを命令したのは一人しか思い当たらなかった。


「今、ですか?」

「当り前でしょう」

「ですよね」


どうしようかと思案する。今この場を離れればアドリエンヌにバレるだろうし、それについての言い訳を考えるのが苦手だ。しかしせっかくレオンが呼んでいるというのに行かないわけにもいかなくて。うーん、と唸っていると、頭上でわざとらしく彼が息を吐き出した。


「失礼」

「え? うわっ!」


腕を掴まれたかと思うと力任せに引かれてしまい、それに従って立ち上がってしまった。な、何をするんだこの人は! などと考えている間にも彼はぐんぐんと進んでいく。抵抗してみたがそんなの微々たるものだと言いたげに鼻を鳴らした彼に、私は瞬時に悟った。


(あ、無駄だ)


どうやら彼は “レオンの命令は完遂しなければならない” という思いがあるようだ。ならばこれも完遂するつもりでいるかもしれない。私はこの先にいるであろうレオンを思い浮かべて嘆息し、抵抗するのをやめた。それに気が付いた彼が腕を掴む力を少しだけ緩めてくれたが、足を動かすスピードは変わらない。そのため途中で転んでしまわないように足元に注意を払っていると、立ち止まった彼の背中に顔面をぶつけてしまったのだった。


「ぶっ!」


前世の頃よりは出っ張った鼻が曲がってしまったのではないかと、空いている手で確認するが、どうやらちゃんとくっついているようだ。それに一先ず安心している私の耳に『お連れいたしました』との声が届く。視界いっぱいに広がる背中から向こう側を覗こうと顔を動かせば、やはりそこにはレオンがいて。私と視線が絡まると、レオンは無言でその距離を詰めてきた。


「あ、レオ……」


そして、彼の名前を呼び終える前に、彼の優しい香りに包まれたのだった。

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