(2)
「よし」
制服のリボンをきゅっと締め、鏡の中の自分をじっと見つめる。制服に着られている感が否めないが仕方がない。今日から毎日着ていればきっと馴染むはず。いくらまだオルドフィールドに入学した実感が湧かなくても、だ。鏡の中の自分は引きつった笑みを浮かべているが問題はない。これからどんな生活が待っていようとも、ゲームのシナリオ通りに物事は進むはずだから。
筆記用具を詰め込んだバッグを手に取って自分の部屋から出る。寮の廊下には既に何人かの生徒がいて、皆がそれぞれ浮足立っているように感じた。私も傍から見たらそのように見えるのだろうか、と思わず足元に視線を向ける。
(あ、汚れてる)
靴の先についた小さな汚れ。私はハンカチを取り出して軽く拭き取って顔を上げた。何人かのご令嬢がこちらを見て何かを話しているような気がして、はっと我に返る。そうだ、令嬢はこんなことしないんだ。私を見ているご令嬢方ににっこりと微笑み、私は早足でこの場から逃げたのだった。
「はぁ……やってしまった」
精神的にはもう立派な大人(具体的な年齢は考えないことにする)なのに、家にいるときの癖が抜けないのはいかがなものか。ここはいつもの家ではなく学校、しかも寮暮らしなのだから少しは気を付けないと、と再び息を吐きながら校舎を目指す。今日は授業がなくてオリエンテーションだけなので楽ではあるのだが、既に疲れてしまっていた。
校舎に行くには一度外に出る必要がある。豪華な温室やカフェテリアなどの施設を通ってやっと校舎へと辿り着くのだ。普段ならきっとなんとも思わない距離だろうが、今の私にはなんだか果てしない距離に思えた。
「おい」
「はい?」
校舎への道をげんなりとした表情で歩いている私を誰かが呼び止めた。あまりにも突然だったので反射的に振り返り、そして後悔することになる。
「久しぶりだな」
「……お久しぶりでございます、クロード様」
目の前に立っているのは、数年前のダンスパーティーで出会ったクロード・モルメックだった。今の彼は私が知っている彼、つまり乙女ゲームのスチルの彼そのものだった。それだけならきっと私も心の中で喜んでいただろう。しかし私はあのダンスパーティーでからかわれたことを未だに覚えていた。そもそもシルヴィアに対してはあのような態度はとらないのに、何故私にはあんな感じなのだろうか。神様、修正パッチを入れるなら今です。
「あのダンスパーティー以来か」
「はい、そうですわ」
「少しはレディーになれたか?」
「余計なお世話です!」
喉の奥でくつくつと笑うクロードに思わず声を荒げる。はっ! いかんいかん。私は立派なレディー。ここで声を荒げるなど。
「どうやらなれなかったようだな」
頭上で笑いを堪えているクロードに舌を出したくなるのをぐっと堪える。これでまた声を荒げたりしたらクロードにからかわれるのがオチだ。私は自分でも気持ち悪いと思う程、にっこりと笑みを浮かべてみせる。
「クロード様、私はあの頃より成長しております。そう簡単に声を荒げるなどいたしませんわ」
「ふーん……カーラ、君は身長は伸びたようだが他の所は恐ろしく昔のままだな」
「失礼な!!」
どうせ私は幼児体型だ。お母様もおばあ様もあるのになぜか私だけない。そこは前世と違っていてもよくないか? って思ってしまう程小さかった、何がとは言わない。言いたくない。
「レディーに対して外見についてあれこれ言うものではありませんよクロード様!」
「あぁ、そうだったな。すまない」
クロード様に付き合っていたらいつまで経っても校舎にたどり着かないかもしれないので、この際無視させていただく。声を荒げたのもカウントしない、うん。
いつかのようにクロード様に背を向けて歩き出すが、あの頃と違って彼は私の隣を歩いていた。なんですか、という意味を込めて彼を見上げるが、クロードは気にしていないというように歩いている。いや、気にしてください。というかあなたと歩くと目立つんですって。ほら、現に周りが騒いでる……。
「黒持ちだ」
「黒持ちのクロード様よ」
「黒持ちってあんなに真っ黒なのね」
「やだ、怖い」
それは、嫌悪、恐怖などといった負の感情が溢れていた。これがクロードに対する世間の反応なのだ。それを目の当たりにした私は、なんだか無性に腹が立ってきて。思わずこそこそと話す彼らを睨みつけた。
「おい、ご令嬢がそんな目をするな」
「だって……!」
「ぼくのことなら気にしなくていい。もう慣れた」
慣れた、その言葉に胸が痛くなる。生まれた時からこのような扱いを受けてきたのだろうから慣れるのも分かるが、慣れてほしくないと思う自分がいて。もやもやとしていると、今度はその矛先が私に向けられた。
「黒持ちと一緒にいるのはどこの貴族の?」
「さぁ」
「よく黒持ちと一緒にいられるわね」
ひそひそ、こそこそ。言いたいことがあるなら面と向かって言えばいいのに。しかし入学したばっかりの私はここで大事に出来るはずもなく、睨むのをやめてただ息を吐き出した。
「……クロード様」
「ん? なんだ?」
「あの人達はあぁ言ってますけど、大丈夫ですからね」
「は?」
シルヴィアは分かってくれる。クロードを理解してくれる。まだ当分先だけれど、彼女が転入してくるまで私がクロードの味方になってあげよう、なんて心の中で誓った。
「それより、早く行かないと遅れるぞ。ただでさえその短い足だと時間がかかるんだから」
「…………」
前言撤回。やっぱり味方になんてならない! ぐるんと顔だけをクロードに向けて、思いっきり舌を突き出してやった。
「……何あれ」
校舎へ向かう途中、何やらすごい人だかりを見つけた。囲んでいるのは全員ご令嬢で。黄色い声で溢れかえっていた。
「どこかの貴族の子息でもいるんじゃないか? 例えばラインハルト・ブランズとか」
クロードの言葉に『あぁ、なるほど』と納得する。彼ならご令嬢に囲まれていてもおかしくはないからだ。しかし、もしそれが本人なら少々困ったことになる。なぜなら彼がいるところアドリエンヌあり、だからだ。あのダンスパーティーでの一件以来、彼女からお茶会のお誘いを何度か受けていた。極力関わりたくない私はあの手この手で断っていたのだけれど、学校が同じだとそうもいかないだろう。私はすぐさまここを立ち去るべきだと判断したのだが、それよりも早く、ラインハルトが私に気が付いた。
「カーラ!」
「ひっ!」
私の名前を呼んだラインハルトが小さく手を振った。それと同時にご令嬢方が私を見た。というか睨んだ。その中にはアドリエンヌの姿が見えたのだが、彼女は睨むのではなく、ただじーっと私を見つめていた。
「お久しぶりですね」
「お、お久しぶりでございます」
スカートの裾を少し持ち上げて腰を落とす。まさかここでラインハルトに声をかけられるとは思ってもいなかったので声が上擦ってしまったが気にしない。そんな私に、ラインハルトはにこにこと笑みを浮かべている。やばい、早くここから立ち去りたい。というかなんで呼び捨て!?
ぶわわわっと汗が吹き出してしまいそうな私の隣で、クロードが頭を下げた。
「お初にお目にかかります、私、クロード・モルメックと申します。以後お見知りおきを」
「ラインハルト・ブランズです」
お互いに頭を下げて挨拶をするラインハルトとクロードに、そっと息を吐く。そういえばこの二人って、ゲーム内では仲が良かった。入学してから仲が良いという話があったが、まさかここで初対面になるとは。しかし美形二人が揃うと絵になるな、なんてぼーっと考える。そんな私に、ラインハルトが話しかけてきた。
「カーラもオルドフィールドに入学したのですね」
「え、えぇ」
「これからよろしくお願い致しますね」
「こちらこそ、ですわ」
慣れない言葉遣いにしどろもどろになりながら笑みを浮かべる。そろそろこの場から逃げ出したい。しかし逃げ出せる雰囲気でもなかった。どうしたものかと必死に頭を回転させる私の元に『カーラさん』との声が聞こえてきた。聞き覚えのある可愛らしくもはっきりとしたその声音は一人のご令嬢しか思い当たらなかった。
「……お久しぶりです、アドリエンヌ様」
立派な立て巻きロールに濃い目のピンクのリボンを付けたアドリエンヌが、いつの間にか近づいていたのだった。
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