第5話 



 ―――男は、自宅に辿りついた。


 ネクタイをはずしながら冷蔵庫を開け、ビールをとりだす。ソファに身を投げ、喉に流し込んだ。

 

 ラックには7歳になる娘の写真が飾られている。


 結婚生活は、うまくはいかなかった。離婚して2年になる。娘の親権は別れた妻が持ち、男は月に一度だけ娘と食事に出かける。それだけが男の唯一の楽しみだ。だが、それもいつまで続くのか。やがて父親との食事など、うとましくなる時期がやってくるだろう。


 味気ない人生だ、と男は自分でも思う。


 ビールを飲みながら、わき腹をおさえる。最近、こんな風に時折、わき腹に妙な痛みが走る。

 忙しさにかまけて病院には行っていない。あるいは心のどこかでは悪いところがあるならそれでいい――そんな思いもあった。 

 たとえば今死んだなら、生命保険で娘に多少の金を残してやれる。それも悪くないか……、そんなふうに自嘲しながら知らぬ間に男は、うつらうつらとまどろんだ。


 


 眠りに落ちた男を、女は見つめていた―――。




 ―――生身の肉体ではない。


 もう手の施しようもない女の肉体は、病院のベッドの上だ。

 今ごろは医師が厳しい顔で、看護師に家族を呼ばせている頃だろう。


 今日あたり、もうだめかもしれない――と自分でも思っていた。



 この半年は、病院のベッドの上で激しい痛みに耐えるだけの日々だった。そんな日々の中でも諦めきれない事があった。

 二十年間――かつての恋人に心の中で謝り続けてきた。一度だけでも会って顔を見て、しっかりとあの頃の事を謝りたいと願ってきた。

 それを知る神が哀れに思ってくれたのか、最期に願いを叶えてやろうと思ってくれたのか――。



 ―――激痛から逃れるように肉体から抜け出た魂は、気付けば電車に乗る男の元に飛んでいた。



 そして、ついには、こんな所にまで来てしまった……。

 肉体の制限を受けない魂は自由だった。どこまでも。

 肉体とは、魂が持つ力を制限する手枷足枷なのかもしれない。

 ほぼ魂だけとなっている今、色々なことがわかる。




 部屋には男の思念が、あふれていた―――。

 

 うまくはいかなかった結婚、忙しく責任だけが増えていく仕事のやりきれなさ、そして娘さんを大切に想う気持ち――それらが女に沁み込んでくる。

 

 知りたかった男の来し方を知る悦びとともに、男の許可もなくプライベートを覗く事に罪悪感がもたげる。

 

 侘びに来たはずなのに、詫びることが一つ増えた。


 もうすぐ、この世からいなくなるから許して……、女はそう想いながら丹念に男が放出した思念の残痕をなぞる。


 

 そして―――。




 

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