6

 夏休みというものは教室内は静かだが、1歩外に出てみれば普段以上の熱気だ。部活に全力を注ぐ生徒たちはとても眩しい。俺も、学生時代は中高とバレーボールばかりしていた。

 夏休み明けの課題テストの問題を作成するために出勤した俺は、一旦その作業を先延ばしにして中庭に出ていた。中庭はテニス部がミーティングに使っている程度で、基本は誰もいない。教室は補習以外では安全面の問題で施錠されているし、鍵で開けるのも面倒くさかったので、結局集合場所はここにした。

 内海の妹がこの中学校に通っていることは知っていたが、顔はあまり知らなかった。姉にあまり似ていないというのも一因だろう。

 申し訳程度に陽を避けることのできる小さな屋根の下のベンチに小柄な人物が座っている。肩までの短い髪は黒く、夏用の清潔な半袖のセーラー服から覗く腕は白い。男か女か判断しにくい中性的な顔立ち。その服装からは少女だと窺えるが、やはり魚美には全然似ていないと思った。


「こんにちは」


 そう呼びかけると、ぼぉっとしていた視線がこちらに向いて、その色合いを変える。


「こんにちは……えっと、あのときはすみませんでした」


 申し訳なさそうに頭を下げる。


「いや、構わないよ。気にしてないから」


 バリバリ気にしている。このクソガキ、と今でも思っている。でも、俺は大人なのでそういうことは決して口にしないのだ。


「それで。『ヒトミ』について聞きたいことってなんですか」


 世海くんは俺が自殺志願者サイトの運営をしていたことを何も咎めなかった。いや、心の中では言いたいことはあったのかもしれない。それに免じて、俺も彼女が幼いながらも自殺サイトに出入りしていたことを責めないことにした。


「君は、『ヒトミ』の正体はわかってる?」

「ああ、はいなんとなく」

 

 一橋魚美ですよね、と小さな声で聞いてきたので頷く。その瞬間、彼女は少し顔を顰めた。


「……正直、『ヒトミ』と一橋魚美が同一人物だって考え始めたのは最近なので戸惑ってます。僕はヒトミと仲が良かったし、ヒトミのことが好きだった。でも、人魚のことは嫌いでした」


 俺は世海くんが『人魚』を知っていたことに驚く。そういえば、俺のことも公園で『金魚』と呼んでいたな。


「君はどうしてその呼び名を知っているんだい」

「1度姉が一橋魚美のことをそう呼んでいるのを聞きました。それに、あの3人がお互いを秘密の呼び名で呼びあっているのはなんとなく知ってました」


 どうせ一橋魚美が考案したんでしょう?と言うので俺は苦笑する。全くその通りだったからだ。


『先生は生き物が好きなのね』

『そうだね』

『だから理科室でメダカを飼ってるの?』

『そんな感じかな。でも家では金魚を飼ってる』

『金魚』

『そう金魚。昔夏祭りで捕ったものなんだけど、長生きでね。金魚すくいの金魚は大抵病気を持っていてすぐに死んでしまうことも多いんだけど、なぜか生きてるよ』

『ふふ、先生って、金魚みたい』

『へ?』

『だって、教室っていう水槽の中でゆらゆら揺れてる。生徒と先生の間で、いつも』

『そうかな』

『うんそう。先生っていっつもどっちつかず。それに、金村 賢木って名前の中に金魚が隠れてるよ。素敵』


「どうせ僕も『空蝉』とか呼ばれていたんでしょうね」


 吐き捨てるような世海くんの言葉に、はっと意識を戻す。


「いや……呼ばれてなかったと思うよ」

「え、そうなんですか」


 少し不満げな様子だった。好きの反対は無関心だという。彼女が魚美に向ける嫌悪にも似た感情は……と口にしかけるが、彼女の眼光の鋭さに踏みとどまった。


「……君と一橋さんは仲が良かったと聞いているよ」

「……はぁ?!」


 なんでですか何を根拠に?と彼女は食い気味に返す。あれ、と思った。雨郷は世海くんと魚美は仲が良かったと言っていたはずだ。


「いや、雨郷……花依さんが、君と一橋さんは似ている、と」


 彼女は猫のような目を見開き、すぐにぎゅっと細めた。


「……なぁるほど。確かに僕と彼女は似ている。実の親に愛されてなかったところとか、人とちょっと違うところとか」


 花依さん、ああ見えて鋭いんですね、と彼女は自嘲気味に笑った。

 彼女の家庭環境について、俺は実のところあまり知らない。何度か行った家庭訪問や面談などでも特に問題は感じられなかったし、不登校が続いているのは単純に彼女の個性が可哀想なことにクラスから拒絶されているからだと思っていた。

 彼女は俺の戸惑いを察知したのか、鼻で笑う。


「どーせ、先生にはわかんないですよ。魚美さんのときだって気づかなかったんじゃないですか?」


 図星だった。俺が今のように中学ではなく高校教師だった頃、面談で魚美の父親と対面したが、何ひとつとして見抜くことはできなかった。


『助けて』


 彼女は必死に求めていたのだ。ネットの世界に、自分の居場所を。そんなことになるまでに追い詰められていた彼女を、俺は救うことができなかったのだ。

 俺が黙り込んでいると、彼女は表情を改め、真剣な顔で俺の顔を覗き込む。


「それで。『ヒトミ』と親しくしていた僕に聞きたいことって?」

「ああ、それは……」


 言いかけて、そこで口籠もる。どう聞いたものか、と今更ながら不安に思ったのだ。『彼女を殺したのはお前か』などと。こんな、中学2年生の女の子に聞けるはずもない。いつまで経っても本物の金魚のように口だけをぱくぱくとさせている30代男性の姿に呆れたのか、彼女ははぁ、とため息をついて口を開いた。


「言いづらいのなら、僕が先に答えを言いましょうか。『僕じゃないですよ』」

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