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あの後どうやって帰ったのか、正直覚えていない。会話は覚えているが、あのままどうやって別れ、帰宅したのかわからない。気がつけばリビングにいて、ニュース番組の雑音が流れ込んできたのだった。
『そっか。先生は犯人じゃないのか。じゃあ、怪しいのは……その先生が運営してた自殺志願者のサイトとかで、魚美さんと特別に親しかったりした人っていなかったんですか』
『いや……あ、』
『いるんですか?!』
『いることには。でも……』
『連絡は?』
『あのサイトは削除されたからね。でも、魚美の書き込みのほとんどはオフラインでも見られるように保存しておいたから、遡れれば見ることができると思う。確か、あの掲示板に書き込みをしていた1人とメールアドレスを交換していたと思う』
『じゃあ、その人に連絡を取ってみてください』
『……もうそのメルアドを使っていないかもしれない』
『それでも、です。わかったら連絡お願いしますね』
煙草に火をつけ、右手の人差し指と中指を擦り合わせるようにして挟む。そうしてベランダで煙を吐く。落下防止の手すりに肘を置きながら、俺はぼんやりとムーンタワーを眺めていた。
『あっ、そういえばムーンタワー、もうすぐ取り壊されるらしいです。うちの会社も投資とかで関わっていたのでとても残念だなって父が言ってました。それじゃあ、また』
「それで別れたんだったな」
自分の行動を思い出す。記憶の中の彼女は華奢な手を振って歩き出していた。
そろそろだろうか。花火の時間は。始まるまで、メールでも打っておこう。
「ヒトミ」と特に親密なやり取りをしていた人物はすぐに見つかった。微かに記憶していた通りメールアドレスも残っていて、俺はスマホに指を叩きつける。
『初めまして。私は以前自殺サイトを運営していた者です。──』
などとつらつらと書き連ねながら、これではただの迷惑メールみたいだと感じたため、一応自分の本名と職業も明かしておいた。
『あなたはヒトミさんと仲良くしていらっしゃいましたね。実は、ヒトミさんが殺害されていたことがわかりました。ヒトミさんのことについて詳しく聞きたいので──』
会おう? いやいやそれは突発的すぎるだろ、と灰を落としながら「また御連絡ください」と打ち込み、送信した。
部屋着のジャージのポケットにスマホを仕舞って、再び目線を開けた世界へと向ける。マンションの上の階や下の階では、子どもたちが手すりから身を乗り出して花火を今か今かと待ち構えている。おいおい危ないぞ、とヒヤヒヤしながらも、そういえば俺もあんな子どもだったな、と思った。
麻痺している。父親が亡くなった日から、誰かがいなくなる、ということに俺は苦痛を感じなくなっていた。魚美が消えたときも、もしかして死んでしまったのだろうか、ダムに飛び下りたのだろうか、などと考えた。それでも何か行動を起こそうとはしなかったし、やがて彼女との思い出は風化して消えた。そういえばそんな生徒もいたな、ぐらいに思っていたのだ。
『俺の家においで』
あの激情は、果たして自分の言葉だったのだろうか。わからない。母が死んだ今となっては、さらに麻痺している。心が。
彼女を助けたい、と思ったのは事実だと思う。虐待を受けている姿を見て、俺が守ってやらなきゃ、とも思った。ちょうどその頃虐待に関する事件があって、国は頼れないのだと悟った。なら、俺じゃないと駄目だ、と思ったのだ。あの美しい人魚を守れるのは、俺しかいない、と。
ひゅるるるるるるるるる、と白い尾を引いて、どーーーーん、花が空に咲く。
「嗚呼、そういうことか」
俺はぽつりと呟く。
「俺は人魚がほしかったんだ」
そして雨蛙は今も欲しているのだ。
俺はもたれ掛かっていた手すりに額を擦り付け、目を閉じた。煙草のメンソールがまだ口の中に居座っている。ムーンタワーが光っていた。俺の、僕の学生時代を照らしていた、あの光が。
『私、お父さんが怖い。だから今まで逃げようとしても足がすくんで動かなかったの。でも、先生とならできそうな気がする』
微笑みの中で彼女はその長い睫毛を伏せ、俺の掌に口づけた。
『ありがとう、金魚さん』
ヴーという微かな音で俺は目を開けた。どうやら少し寝てしまっていたらしい。煙草はずっと握りしめていたままで、床には灰が溜まっている。あんな花火大会の爆音の中よく眠れたな、と口の端だけで笑うと、スマホの通知音で起きるのもおかしいんじゃないか、と今度は顔全体で笑った。少し足踏みをしてからスマホを取り出し、また手すりに腕を置く。
『こんばんは。僕の名前は内海世海といいます』
思わずスマホを落としてしまうところだった。9階から。
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