6
今日も、新しいメールはない。恒例になってしまったため息をついて、僕は階段を下り、顔を洗った。
さっぱりとした顔でリビングに行くと母はおらず、黄色いお皿に注がれたシチューと、500円玉だけがテーブルに置かれていた。
シチューは冷めきっていて、母は朝早くから病院に出かけたことを察した。昨日病室に行った感じだと、姉の命は風前の灯のようなものだろう。母は僕と違ってまともな人だから、娘の最期を看取りたいと強く願っているのに違いない。僕? 僕は……誰かが死ぬのを見るのが嫌い。それだけだ。
死はうつくしい。そしてそれ以上に、おそろしい。生きている限り必ず訪れるそれは、いつだって誰かを苦しめる。僕は頭蓋骨を見ても平気だった人間だけれど、その死んだ者が愛していた誰かだったとき、耐えられない。
駄菓子屋のお婆ちゃんのお葬式に行ったとき、僕は泣いた。この間まで元気に笑っていて、僕に美味しい梅干しのおにぎりを渡してくれていたお婆ちゃん。年老いてガサガサになった唇に人差し指を当てて、僕に駄菓子を手渡してくれたお婆ちゃん。死の気配なんて、どこにもなかったお婆ちゃん。神さまはいじわるで、最低だ。自分には全く関係の無い、虫やら動物やらの死体を撮影している、僕も。
遺影の前で静かに泣いていた僕を、母は気味悪そうに見ていた。僕の中では、お婆ちゃんの死と虫の死とでは大きな違いがある、なんてことはわからないみたいだった。母と僕の関係は、とっくの昔に修復不可能なところまで来ていたことに、改めて気づかされたのだった。
僕は、あの日撮ったムーンタワーと頭蓋骨、そして青いベンチを写した写真をプリントしていない。あれが、一橋 魚美だったからだ。僕は彼女のことは好きではなかったけれど、やっぱり知っている人の死体を保存するのはいい気分じゃなくて、結局あの写真ごと削除した。
シチューにラップをかけ直してレンジに突っ込むと、トースターに食パンを放り込んだ。こんな夏の暑いときにどうなんだと思うけど、パンにシチューをつけて食べようと思ったのだ。
テーブルの上に一緒に置かれていた500円玉は、昼食代だ。僕があの日ファミレスで夕食を済ませてから、こういうことが多くなった。
姉がまだ生きている今、母は僕を育てる最低限の義務は果たしてくれているけれど、姉が死んだらどうなるのだろうか。間違いなく、母の心は死んでしまうだろう。そして僕に対しての、最後の良心も。
「こんなの無理ゲーじゃん」
チン、と音がしてシチューが温まったことを知らせる。パンが焼き上がるのを待っている間、僕はケータイを見ていた。ヒトミとのメールのやり取りを遡る。
「そういえば、これも6年前からだ」
ヒトミからの最後のメールの日付を見て、僕は呟いた。
小学生の頃、写真の保存の仕方なんかは知らなかったけれど、姉のパソコンを借りてよく自殺サイトを見ていた。時々書き込んでみたりして色々な理由から自殺をしようとする人たちと話した。僕の方は死ぬ気なんてさらさらなかったので、自殺のお誘いをかけられたら、適当に躱すか無視をしていた。
ヒトミはその掲示板で仲良くなった年上の女の子で、チャットを通してメールアドレスも交換した。それからはずっとメールのやり取りをしていた。
ヒトミは父親から暴力を受けていた。
そのために死にたい、死にたい、と何度も繰り返すヒトミが、とある男性と出会うことで生きる活力を取り戻してゆく姿を、僕はメールを通して応援していた。そして、『父親のとこから逃げて、彼のところへ行きます』というメールを最後に、彼女からの連絡は途絶えたのだった。
幸せになって、僕のことなんて忘れてしまったのかな、なんて思っていたけれど、どうもそうではないような気がしてきた。
人魚が消えたのは6年前。姉が病気になったのも6年前。花依さんがここに来なくなったのも6年前。ヒトミからのメールが来なくなったのも6年前。
「6年前に一体何があったっていうんだ?」
チン、という音がして、僕は肩をびくりと震わせた。急いでトースターの中を覗くと、いつもより高い温度で焼いてしまったようで、パンは黒焦げになってしまっていた。
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