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一橋 魚美は、ある日突然僕の前に現れた。
小学2年生の頃、父は普通のサラリーマン、母は深夜から早朝まで働いていたので、僕は家の中で大体一人ぼっちだった。その頃から母と折り合いが悪かった僕は、深夜からの仕事に向けて、やることだけやって眠りこける母に食事以外は放置されながらも、放課後、姉と花依さんが帰ってくるのを待っていた。
花依さんは中学の頃に姉と仲良くなり、その頃からよく僕の家に遊びに来てくれていた。高校になるとほぼ毎日家に来て、僕を構ってくれた。僕は、花依さんを2人目の姉みたいに慕っていたのだった。
そんなある日、2人の姉は、彼女を家に連れてきた。
『へぇ。いいお家ね』
そう零した彼女は、涙袋とタレ目が印象的で、ウェーブがかった豪奢な髪が少し浮世離れした雰囲気の人だった。というか、正直それくらいのことしか記憶に残っていない。
僕は一橋 魚美が苦手だった。滑らかな声も、綺麗な顔も。僕が極度の人見知り、ということもあったのかもしれない。でも花依さんとはすぐに打ち解けることができたのに、一橋魚美とは最後まで仲良くなることはなかった。
それに何より、一橋 魚美がいるときの2人の雰囲気はどこか違っていた。姉も花依さんも、まるで、魚美に心酔しているような、不思議な瞳を向けていた。僕だけがその空気の中に入り込めず、仲間外れにされているみたいで、それが嫌で嫌でたまらなかった。
あの『人魚』というフォルダに集められた写真は、姉にこの一眼レフをもらったときのものだ。いつものように3人で家に来たとき、姉が僕に渡してくれた。その日は確か、僕の誕生日だった。一眼レフは小2の頃の僕には今よりももっと重くって、何故か赤ん坊に似ている、と思った。ぎゅっ、と抱きしめると、姉は『気に入ってくれてよかった』と笑っていた。そういえば、あのとき僕はこのカメラに名前をつけていたはずだけれど、何だったっけな。忘れてしまった。
『ねぇねぇ、そのカメラで私たちを撮ってよ!』
花依さんがそう言うので、姉の部屋で寛ぐ彼女らにピントを合わせようとすると、上手くいかなかった。写真の撮り方を全くわかっていなかったのだ。
そうこうしているうちに、花依さんが姉の部屋でお茶を零してしまい、もっと広いところで撮ってみよう、ということになった。こういうところが、花依さんらしい。彼女は昔からおっちょこちょいだった。
この家で広い場所、といえば庭しかなかったので、僕らは外に出て、今しがた覚えた正しい写真の撮り方で、シャッターを切った。
それが『人魚』の真実だった。
*
プリンターから出てきた写真を見ながら、僕は食後の紅茶を飲んでいた。姉は、紅茶が好きだった。だから僕もこうやって飲み続けている。
花火大会は、この街の象徴的な存在であるムーンタワーの反対側で行われた。説明が難しい。月をムーンタワー、地球を僕の家、太陽を花火だと説明するのが1番だろうか。いわば僕の世界は満月の状態だったので、僕の家からタワーと花火、この2つは同時には見ることはできなかったのだ。自室の窓から身を乗り出して撮った花火は出来が良くって、何処かの大会にも応募してみようかな、なんて思ったけれど、来週辺りに、今度はムーンタワーも見えるところで花火大会があるらしい。この辺は川が多い。花火を上げるには丁度いい場所なのだろう。ムーンタワーと一緒に写った花火はさぞかし美しいのだろうな、と思った。
色鮮やかな花火の写真から目を離し、ついでにプリントした『人魚』の写真に目を移す。ひかりのなか、3人は幸せそうに笑っている。今の姉とは、見る影もない。
『人魚』のフォルダを作ったのは姉だろう。僕はあの頃、パソコンの操作の仕方を知らなかったので、自分は写真を撮るだけで、写真の保存や仕分けはすべて姉に任せっぱなしだった。
何故あの日の思い出を、姉は「人魚」などと名づけたのだろうか。
ことり、とテーブルの上に紅茶を置く。水面がゆらゆらと揺れて、その奥に一橋 魚美の、綺麗な笑顔が蘇る。
あの3人には、僕にも教えてくれない、秘密の名前があった。彼女らは隠し通しているようだったけれど、1度だけ、姉が一橋 魚美のことを『人魚』と呼ぶのを聞いた。
「一橋 魚美……ひとつばし、ひと、人。魚美、さかな、魚」
ぶつぶつと呟いていると、答えに辿り着く。花依さんのフルネームの雨郷 花依からも、僕は1つの単語を作り出すことができた。
一橋 魚美が人魚、雨郷 花依が雨蛙。だとしたら、姉は何と呼ばれていたのだろう。
「桜の樹の下に埋められしは人魚ってか」
時々、紅茶の茶色が空蝉に見えることがある。内海 世海、うつみ せみる、うつせみ、空蝉。
無邪気に笑う2人と比べて、幾分か大人びた笑みを浮かべた写真の中の人魚は消えた。確か、この写真を撮ってからすぐのことだったように思う。
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