第1話
最果ての森に、霧が冷たく立ちこめている。
朝なのか夜なのかもわからない、ひたすらに白く曖昧な景色だ。
大きな河が沈殿した闇を呑み、ゆるゆると流れていく。
欠けた飴玉。
針の折れた時計。
破られた手紙。
だれにも願いをかけられなかった流れ星。
この世から「失せるべき」ものたちが、浮いたり、沈んだり。
青年はそれらと水にもまれながら、透明なあぶくを吐きだした。
踊りながら水面へ昇っていくあぶくたち。
その向こうに、彼を見下ろす二つの影が映った。
「魔女。これ、ひろう? 直してかえす?」
「どうしようかね。失くしたか、失くされたか――。さぁ、おまえは一体どうしたんだい」
青年はこめかみを硬いもので突かれて、あぶくを歯で噛み潰した。
気持ちよくたゆたっていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
重たい腕を持ちあげ、執拗に小突いてくる棒をつかむ。
「おや、生きていた。しかたがないね。こども、手伝っておくれ。この子も還りたいのかもしれない」
「わかった」
あどけない小さな手が、青年の手首の肌に触れる。
それで彼は、まだ自分の輪郭が水に溶けきれていなかったことを知り、身をよじった。
――やめてくれ。はなしてくれ。おれは戻りたくない。
このまま河の流れにたゆたっていたいんだ。
「ねぇ魔女。このおにいさん、どうして笑ってるの」
――笑ってなんかいなるものか。おれは今、とても、……とても……?
※
鍋の蓋がコトコトと音を鳴らして主人を呼んでいる。
スープが煮つまって、焦げたにおい漂わせ始めているのに、誰も来る気配がない。
青年はうなりながら目を開けた。
と、ぐりぐりと大きなガラス玉の瞳がふたつ、彼を覗きこんでいる。
「ワッ」
「おお、おきた」
少女――? いや、少年か?
性別すら判然としない年ごろの子どもが、大きな足音を鳴らして部屋を飛びだしていった。
「魔女、おきたよ! あれ、壊れてなかった!」
「壊れてないかは、わからないよ。あとで見に行ってやるから、世話しておやり」
「はあい」
青年は驚いた心臓をなだめながら、誰もいなくなった部屋を見まわした。
雑然とした丸太小屋に、藁をしきつめたベッド。
毛織物のかけ布はゴワゴワと硬い。
窓から渡されたロープに、青年の着ていた服が適当にひっかけられて、床に水溜まりを作っている。
壁一面を覆う書棚。
床には所せましと並べられた植物のポット。
紙くずやネジ、金属の破片が散乱している。
そして、奥の部屋にいるらしい、魔女。
どうどうと水の流れる音が、薄ガラスの窓を細かに震わせている。
すぐ隣に、あの河が流れているらしい。
子どもは薪ストーブの前に踏み台を置き、あぶなっかしい様子で鍋を下ろす。
シャツの袖で木のうつわを汚れをぬぐい、焦げたスープをよそって戻ってきた。
横たわったままハラハラと見守っていた青年の前に、勢いよくうつわが突きだされる。
跳ね飛んだスープがまつ毛にかかって、青年はウワッと目をしばたたいた。
「こどもがつくった。魔女がつくったんじゃないから、だいじょうぶ」
「こども――。キミが作ったのか?」
「そう。こどもがつくった。魔女はお料理へたくそ。だから、こどもが世話してあげる」
こどもの肩に、指の長さほどの小さな鳥――新緑の芽の色のハチドリがとまっている。
その半身が、機械仕掛けだ。
青年が指を伸ばすと、ハチドリはピュイッと高い音で鳴き、機械でできた片翼を広げて部屋の外へ飛んでいってしまった。
「あのコも“失せもの”。だけどかえらなくて、ここにいる」
「失せもの……」
「あなたも、こどもも、ハチドリも」
よく分からないままに青年がうつわを受けとると、こどもは満面の笑みになる。
「……ありがとう。その、おれは、キミに助けてもらったのかな」
「そう。あなたはどこが壊れてるの? いらなかったのに、ちゃんとしてるね」
謎かけのような言葉に、青年は眉間に皺をよせた。
焦げた玉ねぎが、まるごとうつわに浮かんでいる。
青年は玉ねぎをさじの背でつぶし、スープを喉に流しこんだ。
その熱に、体の芯が震える。
そうしてまだ、人間の形を保っていることを実感すると――、今さら、あの、すべてあぶくになって溶けていくようだった、ぬるい水の心地よさが、畏ろしくなってきた。
それに、このあどけない風のこどもも、姿を見せぬ魔女も。
河はどうどうと、部屋の真横を流れている。
「おれはどのくらい流されてきたのだろう。すぐに帰らなくてはいけないんだ。あいつと話して、続きにかからないと」
「あいつって、だぁれ?」
こどもはベッドの端で足をぶらぶら遊ばせながら、首をかしげる。
「あいつは――、あいつだよ。私のおさななじみで……」
おさななじみの名前が出てこない。
青年はさじを持つ手を止める。
名前だけではない。顔も、声も、なぜ話をしなければならないのかも。なんの続きに焦っていたのかも――。
思い出そうとするほどに、記憶があぶくになって弾けて消えていく。
青年の取り落としたさじが、軽い音をたてて床に転がった。
「なんだ、やっぱり壊れてるじゃないか。それじゃ還れないよ、あんた」
部屋の入り口から、美しい女が腕を組んで青年を眺めた。
月光の瞳。白くかすんだ霧の肌。夜のようなローブをまとった女だ。
青年は息を呑む。
とっさに両手が「何か」を探そうとした。
だが手のうつわを置かねばと考えた瞬間に、何を探そうとしたのかも忘れてしまった。
わななく両手を見下ろし、呆然とする。
「……おれは、どうしたら帰れますか」
「さぁ。ハチドリの翼や時計の針なら直してやれるけども。人間はねぇ」
魔女は血の気のない白い唇を三日月の形にゆがめ、笑い声をたてる。
「魔女。この人、ここにいてもいい?」
「好きにおし。こどもが世話をするならね」
「するよ!」
こどもは小さな手でこぶしを作り、大きく頷いてみせる。
魔女は青年に向けるよりも優しい瞳でこどもを眺め、衣擦れの音だけ残して出ていってしまった。
※
魔女は日がな、デッキの揺り椅子で河を眺めて過ごしている。
「これ、宝石? また落ちてた」
「宝石ではないね」
「じゃあニセモノかぁ。だから捨てられちゃったのね」
こどもは河のほとりへ流れつくガラクタを拾っては、魔女に見せに走る。
最果ての森の“失せものの河”。
この世から失せて消えるべきものが、流れゆく河。
こどもが拾いあげるのは、失くしたか失くされたか、本当にいらない物ばかりだ。
足の折れた椅子。底のない花瓶。
強く光るだけの、偽物の紅玉(ルビー)。
自分もそんなガタクタのひとつだったのかと思うと、青年はベッドの上で溜め息が漏れる。
この森は朝も夜もなく白い霧に覆われて、河の向こう岸も見えない。
いつ一日が始まり、いつ一日が終わるのかすら曖昧だ。
青年は幾日か、彼女たちを眺めて過ごし――、
「それなら直してやれる。持っておいで、こども」
「やったぁ!」
魔女が揺り椅子から立ち上がった。
こどもが大事に両手で抱えていくのは、濡れそぼったカラスだ。
青年はベッドから降りて、彼女たちの後を追った。
カラスは下アゴのクチバシが欠けて折れている。
これでは餌もとれまい。
なるほど、生き残れないカラスは失せるべきものにちがいない――と、青年は哀れな「仲間」を眺める。
魔女はテーブルに広げた紙に、クチバシのあるべき形を写しとる。
緻密な設計図を描きあげていく横顔の、光る瞳。
白い喉に、銀の髪が揺れている。
青年はむずむずと指を握り、開き、そして彼女の道具から勝手にペンと紙を取った。
どさりと床に腰を下ろし、ペンを滑らせ始める。
それは、自分の知らない自分に突き動かされるようだった。
「すごいね。あなた、絵描きさんだったのね?」
「そうなのかな。わからないや」
こどもは青年の首に後ろから飛びつき、笑って喜ぶ。
魔女はちらりと彼を見やり、さも迷惑そうに鼻を鳴らした。
※
昨日は途中で、工房へ逃げられてしまった。
続きを描かせてもらおうと、魔女がデッキへ出てくるのを待ちわびていた青年は、目を見開いた。
「彼」の腕にとまったカラスは、機械仕掛けのクチバシを開き、ガァと割れた声で鳴く。
「よい子だ。迷わずお還り」
霧のなかへ差しのべられた腕から、カラスが大きく羽を広げて飛翔する。
こどもがカラスに手をふって別れを告げている。
森の上を旋回するカラスから目を下ろし、青年は唖然と、揺り椅子に腰かけた「彼」を凝視した。
三日月の笑みを浮かべた男は、あの魔女、そのものの美貌。
――そうか、魔女は姿を変えるのか。
青年は描きさしの紙を破り捨て、次の紙へ「彼」のスケッチを始めた。
だが、筆が乗り始めると、魔女は工房へ引っこんでしまって出てこない。
ドアの内側へ入れてもらえるのは、こどもだけだ。
そして翌日現れると、今度は首だけカラスの異形の姿。
その次の日は、歯の生えそろった不気味な赤ん坊の姿で現れた。
彼は無駄にした紙を足で踏みにじる。
「あなたは、おれをからかっているんですね」
「そう見えるかい?」
ヒキガエルが揺り椅子のうえで笑う。
「どれが本当の私だったか。何千年と生きていると、元の姿を忘れてしまう」
ヒキガエルは濡れた足をぺたりと、引きかけの線にのせて滲ませた。
「絵描きのくせに、絵の一枚も仕上げられないとはね」
「魔女。いじめちゃだめだ。こどもが世話をしてるコだよ」
口を尖らせて叱るこどもに、ヒキガエルは下品なほどの大きな笑い声をたてる。
「いじめちゃいないさ、こども。見てごらん、ほら、この男、笑っているじゃないか」
青年は自分の頬に手をあてた。
「……おれは、笑っていますか?」
「こどもに訊いてみたらどうだい」
青年が目を移すと、こどもはふしぎなものを見る目で、まじまじと青年の顔を観察している。
「――かわいそう。やっぱりあなた、壊れてたんだね」
胸を突かれて、青年は顔をしかめた。
その時だ。
視界をかすめて、赤い光が降り落ちた。
コツッとデッキの板に跳ね返ったのは、ルビーの偽物だ。
さっき還っていったはずのカラスが、頭の上を横ぎっていく。
カギ爪でつかまれたガラスの瓶から、ぱらぱらと赤い石がこぼれて落ちてくる。
「あっ、だめ! それは、こどもの宝もの!」
こどもが森へ駆けこんでいく。
白い霞の中へ消えていく小さな背中に、青年はヒキガエルを見返った。
「森は、危なくないのですか」
「獣も魔物もいる。道を失えば戻ってこられない」
「なら……!」
「おまえは、あの子に世話をしてもらった礼もできないのかい?」
ヒキガエルは大あくびをして、目を閉じてしまった。
※
「カラス、いた! あっち!」
白い霧のなかでは、足もともおぼつかない。
こどもと青年は、木の根っこに転び、よろめきながらカラスを追う。
点々と落ちている赤い光を拾いながら、よくもこんなにクズ石を集めたものだと、こどもの無邪気に感心する。
もうとっくに、どの方角から来たのか分からなくなってしまった。
魔女の小屋に帰れなくなったら、どうすればいいだろう。
この小さな子を守ってやることなんて、できるだろうか。
青年は考えるほどに、首筋の後ろがチリチリと冷えていく。
「ちょ、ちょっと待っておくれ。息が切れた」
「カラス逃げちゃうよ!」
こどもは足を止めてくれない。
たかがクズ石を取りかえすのに、なんでこんな危険を冒さねばならないのか。
青年は頬に手をあてる。
やはり唇が勝手に笑っている。
「こども、落っことしちゃう。あなた持ってて」
今度は、小さな手のひらからあふれそうな石を、まとめて押しつけられた。
断ることもできずに、へらりと受けとってしまう。
カラスが落とした石をこどもが拾うたび、青年の手の内は赤い光に強く染められていく。
大きな根っこに蹴つまづいた。
石が一斉にあたりに散らばる。
「ああっ!」
「カラス、見失っちゃう! もう! あなた、ひどいよ!」
あわててしゃがみながら、腹の底がカッと熱を帯びた。
初日に食べた、焦げついた玉ねぎスープを思い出す。
「ひどいのはキミだ。もうあきらめてくれよ」
言いかえした青年に、こどもが驚いて目をまたたく。
真ん丸に大きくなった瞳に、彼は我に返った。
「ごめん。ごめんね、大丈夫だよ。なんでもない」
青年は慌てて笑みを貼りつける。
こどもは一粒一粒、泥に汚れたソレをつまんで、青年の手のひらに集めていく。
燃えるような赤。
あまりにも鮮烈に光る赤い色。
腹の底で、抑えきれない蓋がことこと音を立てている。
くだらない小石。
進められないデッサン。
自由奔放な、美しいモデル。
「あいつも、おれが描こうとする度にもったいぶって、まともに描かせてくれなかった」
「あいつって、おともだち?」
青年はうなずき、赤い石の粒を握りこむ。
「おれのおさななじみだ。モデルに描かせてくれるという約束で、おれをさんざん振り回しておいて、いざ描こうとすると、はぐらかす。パトロンが付くかどうかの大事な時なのに、やっぱりモデルなんてやりたくないと断られて……、そう、それでおれは『嫌ならしかたないね』なんて笑って」
言いさして、口をつぐんだ。
「ああ! あいつ、今ごろおれを笑ってるんだろうな! 大事な絵の一枚も仕上げられずに、ヘラヘラ笑いながらよろめいて、河に落っこちたおれを!」
青年は勢いをつけて立ち上がる。
「くそっ! 今度こそ、約束を守ってもらうからな!」
彼は唐突に走りだした。
その背が、霧の森の中に消えていく。
ふり返ることもなく、青年の背は見えなくなった。
こどもは地面にしゃがんだまま、ふたたび濃い霧に閉ざされた森をぽかんと眺める。
「――だれが笑っているものかい。今ごろ“あいつ”は泣いているよ。まったく、女心の分からん男だったね」
女すがたの魔女が、木立ちの影から現れた。
「魔女はわかる? おんなごころ」
首をかしげるこどもに、魔女は笑った。
「さてね。何千年と生きていると、自分が女だったか男だったかも忘れてしまう」
魔女がさしだした人差し指を、こどもは手のひらで握りこんだ。
ふたりはゆっくりゆっくりと歩いて、霧の森を帰っていく。
「でも、あの人ひどいよ。こどもの宝ものを、みんな持っていっちゃった」
「ああ――」
魔女はこどものつむじに指を伸ばし、一粒きらりと輝くそれを、幼い手にのせてやった。
「これだけで勘弁しておやり。これはもともと、あの男の“失せもの”なんだから」
「……わかった」
頬を膨らませるこどもに、魔女は笑う。
「そう。気に食わないときは、ちゃんと怒った顔をするもんだ」
「こども、きにくわない。仲直りしたくても、あの人、もうもどってこないでしょ」
「……そうさね。還ったからね」
魔女は眉を上げる。
「私とふたりきりは、気に食わないかい?」
顔をあげたこどもは、右に左に激しく首を振った。
「きにくう!」
「ならよかった。だが、おまえもいつか、自分の“失せもの”を見つけなきゃいけないよ」
「こどもはかえらない。魔女といるよ」
河の音が聴こえてきた。
待ちかまえていたかのように、小屋の屋根にカラスがとまっている。
「ほら。あのコもかえらないって」
「まいったね。また家族が増えた」
魔女はくしゃりと、こどもが一等好きな顔で笑った。
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