第1話


 最果ての森に、霧が冷たく立ちこめている。

 朝なのか夜なのかもわからない、ひたすらに白く曖昧な景色だ。

 大きな河が沈殿した闇を呑み、ゆるゆると流れていく。


 欠けた飴玉。

 針の折れた時計。

 破られた手紙。

 だれにも願いをかけられなかった流れ星。


 この世から「失せるべき」ものたちが、浮いたり、沈んだり。


 青年はそれらと水にもまれながら、透明なあぶくを吐きだした。

 踊りながら水面へ昇っていくあぶくたち。

 その向こうに、彼を見下ろす二つの影が映った。


「魔女。これ、ひろう? 直してかえす?」

「どうしようかね。失くしたか、失くされたか――。さぁ、おまえは一体どうしたんだい」


 青年はこめかみを硬いもので突かれて、あぶくを歯で噛み潰した。

 気持ちよくたゆたっていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。

 重たい腕を持ちあげ、執拗に小突いてくる棒をつかむ。


「おや、生きていた。しかたがないね。こども、手伝っておくれ。この子も還りたいのかもしれない」

「わかった」


 あどけない小さな手が、青年の手首の肌に触れる。

 それで彼は、まだ自分の輪郭が水に溶けきれていなかったことを知り、身をよじった。


 ――やめてくれ。はなしてくれ。おれは戻りたくない。

 このまま河の流れにたゆたっていたいんだ。


「ねぇ魔女。このおにいさん、どうして笑ってるの」


 ――笑ってなんかいなるものか。おれは今、とても、……とても……?





 鍋の蓋がコトコトと音を鳴らして主人を呼んでいる。

 スープが煮つまって、焦げたにおい漂わせ始めているのに、誰も来る気配がない。


 青年はうなりながら目を開けた。

 と、ぐりぐりと大きなガラス玉の瞳がふたつ、彼を覗きこんでいる。


「ワッ」

「おお、おきた」

 少女――? いや、少年か?

 性別すら判然としない年ごろの子どもが、大きな足音を鳴らして部屋を飛びだしていった。


「魔女、おきたよ! あれ、壊れてなかった!」

「壊れてないかは、わからないよ。あとで見に行ってやるから、世話しておやり」

「はあい」


 青年は驚いた心臓をなだめながら、誰もいなくなった部屋を見まわした。

 

 雑然とした丸太小屋に、藁をしきつめたベッド。

 毛織物のかけ布はゴワゴワと硬い。

 窓から渡されたロープに、青年の着ていた服が適当にひっかけられて、床に水溜まりを作っている。


 壁一面を覆う書棚。

 床には所せましと並べられた植物のポット。

 紙くずやネジ、金属の破片が散乱している。


 そして、奥の部屋にいるらしい、魔女。


 どうどうと水の流れる音が、薄ガラスの窓を細かに震わせている。

 すぐ隣に、あの河が流れているらしい。



 子どもは薪ストーブの前に踏み台を置き、あぶなっかしい様子で鍋を下ろす。

 シャツの袖で木のうつわを汚れをぬぐい、焦げたスープをよそって戻ってきた。


 横たわったままハラハラと見守っていた青年の前に、勢いよくうつわが突きだされる。

 跳ね飛んだスープがまつ毛にかかって、青年はウワッと目をしばたたいた。


「こどもがつくった。魔女がつくったんじゃないから、だいじょうぶ」

「こども――。キミが作ったのか?」

「そう。こどもがつくった。魔女はお料理へたくそ。だから、こどもが世話してあげる」


 こどもの肩に、指の長さほどの小さな鳥――新緑の芽の色のハチドリがとまっている。

 その半身が、機械仕掛けだ。

 青年が指を伸ばすと、ハチドリはピュイッと高い音で鳴き、機械でできた片翼を広げて部屋の外へ飛んでいってしまった。


「あのコも“失せもの”。だけどかえらなくて、ここにいる」

「失せもの……」

「あなたも、こどもも、ハチドリも」


 よく分からないままに青年がうつわを受けとると、こどもは満面の笑みになる。


「……ありがとう。その、おれは、キミに助けてもらったのかな」

「そう。あなたはどこが壊れてるの? いらなかったのに、ちゃんとしてるね」


 謎かけのような言葉に、青年は眉間に皺をよせた。


 焦げた玉ねぎが、まるごとうつわに浮かんでいる。

 青年は玉ねぎをさじの背でつぶし、スープを喉に流しこんだ。

 その熱に、体の芯が震える。

 そうしてまだ、人間の形を保っていることを実感すると――、今さら、あの、すべてあぶくになって溶けていくようだった、ぬるい水の心地よさが、畏ろしくなってきた。

 それに、このあどけない風のこどもも、姿を見せぬ魔女も。


 河はどうどうと、部屋の真横を流れている。


「おれはどのくらい流されてきたのだろう。すぐに帰らなくてはいけないんだ。あいつと話して、続きにかからないと」

「あいつって、だぁれ?」

 こどもはベッドの端で足をぶらぶら遊ばせながら、首をかしげる。


「あいつは――、あいつだよ。私のおさななじみで……」


 おさななじみの名前が出てこない。

 青年はさじを持つ手を止める。

 名前だけではない。顔も、声も、なぜ話をしなければならないのかも。なんの続きに焦っていたのかも――。

 思い出そうとするほどに、記憶があぶくになって弾けて消えていく。


 青年の取り落としたさじが、軽い音をたてて床に転がった。


「なんだ、やっぱり壊れてるじゃないか。それじゃ還れないよ、あんた」


 部屋の入り口から、美しい女が腕を組んで青年を眺めた。

 月光の瞳。白くかすんだ霧の肌。夜のようなローブをまとった女だ。


 青年は息を呑む。

 とっさに両手が「何か」を探そうとした。

 だが手のうつわを置かねばと考えた瞬間に、何を探そうとしたのかも忘れてしまった。


 わななく両手を見下ろし、呆然とする。 


「……おれは、どうしたら帰れますか」

「さぁ。ハチドリの翼や時計の針なら直してやれるけども。人間はねぇ」


 魔女は血の気のない白い唇を三日月の形にゆがめ、笑い声をたてる。


「魔女。この人、ここにいてもいい?」

「好きにおし。こどもが世話をするならね」

「するよ!」


 こどもは小さな手でこぶしを作り、大きく頷いてみせる。

 魔女は青年に向けるよりも優しい瞳でこどもを眺め、衣擦れの音だけ残して出ていってしまった。





 魔女は日がな、デッキの揺り椅子で河を眺めて過ごしている。


「これ、宝石? また落ちてた」

「宝石ではないね」

「じゃあニセモノかぁ。だから捨てられちゃったのね」


 こどもは河のほとりへ流れつくガラクタを拾っては、魔女に見せに走る。


 最果ての森の“失せものの河”。


 この世から失せて消えるべきものが、流れゆく河。


 こどもが拾いあげるのは、失くしたか失くされたか、本当にいらない物ばかりだ。

 足の折れた椅子。底のない花瓶。

 強く光るだけの、偽物の紅玉(ルビー)。


 自分もそんなガタクタのひとつだったのかと思うと、青年はベッドの上で溜め息が漏れる。


 この森は朝も夜もなく白い霧に覆われて、河の向こう岸も見えない。

 いつ一日が始まり、いつ一日が終わるのかすら曖昧だ。


 青年は幾日か、彼女たちを眺めて過ごし――、

「それなら直してやれる。持っておいで、こども」

「やったぁ!」

 魔女が揺り椅子から立ち上がった。

 こどもが大事に両手で抱えていくのは、濡れそぼったカラスだ。


 青年はベッドから降りて、彼女たちの後を追った。


 カラスは下アゴのクチバシが欠けて折れている。

 これでは餌もとれまい。

 なるほど、生き残れないカラスは失せるべきものにちがいない――と、青年は哀れな「仲間」を眺める。


 魔女はテーブルに広げた紙に、クチバシのあるべき形を写しとる。

 緻密な設計図を描きあげていく横顔の、光る瞳。

 白い喉に、銀の髪が揺れている。


 青年はむずむずと指を握り、開き、そして彼女の道具から勝手にペンと紙を取った。

 どさりと床に腰を下ろし、ペンを滑らせ始める。

 それは、自分の知らない自分に突き動かされるようだった。


「すごいね。あなた、絵描きさんだったのね?」

「そうなのかな。わからないや」

 こどもは青年の首に後ろから飛びつき、笑って喜ぶ。


 魔女はちらりと彼を見やり、さも迷惑そうに鼻を鳴らした。





 昨日は途中で、工房へ逃げられてしまった。

 続きを描かせてもらおうと、魔女がデッキへ出てくるのを待ちわびていた青年は、目を見開いた。


「彼」の腕にとまったカラスは、機械仕掛けのクチバシを開き、ガァと割れた声で鳴く。


「よい子だ。迷わずお還り」


 霧のなかへ差しのべられた腕から、カラスが大きく羽を広げて飛翔する。

 こどもがカラスに手をふって別れを告げている。


 森の上を旋回するカラスから目を下ろし、青年は唖然と、揺り椅子に腰かけた「彼」を凝視した。

 三日月の笑みを浮かべた男は、あの魔女、そのものの美貌。


 ――そうか、魔女は姿を変えるのか。

 青年は描きさしの紙を破り捨て、次の紙へ「彼」のスケッチを始めた。



 だが、筆が乗り始めると、魔女は工房へ引っこんでしまって出てこない。

 ドアの内側へ入れてもらえるのは、こどもだけだ。

 そして翌日現れると、今度は首だけカラスの異形の姿。

 その次の日は、歯の生えそろった不気味な赤ん坊の姿で現れた。


 彼は無駄にした紙を足で踏みにじる。


「あなたは、おれをからかっているんですね」

「そう見えるかい?」

 ヒキガエルが揺り椅子のうえで笑う。


「どれが本当の私だったか。何千年と生きていると、元の姿を忘れてしまう」


 ヒキガエルは濡れた足をぺたりと、引きかけの線にのせて滲ませた。


「絵描きのくせに、絵の一枚も仕上げられないとはね」


「魔女。いじめちゃだめだ。こどもが世話をしてるコだよ」

 口を尖らせて叱るこどもに、ヒキガエルは下品なほどの大きな笑い声をたてる。


「いじめちゃいないさ、こども。見てごらん、ほら、この男、笑っているじゃないか」


 青年は自分の頬に手をあてた。

「……おれは、笑っていますか?」

「こどもに訊いてみたらどうだい」


 青年が目を移すと、こどもはふしぎなものを見る目で、まじまじと青年の顔を観察している。



「――かわいそう。やっぱりあなた、壊れてたんだね」



 胸を突かれて、青年は顔をしかめた。


 その時だ。

 視界をかすめて、赤い光が降り落ちた。


 コツッとデッキの板に跳ね返ったのは、ルビーの偽物だ。


 さっき還っていったはずのカラスが、頭の上を横ぎっていく。

 カギ爪でつかまれたガラスの瓶から、ぱらぱらと赤い石がこぼれて落ちてくる。


「あっ、だめ! それは、こどもの宝もの!」


 こどもが森へ駆けこんでいく。

 白い霞の中へ消えていく小さな背中に、青年はヒキガエルを見返った。

「森は、危なくないのですか」

「獣も魔物もいる。道を失えば戻ってこられない」

「なら……!」

「おまえは、あの子に世話をしてもらった礼もできないのかい?」


 ヒキガエルは大あくびをして、目を閉じてしまった。



  


「カラス、いた! あっち!」


 白い霧のなかでは、足もともおぼつかない。

 こどもと青年は、木の根っこに転び、よろめきながらカラスを追う。


 点々と落ちている赤い光を拾いながら、よくもこんなにクズ石を集めたものだと、こどもの無邪気に感心する。


 もうとっくに、どの方角から来たのか分からなくなってしまった。


 魔女の小屋に帰れなくなったら、どうすればいいだろう。

 この小さな子を守ってやることなんて、できるだろうか。

 青年は考えるほどに、首筋の後ろがチリチリと冷えていく。


「ちょ、ちょっと待っておくれ。息が切れた」

「カラス逃げちゃうよ!」


 こどもは足を止めてくれない。

 たかがクズ石を取りかえすのに、なんでこんな危険を冒さねばならないのか。

 青年は頬に手をあてる。

 やはり唇が勝手に笑っている。


「こども、落っことしちゃう。あなた持ってて」


 今度は、小さな手のひらからあふれそうな石を、まとめて押しつけられた。

 断ることもできずに、へらりと受けとってしまう。


 カラスが落とした石をこどもが拾うたび、青年の手の内は赤い光に強く染められていく。


 大きな根っこに蹴つまづいた。

 石が一斉にあたりに散らばる。


「ああっ!」

「カラス、見失っちゃう! もう! あなた、ひどいよ!」


 あわててしゃがみながら、腹の底がカッと熱を帯びた。

 初日に食べた、焦げついた玉ねぎスープを思い出す。


「ひどいのはキミだ。もうあきらめてくれよ」


 言いかえした青年に、こどもが驚いて目をまたたく。

 真ん丸に大きくなった瞳に、彼は我に返った。


「ごめん。ごめんね、大丈夫だよ。なんでもない」

 青年は慌てて笑みを貼りつける。


 こどもは一粒一粒、泥に汚れたソレをつまんで、青年の手のひらに集めていく。


 燃えるような赤。

 あまりにも鮮烈に光る赤い色。


 腹の底で、抑えきれない蓋がことこと音を立てている。


 くだらない小石。

 進められないデッサン。

 自由奔放な、美しいモデル。


「あいつも、おれが描こうとする度にもったいぶって、まともに描かせてくれなかった」

「あいつって、おともだち?」


 青年はうなずき、赤い石の粒を握りこむ。


「おれのおさななじみだ。モデルに描かせてくれるという約束で、おれをさんざん振り回しておいて、いざ描こうとすると、はぐらかす。パトロンが付くかどうかの大事な時なのに、やっぱりモデルなんてやりたくないと断られて……、そう、それでおれは『嫌ならしかたないね』なんて笑って」


 言いさして、口をつぐんだ。

 

「ああ! あいつ、今ごろおれを笑ってるんだろうな! 大事な絵の一枚も仕上げられずに、ヘラヘラ笑いながらよろめいて、河に落っこちたおれを!」


 青年は勢いをつけて立ち上がる。


「くそっ! 今度こそ、約束を守ってもらうからな!」


 彼は唐突に走りだした。


 その背が、霧の森の中に消えていく。

 ふり返ることもなく、青年の背は見えなくなった。

 こどもは地面にしゃがんだまま、ふたたび濃い霧に閉ざされた森をぽかんと眺める。


「――だれが笑っているものかい。今ごろ“あいつ”は泣いているよ。まったく、女心の分からん男だったね」

 女すがたの魔女が、木立ちの影から現れた。

「魔女はわかる? おんなごころ」

 首をかしげるこどもに、魔女は笑った。


「さてね。何千年と生きていると、自分が女だったか男だったかも忘れてしまう」


 魔女がさしだした人差し指を、こどもは手のひらで握りこんだ。

 ふたりはゆっくりゆっくりと歩いて、霧の森を帰っていく。


「でも、あの人ひどいよ。こどもの宝ものを、みんな持っていっちゃった」

「ああ――」


 魔女はこどものつむじに指を伸ばし、一粒きらりと輝くそれを、幼い手にのせてやった。


「これだけで勘弁しておやり。これはもともと、あの男の“失せもの”なんだから」

「……わかった」


 頬を膨らませるこどもに、魔女は笑う。


「そう。気に食わないときは、ちゃんと怒った顔をするもんだ」

「こども、きにくわない。仲直りしたくても、あの人、もうもどってこないでしょ」

「……そうさね。還ったからね」


 魔女は眉を上げる。


「私とふたりきりは、気に食わないかい?」


 顔をあげたこどもは、右に左に激しく首を振った。


「きにくう!」

「ならよかった。だが、おまえもいつか、自分の“失せもの”を見つけなきゃいけないよ」

「こどもはかえらない。魔女といるよ」


 河の音が聴こえてきた。

 待ちかまえていたかのように、小屋の屋根にカラスがとまっている。


「ほら。あのコもかえらないって」

「まいったね。また家族が増えた」


 魔女はくしゃりと、こどもが一等好きな顔で笑った。



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