最果ての魔女と失せものたち
あさばみゆき
第0話
夜の闇に、銀の光が尾を引き落ちていった。
河面を揺らす、小さな波紋。
膝を抱えていた子どもは、針金のような足で立ち上がる。
「いやだ、失くしてしまったわ! 神よ、お許し下さい。大事な指輪を、どうか御許に」
橋を見上げたら、くすんだ瞳の髪を巻いた女と視線がぶつかった。
女は薄汚い子どもに眉をひそめ、首をひっこめてしまう。
誰も降りてこない。
そうこうしている間に、指輪は“失せものの河”へ流れていってしまうのに。
この世のものは、神さまからの預かりものだ。
物も人も、獣もすべて。
だが大事にしていても人の手から離れてしまう事がある。
そうした失せもの、壊れたものには、祈りを捧げて許しをこうのだ。
“失せものの河”へ流れゆき、御許へ還りますように――と。
子どもはざぶざぶと河へ入った。
重くたゆたう夜の河は、底が見えない。
手探りで水をわけて砂利を撫でる。
「あんた、この寒いのにどうしたの」
向こう岸から声がかかった。
橋のたもとの暗がりで、老婆が赤ん坊をきつく抱き、痛いほどの夜気をこらえている。
「だいじなの、なくしたって」
「およし。失せものの河へ迷いこんだら、おまえが怖い魔女に拾われちまうよ」
「まじょ?」
「そうさ。神さまから失せものを横奪りする、悪い魔女がいる」
子どもはふうんと頷き、また水に手を突っこんだ。
――魔女でも、だれかひろってくれるなら、すてきなのに。
次第に、凍える水がぬるく柔らかに脚を包んで流れゆくようになった。
失せものの河に近づいたのかもしれない。
霧の中で首を巡らせた、その時。
足の指に、硬い、丸いものが引っかかった。
※
きっと、ありがとうって抱きしめてくれる。
「これ」
子どもの手のひらで、大粒のダイヤが得意げに輝いた。
「河に落としたの。よかったね」
女は絶句して、子どもと指輪を何度も見比べる。
連れの紳士が胡散臭げに子どもを覗きこみ、悲鳴をあげた。
「私が買ってやった指輪だ! お前、失くしていたのか!?」
「まさか、ちがうわよ! ――盗まれたの、この子に! 拾ったなんて小銭をたかる気だわ!」
子どもは震えて後ろに飛びすさった。
「返せ、泥棒猫め!」
子どもは通行人を跳ねのけ、石畳の道を駆ける。
警笛が、大人たちが、子どもを追いかけてくる。
「おいで!」
路地裏から、男が子どもを手招いた。
子どもは彼のもとへ転がりこむ。
「ひでぇヤツらだなぁ。指輪、貸してごらん」
言われて初めて、子どもは指輪を持ってきてしまったのに気づいた。
強張った指をはがして開くと、男は指輪を街灯にかざす。
「あの女、自慢してうるせぇからさ。『それガラスだぜ』って教えてやったの。鑑定に行こうぜって。そしたらあいつ、本当は自信なかったのな。わざと“失くした”のさ。河に――ぽちゃん」
「それ、にせもの?」
「意外や意外、こりゃあ本物かもしれんぜ」
警笛が近づいてきた。
「た、たすけて」
袖をつかんだ子どもの手を払い、男はポケットに指輪をつっこんだ。
「旦那! ここに隠れてますぜ!」
男が大声で呼ばうなり、子どもは路地から飛びだした。
その襟首を、警邏の指がかすめる。
大粒の雨が顔に叩きつける。
河が、飛沫をあげて怒鳴っている。
橋の上で囲まれてしまった。
「指輪を出せ!」
子どもはぶるぶる首を横に振る。
人の壁が一歩ずつ迫ってくる。
逃げ場もなく煉瓦の欄干によじのぼった。
濡れた裸足がすべって、河へ落ちそうになる。
キャア、と見物の女が声をあげた。
子どもは真っ直ぐに立ちあがり、雷の轟く空を見上げ――、
落ちた。
濁流に弄られながら、誰かに、腕を伸ばす。
※
煌めくあぶくをまとう白い手が、水の中をさぐっている。
その人差し指を、子どもはしっかと掴んだ。
すると指一本で、体ごと力強く引き上げられた。
「拾ってほしいのかい」
子どもは瞳をしばたたいて頷いた。
目の前で輝く、銀の月の瞳。
「なら、そうしよう」
女は子どもを抱きかかえる。
あまりにもあっさりと与えられた温もりに、子どもは幾度も目を瞬いた。
「……まじょ?」
「そうさ」
「ひろったものは、魔女のものになる?」
そうしてくれたらいいのにと、子どもは魔女を見上げる。
「私が拾おうとも、おまえはおまえのものだ。今までも、これからも。河の果てへ流れゆくまでは、おまえはおまえだけのものだ」
子どもにはよくわからない。
魔女は子どもの無垢な光の瞳を覗きこみ、唇を笑わせた。
「私はよい拾いものをした。ダイヤなんてものよりも、ずっと貴いものだ」
「なら、……ええと。よかったね? 魔女」
魔女はまじまじと子どもを見つめた後で、「そのとおりだ」とくしゃり笑った。
「大事におし」
「うん」
子どもも歯をみせて笑った。
つかんだ指は、まだそのまま。
何もかもがわからなくても、この指を掴むこの時のために、腕を伸ばし続けたのだとは、子どもにもわかったから。
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