第2話
ぬるい水にもまれるうちに、なにに向って腕を伸ばしていたのかも、忘れてしまった。
けれど、このまま消えちゃならないと叫ぶ頭の奥からの声に、こどもの手は、なにかをつかんだ。
硬い棒。
水面の向こうから、美しい女の白い面が見下ろしていた。
※
「人の子が生きて流れつくのは、何百年ぶりだろうね。いや、何十年ぶりだったか」
女は長い爪でこどものシャツをつまみ、暖炉の上へ放り投げる。
こどもはゴワゴワの毛織物に埋もれて、大きなクシャミをした。
「火のそばであったまっておいで。今、ちょうどスープが煮えたところだ」
渡されたのは、焦げたにおいの、泥みたいに黒いスープだ。
そのままの焦げた味がする。
こどもがじっと見つめると、女もスープに口をつけた。平然と咀嚼する彼女に、こどもはだまりこくって、自分のうつわを見下ろした。
「それで、おまえは失くしたか、失くされたか、どうしたんだい」
「なくした? なくされた?」
「おまえの名は」
こどもは一度上げた顔を、しばし経って、また下げる。
「なまえ、わからない」
「おまえはあの河に、名まで落っことしてきたのだね。それじゃあ還れないよ」
「かえる……?」
オウム返しにぼんやりとつぶやくこどもに、女は息をついた。
そして長い爪で窓をさす。
「これは、失せものの河だ。私は河の守り主の魔女」
「うせもの。……なくしちゃったもの?」
「そう。この河へ流れつくのは、失くしたか、失くされたか、忘れさられるべきものばかり。おまえもそのひとつだ。失せてよいような、いらないこどもだったのだろうね」
こどもは言葉を噛みくだけない代わりに、スープを飲み下す。
やっぱり苦い。
「……いらないこどもだけど、ここにいてもいい?」
「よくはないが、悪くもない」
霧のように掴みがたい返事だ。こどもはもじもぞとテーブルの下のつま先をこすり合わせる。
「好きにおし」
魔女は三日月の形にくちびるを曲げ、「だけど私は、世話はうまくない」と笑って部屋から消えた。
※
窓の外の霧のように、魔女はいつ食べていつ眠っているのかも、あいまいだ。
けれど魔女が料理を焦がすのは、決まって工房にこもっている日。夢中になって暖炉の鍋を忘れてしまうせいだと分かった。
こどもは好きに寝て好きに起きて、魔女についてまわる。
魔女が河岸で失せものを拾うのを手伝い、彼女が気まぐれに修理するのを、横から眺める。
近ごろの魔女は、飛べないハチドリの翼を直している。
作業に飽きると、デッキの揺り椅子にかけて、河を眺める。
こどももついていって、彼女のとなりに膝を抱えて座る。
霧のなか、重たくうねる大きな河。
白い獣の腹の中のようだ。
ぬるい水に、すべてが溶かされて押し流されてゆく。
「魔女。河、どこまで流れていくの? むこうにはなにがある?」
「なにもないよ。河の流れゆく先には、なにもない」
「なんにも? 森は? 村とかは?」
「そうさね」」
魔女は杖で、霧に包まれたあちらを指した。
「あるのは、“終わり”だ。あるいは“無”」
魔女の言うことは、やはりこどもには分からない。
けれどあの先にはなにかよからぬモノがあるらしいと、氷を抱いたように腹が冷たくなった。
ローブのすそを握るこどもに、魔女は月の形の笑みを浮かべた。
「恐ろしくはない。いずれ誰もが流れてゆく場所だ」
「ふうん……」
どこからか、獣のうなる声がする。
こどもが目で捜すと、霧の森からではない、上流に岩場に、黒いけむくじゃらの塊が引っかかっていた。
こどもは駆け寄り、おっかなびっくり、その胴体を突いてみる。
前足がもがくように宙をかいた。
「犬、生きてる。ひろっていい? 魔女、直せる?」
「どうだろうねぇ。何を失くしたか、失くされたか、それしだいだ」
魔女はどこかへ出かけてしまった。
こどもは暖炉の前まで、犬のカラダを引きずってきた。
犬は、こどもと変わらぬ大きさだ。
大仕事に滲んだ汗に、まるい額を袖でぬぐう。
犬の腹が、上に、下に、動いている。
ごわごわの硬い毛をなでると、首に古い首輪を見つけた。
「あなた、いらないコになっちゃったのね」
犬の温かい鼻づらに顔を近づけ、こどもは悲しくなる。
自分がここにいることは、どうしてか、ぜんぜん悲しくないのに。
暖炉でぬくもった毛並みに顔をうずめるうち、いつの間にやらこどもも眠ってしまった。
※
頬をなめあげられた。
こどもが目を開けると、犬はもう元気に立ち上がっていた。
口から肉のにおいがする。
「あなた、直してもらった? よかったね」
「直してないよ」
魔女は犬に骨を放り、肩をすくめる。
こどもは瞳をまんまるにした。
犬はしっぽを振って骨にかぶりつき、とても元気そうで、どこも壊れてないように見える。
「私が直すのは、表がわだけだ」
「じゃあ、ウラがわに壊れてるとこがある? なら、このコ、まだかえれない?」
「だろうね」
魔女は、肉が沈んだスープ皿をこどもに押しつけ、また河の揺り椅子に戻ってしまった。
さじでひっくり返した肉は、焦げていない。
「あなた、かえりたい? おうちにかえる?」
犬ははこどもの頬に鼻をすり寄せてくる。
「こども、直せるかもしれない。魔女のやってるの、ずっと横で見てた」
こどもが立ち上がると、犬は尻尾をふって後に従った。
工房をのぞきこむ。
とたん、作業台のランタンに小さな火が灯った。
窓辺のサンキャッチャーが、風もないのにくるくる周って白い光を躍らせる。
翼を修理中のハチドリは、止まり木でおとなしく眠っているようだ。
設計書の上には、組み立て途中の細かな部品。
こどもは爪先立ちで中へ忍び込む。
犬も神妙な様子でついてきて、あたりのモノにすんすんと鼻を鳴らしてついてきた。
魔女が河辺で拾ってきた物は、この部屋に詰め込んである。
こどもは手当たりしだい、とっかえひっかえ犬の鼻先に差し出しては、噛ませてみたり、体に当ててみたり。
犬は困った瞳で首をかしげるばかりだ。
すると、ガラクタの山の奥から、真鍮の宝箱が見つかった。
――そう、これだ。魔女はこの宝箱に、使えそうな“失せもの”を放り込んでおく。そしてしかるべきモノが来たときに、修理の部品にあてがっていた。
「さぁて、使えるものはないかね」
魔女の口調をまね、こどもは宝箱の蓋を開ける。
一瞬、その隙間に、色とりどりの煌めきが覗いたような気がしたのだが。
こどもの顔面に、黒い霧が吹きつけた!
こどもは激しくムセてそっくり返る。
犬が吠えて周囲を跳ねまわる。
犬の大きな体と尻尾が、目の取れたぬいぐるみをふっ飛ばし、単眼鏡を割り、棚から一列、薬の瓶をなぎ落とす。
驚いたハチドリが高い声を上げ、宙に舞い上がった。
「だ、だいじょうぶ。犬、鳥、おちついて」
こどもはムセこみながら、大あわてで窓を開ける。
鼻をつく悪臭が風にのって外へ流れた。
「さわがしいね」
デッキで寝ていた魔女が、こちらに首をひねる。
「なんでもない」
「ははぁ。こども、おまえ宝箱を開けたね」
「ごめんなさい」
身を縮めるこどもに、魔女は笑って腰を上げる。
こどもは慌てて左右を見回した。
作業台の部品が、設計書の上でバラバラに散らばっている。
さらに息を引ききった。
ハチドリがサンキャッチャーのひもに引っかかって、こんがらがってる!
「と、鳥!」
慌てて小さな体をひもからはずす。
こどもの手のひらのなかで、組み立て途中の機械の翼が、根本からぼろりと落ちた。
――どうしよう……!
くぅんと犬が鼻を寄せてくる。
「おやまぁ、こんなに散らかして」
戸口に、魔女の声!
こどもはハチドリを背中に隠した。
「あ、あのっ。魔女、ご、ごめんなさい」
「さっき聞いたよ」
手のひらがこどもの頭にのった。
「ヒドイにおいだ。河底に積もったヘドロにイボガエルのげっぷ、トカゲの生皮、腐らせた胞衣、エトセトラエトセトラ……。さぁ、家じゅうの窓を開けてくるんだ。ほら、犬も出ておいき。おまえが失くしたモノは、ここにはないよ」
こどもは震えながら、自分の部屋に飛びこむ。
そして動かなくなってしまったハチドリを、ベッドの下につっこんだ。
体じゅうが心臓になったように、指先まで脈打っている。
※
魔女はまた鍋を煮詰めすぎて肉を焦がした。
たまの肉なのに、焦げた味すら分からない。
こどもはうつむいて、ひたすらアゴを動かす。
足もとで、犬がスープをなめながら、こどもを見上げる。
魔女は頬杖をついて、こどもの前髪をかきあげた。
「元気がないね?」
「げんきだよ」
笑みをはりつけたものの、ベッドの下の壊れたハチドリを思うと、耳の裏がピリピリ痛くなる。
どうせ、失せものの河を流れてきた鳥だ。
こどもが拾わなければ、あのまま、その先の“お終い”へ消えてゆくはずだった。
(だから、そんなに悪いことをしたワケじゃないよ)
いつまでたっても噛みきれない肉を、口のなかで持てあます。
「そうだ。おまえたち、ハチドリを知らないかい? さっきから姿がみえなくてね」
「しらない!」
こどもの大声に、犬が驚いて耳を立てる。
「……なら、さっき窓を開けたときに、飛んでいってしまったのかね。まだ直りきってなかったのに、無事に還れればよいけれど」
魔女は窓の外の霧に、寂しい瞳をする。
こどもは椅子からおり、魔女のと自分のと犬のうつわを河辺へ運んだ。
水のなかで適当にゆさぶって洗う。
今日はごうごうと、やけに河がやかましく唸っている。
※
抱いた犬を起こさぬように、こどもは寝床から這いだした。
魔女はデッキの揺り椅子にもたれて、まぶたを下ろしていた。
ゆら、ゆら、静かに揺れる彼女の、近づきがたい美しさ。
こどもは畏れて足を止める。
闇と同じ色のローブが、そのまま黒い河とひとつに溶けてしまいそうだ。
「なんだい、眠れないのか?」
こどもは、まぶたを持ちあげた彼女にほっとする。
なのにろくに顔も見られぬまま、おずおずと近づき――、
壊れたハチドリを、両手で差しだした。
「こどもが壊した。ごめんなさい」
「おやまぁ」
魔女はハチドリを受けとり、壊れた翼の破片を検分する。
「わざとじゃない。そうだろう?」
「……うん」
「おいで」
魔女は犬にハチドリをくわえさせ、「机にもどしておくれ」と頭をなでる。
犬が尻を向けると、魔女はこどもを膝に抱きあげた。
「心配することはない。私は外側なら直してやれる。そう言ったろう」
「ハチドリ、まだ直る? ぜんぜん動かないの」
「ハチドリってのは、死んだように眠るもんなのさ」
魔女の胸にもたれて、こどもは大きな息をつく。
「よかった」
「おやすみ。こどもも、犬も」
おつかいを終えて戻ってきた犬まで、魔女の膝に乗り上がる。
魔女は重たいねぇと笑った。
「このコ、おうちにかえりたいの。かえれないの、かわいそうだ」
「……そうだねぇ。だけど、犬。おまえはもう、あれはいらないだろう?」
そうですねと応えるように、犬はこどもの顔に鼻をすりつける。
あまえた声で鳴く犬に、こどもは硬い毛の首を抱いた。
魔女は、こどもの知らない言葉の歌を口ずさむ。
河の流れと同じリズムの、寂しい歌だ。
魔女と犬のぬくもりに挟まれて、こどもはとろけるように深く眠った。
※
こどもが目を覚ましたときには、犬は冷たくなっていた。
きのうは確かに濡れていた鼻さきに、最後のキスを落とす。
花の冠で飾った犬のからだは、黒い河の流れに、ゆっくりと沈んでいく。
「命は、いつか必ず失うものだ」
「うん」
「あの犬は、おまえのそばで死ぬことを選んだ。だからおまえが、覚えていておやり」
「……うん」
犬の体が、霧のむこうに見えなくなる。
しゃがみこんで動かないこどものとなりに、魔女は凛と立っている。
その人差し指を、こどもはきゅうっと握りこんだ。
「魔女は、こどものママみたい」
「わたしが?」
魔女は笑う。
その横顔が、みるみる男の輪郭になっていく。
こどもは幾度も目を瞬いて、美しい男を見上げた。
「じゃあ、パパ?」
「どうかな」
まばたきする間に、今度は同い年くらいの少女の姿になっている。
「どれがほんと?」
「どれだか、もう忘れてしまったな」
少女がきちんと並んだ白い歯を見せて笑う。
「なら魔女は、こどものママでパパで、お友だちにもなれるね」
「私はおまえのどれでもない」
「どうして? ケチんぼ」
「こどもはいつか、還るのだから」
こどもが黙ってしまうと、魔女はこどもの頭に手のひらを置いた。
くしゃくしゃの柔らかい髪。
しなやかな命に満ちた髪だ。
「さぁ、これから、ハチドリを直してやらなきゃね」
「直る?」
「おまえが壊したんだから、おまえが直すんだよ。教えてやろう」
「ホント!? すごい! うれしい!」
黒い河のうねりに背を向け、ふたりは笑いながら家へ帰る。
部屋の明かりが細い帯を作る。
錆びた蝶番がきしむ音をたて、扉がしまった。
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