第2話




 ぬるい水にもまれるうちに、なにに向って腕を伸ばしていたのかも、忘れてしまった。


 けれど、このまま消えちゃならないと叫ぶ頭の奥からの声に、こどもの手は、なにかをつかんだ。

 硬い棒。


 水面の向こうから、美しい女の白い面が見下ろしていた。





「人の子が生きて流れつくのは、何百年ぶりだろうね。いや、何十年ぶりだったか」

 女は長い爪でこどものシャツをつまみ、暖炉の上へ放り投げる。


 こどもはゴワゴワの毛織物に埋もれて、大きなクシャミをした。


「火のそばであったまっておいで。今、ちょうどスープが煮えたところだ」


 渡されたのは、焦げたにおいの、泥みたいに黒いスープだ。

 そのままの焦げた味がする。


 こどもがじっと見つめると、女もスープに口をつけた。平然と咀嚼する彼女に、こどもはだまりこくって、自分のうつわを見下ろした。


「それで、おまえは失くしたか、失くされたか、どうしたんだい」

「なくした? なくされた?」

「おまえの名は」


 こどもは一度上げた顔を、しばし経って、また下げる。


「なまえ、わからない」

「おまえはあの河に、名まで落っことしてきたのだね。それじゃあ還れないよ」

「かえる……?」


 オウム返しにぼんやりとつぶやくこどもに、女は息をついた。

 そして長い爪で窓をさす。


「これは、失せものの河だ。私は河の守り主の魔女」

「うせもの。……なくしちゃったもの?」

「そう。この河へ流れつくのは、失くしたか、失くされたか、忘れさられるべきものばかり。おまえもそのひとつだ。失せてよいような、いらないこどもだったのだろうね」


 こどもは言葉を噛みくだけない代わりに、スープを飲み下す。

 やっぱり苦い。


「……いらないこどもだけど、ここにいてもいい?」

「よくはないが、悪くもない」


 霧のように掴みがたい返事だ。こどもはもじもぞとテーブルの下のつま先をこすり合わせる。


「好きにおし」


 魔女は三日月の形にくちびるを曲げ、「だけど私は、世話はうまくない」と笑って部屋から消えた。





 窓の外の霧のように、魔女はいつ食べていつ眠っているのかも、あいまいだ。

 けれど魔女が料理を焦がすのは、決まって工房にこもっている日。夢中になって暖炉の鍋を忘れてしまうせいだと分かった。


 こどもは好きに寝て好きに起きて、魔女についてまわる。

 魔女が河岸で失せものを拾うのを手伝い、彼女が気まぐれに修理するのを、横から眺める。

 近ごろの魔女は、飛べないハチドリの翼を直している。

 作業に飽きると、デッキの揺り椅子にかけて、河を眺める。

 こどももついていって、彼女のとなりに膝を抱えて座る。


 霧のなか、重たくうねる大きな河。

 白い獣の腹の中のようだ。

 ぬるい水に、すべてが溶かされて押し流されてゆく。


「魔女。河、どこまで流れていくの? むこうにはなにがある?」

「なにもないよ。河の流れゆく先には、なにもない」

「なんにも? 森は? 村とかは?」

「そうさね」」

 魔女は杖で、霧に包まれたあちらを指した。


「あるのは、“終わり”だ。あるいは“無”」


 魔女の言うことは、やはりこどもには分からない。


 けれどあの先にはなにかよからぬモノがあるらしいと、氷を抱いたように腹が冷たくなった。

 ローブのすそを握るこどもに、魔女は月の形の笑みを浮かべた。


「恐ろしくはない。いずれ誰もが流れてゆく場所だ」

「ふうん……」


 どこからか、獣のうなる声がする。


 こどもが目で捜すと、霧の森からではない、上流に岩場に、黒いけむくじゃらの塊が引っかかっていた。


 こどもは駆け寄り、おっかなびっくり、その胴体を突いてみる。

 前足がもがくように宙をかいた。


「犬、生きてる。ひろっていい? 魔女、直せる?」

「どうだろうねぇ。何を失くしたか、失くされたか、それしだいだ」


 魔女はどこかへ出かけてしまった。


 こどもは暖炉の前まで、犬のカラダを引きずってきた。

 犬は、こどもと変わらぬ大きさだ。

 大仕事に滲んだ汗に、まるい額を袖でぬぐう。

 犬の腹が、上に、下に、動いている。

 ごわごわの硬い毛をなでると、首に古い首輪を見つけた。


「あなた、いらないコになっちゃったのね」


 犬の温かい鼻づらに顔を近づけ、こどもは悲しくなる。

 自分がここにいることは、どうしてか、ぜんぜん悲しくないのに。


 暖炉でぬくもった毛並みに顔をうずめるうち、いつの間にやらこどもも眠ってしまった。





 頬をなめあげられた。

 こどもが目を開けると、犬はもう元気に立ち上がっていた。

 口から肉のにおいがする。


「あなた、直してもらった? よかったね」


「直してないよ」

 魔女は犬に骨を放り、肩をすくめる。


 こどもは瞳をまんまるにした。

 犬はしっぽを振って骨にかぶりつき、とても元気そうで、どこも壊れてないように見える。


「私が直すのは、表がわだけだ」

「じゃあ、ウラがわに壊れてるとこがある? なら、このコ、まだかえれない?」

「だろうね」

 魔女は、肉が沈んだスープ皿をこどもに押しつけ、また河の揺り椅子に戻ってしまった。

 さじでひっくり返した肉は、焦げていない。


「あなた、かえりたい? おうちにかえる?」

 犬ははこどもの頬に鼻をすり寄せてくる。


「こども、直せるかもしれない。魔女のやってるの、ずっと横で見てた」

 こどもが立ち上がると、犬は尻尾をふって後に従った。



 工房をのぞきこむ。

 とたん、作業台のランタンに小さな火が灯った。

 窓辺のサンキャッチャーが、風もないのにくるくる周って白い光を躍らせる。

 翼を修理中のハチドリは、止まり木でおとなしく眠っているようだ。

 設計書の上には、組み立て途中の細かな部品。


 こどもは爪先立ちで中へ忍び込む。

 犬も神妙な様子でついてきて、あたりのモノにすんすんと鼻を鳴らしてついてきた。


 魔女が河辺で拾ってきた物は、この部屋に詰め込んである。

 こどもは手当たりしだい、とっかえひっかえ犬の鼻先に差し出しては、噛ませてみたり、体に当ててみたり。

 犬は困った瞳で首をかしげるばかりだ。


 すると、ガラクタの山の奥から、真鍮の宝箱が見つかった。

 ――そう、これだ。魔女はこの宝箱に、使えそうな“失せもの”を放り込んでおく。そしてしかるべきモノが来たときに、修理の部品にあてがっていた。


「さぁて、使えるものはないかね」


 魔女の口調をまね、こどもは宝箱の蓋を開ける。

 一瞬、その隙間に、色とりどりの煌めきが覗いたような気がしたのだが。


 こどもの顔面に、黒い霧が吹きつけた!


 こどもは激しくムセてそっくり返る。

 犬が吠えて周囲を跳ねまわる。

 犬の大きな体と尻尾が、目の取れたぬいぐるみをふっ飛ばし、単眼鏡を割り、棚から一列、薬の瓶をなぎ落とす。

 驚いたハチドリが高い声を上げ、宙に舞い上がった。


「だ、だいじょうぶ。犬、鳥、おちついて」


 こどもはムセこみながら、大あわてで窓を開ける。

 鼻をつく悪臭が風にのって外へ流れた。


「さわがしいね」


 デッキで寝ていた魔女が、こちらに首をひねる。


「なんでもない」

「ははぁ。こども、おまえ宝箱を開けたね」

「ごめんなさい」


 身を縮めるこどもに、魔女は笑って腰を上げる。


 こどもは慌てて左右を見回した。

 作業台の部品が、設計書の上でバラバラに散らばっている。

 さらに息を引ききった。

 ハチドリがサンキャッチャーのひもに引っかかって、こんがらがってる!


「と、鳥!」


 慌てて小さな体をひもからはずす。

 こどもの手のひらのなかで、組み立て途中の機械の翼が、根本からぼろりと落ちた。


 ――どうしよう……!


 くぅんと犬が鼻を寄せてくる。


「おやまぁ、こんなに散らかして」


 戸口に、魔女の声!

 こどもはハチドリを背中に隠した。


「あ、あのっ。魔女、ご、ごめんなさい」

「さっき聞いたよ」

 手のひらがこどもの頭にのった。


「ヒドイにおいだ。河底に積もったヘドロにイボガエルのげっぷ、トカゲの生皮、腐らせた胞衣、エトセトラエトセトラ……。さぁ、家じゅうの窓を開けてくるんだ。ほら、犬も出ておいき。おまえが失くしたモノは、ここにはないよ」


 こどもは震えながら、自分の部屋に飛びこむ。

 そして動かなくなってしまったハチドリを、ベッドの下につっこんだ。


 体じゅうが心臓になったように、指先まで脈打っている。





 魔女はまた鍋を煮詰めすぎて肉を焦がした。

 たまの肉なのに、焦げた味すら分からない。

 こどもはうつむいて、ひたすらアゴを動かす。


 足もとで、犬がスープをなめながら、こどもを見上げる。

 魔女は頬杖をついて、こどもの前髪をかきあげた。


「元気がないね?」

「げんきだよ」


 笑みをはりつけたものの、ベッドの下の壊れたハチドリを思うと、耳の裏がピリピリ痛くなる。


 どうせ、失せものの河を流れてきた鳥だ。

 こどもが拾わなければ、あのまま、その先の“お終い”へ消えてゆくはずだった。


(だから、そんなに悪いことをしたワケじゃないよ)


 いつまでたっても噛みきれない肉を、口のなかで持てあます。


「そうだ。おまえたち、ハチドリを知らないかい? さっきから姿がみえなくてね」

「しらない!」


 こどもの大声に、犬が驚いて耳を立てる。


「……なら、さっき窓を開けたときに、飛んでいってしまったのかね。まだ直りきってなかったのに、無事に還れればよいけれど」

 魔女は窓の外の霧に、寂しい瞳をする。


 こどもは椅子からおり、魔女のと自分のと犬のうつわを河辺へ運んだ。

 水のなかで適当にゆさぶって洗う。


 今日はごうごうと、やけに河がやかましく唸っている。





 抱いた犬を起こさぬように、こどもは寝床から這いだした。


 魔女はデッキの揺り椅子にもたれて、まぶたを下ろしていた。

 ゆら、ゆら、静かに揺れる彼女の、近づきがたい美しさ。

 こどもは畏れて足を止める。


 闇と同じ色のローブが、そのまま黒い河とひとつに溶けてしまいそうだ。

 

「なんだい、眠れないのか?」


 こどもは、まぶたを持ちあげた彼女にほっとする。

 なのにろくに顔も見られぬまま、おずおずと近づき――、


 壊れたハチドリを、両手で差しだした。


「こどもが壊した。ごめんなさい」


「おやまぁ」

 魔女はハチドリを受けとり、壊れた翼の破片を検分する。

「わざとじゃない。そうだろう?」

「……うん」

「おいで」


 魔女は犬にハチドリをくわえさせ、「机にもどしておくれ」と頭をなでる。

 犬が尻を向けると、魔女はこどもを膝に抱きあげた。


「心配することはない。私は外側なら直してやれる。そう言ったろう」

「ハチドリ、まだ直る? ぜんぜん動かないの」

「ハチドリってのは、死んだように眠るもんなのさ」


 魔女の胸にもたれて、こどもは大きな息をつく。


「よかった」

「おやすみ。こどもも、犬も」


 おつかいを終えて戻ってきた犬まで、魔女の膝に乗り上がる。

 魔女は重たいねぇと笑った。


「このコ、おうちにかえりたいの。かえれないの、かわいそうだ」

「……そうだねぇ。だけど、犬。おまえはもう、あれはいらないだろう?」


 そうですねと応えるように、犬はこどもの顔に鼻をすりつける。

 あまえた声で鳴く犬に、こどもは硬い毛の首を抱いた。


 魔女は、こどもの知らない言葉の歌を口ずさむ。

 河の流れと同じリズムの、寂しい歌だ。

 魔女と犬のぬくもりに挟まれて、こどもはとろけるように深く眠った。





 こどもが目を覚ましたときには、犬は冷たくなっていた。


 きのうは確かに濡れていた鼻さきに、最後のキスを落とす。

 花の冠で飾った犬のからだは、黒い河の流れに、ゆっくりと沈んでいく。


「命は、いつか必ず失うものだ」

「うん」


「あの犬は、おまえのそばで死ぬことを選んだ。だからおまえが、覚えていておやり」

「……うん」


 犬の体が、霧のむこうに見えなくなる。


 しゃがみこんで動かないこどものとなりに、魔女は凛と立っている。

 その人差し指を、こどもはきゅうっと握りこんだ。


「魔女は、こどものママみたい」

「わたしが?」


 魔女は笑う。

 その横顔が、みるみる男の輪郭になっていく。


 こどもは幾度も目を瞬いて、美しい男を見上げた。


「じゃあ、パパ?」

「どうかな」


 まばたきする間に、今度は同い年くらいの少女の姿になっている。


「どれがほんと?」

「どれだか、もう忘れてしまったな」


 少女がきちんと並んだ白い歯を見せて笑う。


「なら魔女は、こどものママでパパで、お友だちにもなれるね」

「私はおまえのどれでもない」

「どうして? ケチんぼ」

「こどもはいつか、還るのだから」


 こどもが黙ってしまうと、魔女はこどもの頭に手のひらを置いた。

 くしゃくしゃの柔らかい髪。

 しなやかな命に満ちた髪だ。


「さぁ、これから、ハチドリを直してやらなきゃね」

「直る?」

「おまえが壊したんだから、おまえが直すんだよ。教えてやろう」

「ホント!? すごい! うれしい!」


 黒い河のうねりに背を向け、ふたりは笑いながら家へ帰る。

 部屋の明かりが細い帯を作る。


 錆びた蝶番がきしむ音をたて、扉がしまった。

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