第2話
『オスカー様はただの友達です。私が好きなのはクラウス様なの』
セリーナの言葉が、俺の胸を抉った。直接言われたわけではない。たまたま側に居合わせて聞い言葉だ。
『私は……オスカー様が、好きです!』
あの日、木の下でのセリーナの告白。あの言葉は何だったのか。あの時交わした口付けは、一体何だったのか……。
ズキズキと痛む胸のう内をセリーナに問い詰めることも出来ず、一日が過ぎた。
朝の挨拶と短い言葉の遣り取り。セリーナは何時もと変わらぬ笑顔を浮かべたが、オスカーの内心はセリーナへの疑念でいっぱいだった。
放課後の日も沈み始めた夕刻。
レティーナと待ち合わせとなるペシャワル広場の一角に、待ち人の家紋の入った馬車を見つけてオスカーは駆けよった。
御者が扉を開くのと同時に、中に乗る待ち合わせの人物にオスカーは声をかけた。
「外で会いたいなんて珍しいな。しかも騎士服で来いとか……って、レティーナ!?その格好は……??」
現れたレティーナは、その長い金髪を同色の短髪に設えたカツラの中に押し込め、彫りを際立たせ瞳を強調するメイクを施し、黒と金を基調とした騎士服に身を包んだ男装の麗人と化していた。
「なにか問題でも?」
声音も普段より幾分低めを意識したもので、意思の強さを感じた。その視線も何時もよりも鋭く鋭利な刃物を思わせるモノで、迂闊な事は言えないと感じさせるには充分な雰囲気を漂わせていた。
「いや……問題など…………」
問題はないとは言えないが、その纏う雰囲気に気圧された……とは、流石に口には出せない。
オスカーは男で騎士科に属する、半人前とはいえ一戦士だ。それが、自分より背の低い細身の女に気圧されているなど到底口に出きるものでは無い。
知らなかった、婚約者の一面。
普段は、やんわりとした雰囲気である事が多く、何かあれば窘めてくる。……そう、同い年なのに、まるで年上の女性に諭されている感覚を抱くことも屡々で、それがオスカーの男としての自尊心を傷つけていた。
だからこそ、エリンの天真爛漫に見えるその姿が、微笑みが、同じ目線に立つ人間として接せられる様で心地良かった。
今日のレティーナは、不快感を全面に押し出している感が強く、背後からは黒いオーラが見えていた。オスカーとしては常とのレティーナとの違いに、ただたじろぎ戸惑うばかりで。
「心配しないで。今日は、ちょっと趣向を変えてみただけだから」
ニィッと、口の端を上げて嗤うその表情は冷酷な悪魔にも見えて、これから起こることにただ、戦々恐々たる思いが湧き起こった。
なんだ……これは?
これが、レティーナなのか?
レティーナなんだよな?
『趣向を変えてみた』
趣向一つで、纏う雰囲気も抱く印象もガラリと変えることが出来るのか?
今日は、一体何をするつもりだ……?
オスカーの胸には、そこはかとない不安が渦巻く。
「オスカー様、女性との経験は?」
移動中の馬車内。レティーナは、いきなりそんな事を聞いてきた。突拍子も無い質問に、オスカーは戸惑う。
「……は?な、何でそんな事をいきなり聞くんだよ!?」
質問の意図が分からない。令嬢が口に乗せる言葉でも無いし、そんな下世話な質問をするとはどう言うつもりなのか。
「大事な事だから聞いてるの。経験は有るの?無いの?」
「な…ない、けど……(何で、そんなことを聞くんだよ!?)」
「ふぅーん……」
そっと細められるレティーナの金茶の瞳。何を考えているのかは全く分からない。
不意に目が合うと、うっそりと微笑むその顔に、何か悪巧みでもしていそうな予感が過る。
「決めた。ふふっ……。今日は、オスカー様に新しい世界を見せてあげるわ」
何を決めたのか、その笑みと言い、言葉と言い、表情と言い、嫌な予感しかしない。
「ウソだろ………」
レティーナに連れられて目的地に付いたオスカーの情けない声が、煌びやかな色町の一角に響いた。
「何が『ウソだろ?』なのかしら?入りますよ」
ツンと澄ました声音で、スタスタ前を進むレティーナ。そこに迷いは微塵も無く、オスカーは目を見開いた。
「えっ……!?だが、ここは……!!?」
「良いから、オスカー様。約束しましたよね?この一週間は、私に付き合うって」
「し、しかし、ここは……っ!!」
一見すると煌びやかな貴族屋とも取れる大きな建物は、王都の貴族街から程近く栄えた町並みのなかに建てられていた。この一角の裏路地には、官能的な格好の女がしなやかな手付きで道行く男達を誘惑し、女達の床へと誘っている。
大きな道沿いの建物周辺では、人良さげな優男や楚々足る出で立ちの女が其々の建物に男を招き……そんな一角に建つここは、紛れもなく娼館だった。
焦り戸惑うオスカーを余所に、レティーナは気にする風もなく建物に足を運ぶ。
少し距離が空いたところでレティーナがピタリと足を止め振り返る。
「早くてくれ。時間は限られているんだから。それともなに?即婚約破棄してオスカー様に慰謝料を用立てられるの?それと、寮の門限に間に合わなくても良いのかしら?」
ニヤと、意地の悪い黒さを感じる笑みは、今の彼女の格好に物凄く似合っていて、その口調も声音も響く度にオスカーの背筋にゾワリとした感覚を抱かせていた。
騎士科の教官が、地獄の鍛練でクタクタに倒れ込んだ生徒に鬼の形相を浮かべて課題を追加する時にも似た、威圧と挑発の混ざる雰囲気だった。
(ぐっ……。ここは、黙って従うか………)
娼館の入り口には二人の男が立っている。恰幅の良い体つきに、やや厳つさを感じさせる風貌は、店の用心棒を兼ねているから。
男達が開く扉を通り建物の中に入ると、小ホール程の広さの絢爛な空間に、天井には豪華なシャンデリア、中央にはダンスホール、壁側には軽食と談話を楽しめるテーブルセットが設置されていた。
「居らっしゃあ~い♡あらぁ、今日は若いイイ男、それも二人も!!」
「イヤ~ン♡男だなんてまだ早いわぁ♪♪でも、あと数年もすれば確かに……。坊や達、今日はお姉さん達がイイコトたくさん教えてあ・げ・る♡」
ホールに足を踏み入れるなり、女が群がってきた。レティーナより目立つオスカーの腕に細やかな腕を絡め、ふにゃりと胸を押し当てて話し掛けてきたのは、この店の華であり売り物でもある娼婦達で、長い髪を緩く結い上げ、細い首にほつれ掛かる髪がしどけない色香を醸し出す。華麗に見えるドレスは、豊満な胸の形を強調し、深い谷間がしっかりと見えていた。太股にも深いスリットが入り、まだ本番の経験が無いオスカーには正直、視覚的刺激が強く目のやり場に困った。
「うふふ…こっちの坊やは随分と華奢なのね?年は幾つかしら?もしかして、まだ、ここに来ちゃいけない年なんじゃないの?」
一人の女がレティーナの肩に手をかけ、反対の手で頬をなぞる。真っ赤に塗られた艶のある唇が、レティーナの耳朶を食むように囁いた。
「なっ……!?」
レティーナは、女だぞ!?子爵とは言え、爵位を継ぐ人で、娼婦ごときが気軽に触れて良い相手じゃない!!
汚される。
そんな思いが、脳裏に過った。そうと思うとオスカーの中にえも言えぬ怒りにも似た感覚が湧き起こる。
「だ……ダメだ!こいつに触るな!!」
自らの腕に絡んだ女達を振りほどき、慌ててレティーナの腕を引いた。そして、自らの背に庇うように女との間に割って入いる。
俺は、何をしているんだ……?
冷静に考えれば、ここに連れてきたのはレティーナで、女に絡まれたからと言って庇う必要があったのだろうか?
それなのに、俺は何をしているんだ?
「何してる?目的があってここに来たのに。オスカー様、美しい蝶を驚かせて何をしているんだか……」
サッと、背に庇われていた筈のレティーナはオスカーの隣に立ち、ジロリと睨む。ふいと顔を背けると、先程レティーナの耳を食んだ女性の手を取り、その手の甲に口付けを落とした。
見た目は華奢な体付きの麗人。けれど、その正体は紛れもなく貴族の令嬢なのだが……。
「美しいお姉様。連れが粗相を働いて申し訳ない。どうか気を悪くしないで欲しい。いま私は、貴女とお近付きになりたいと望んでいるのだから……」
甘く囁くように切望の眼差しを向けられれば、女はうっすらと頬を紅潮させた。
けれど間近で接した女は、自らの手の甲に口付けを落とし切望の眼差しを向けるこの騎士服の人間の正体に勘づいている。
それもそうだ。肩なり手なり触れれば女と男とでは骨格からして違うのだから。どんなに取り繕っても、覆せない部分は多いものだ。
「あなた……女……よね……?」
「お分かりで……?」
レティーナは口付けの格好のまま、顔をそっと上げる。その瞳に悪戯な光を宿し、試すような目付きを女に向けた。
私の誘いを受けてくれる気は有るの──?
視線にその問いかけをのせていた。
「何年、この仕事をしていると思って?男と女の違いぐらい、変装してても分かるものよ?」
呆れたように、レティーナに手を取られたままの女──レベッカは顔を崩し、はぁと一つ息を吐き出す。
華奢な騎士服の正体は女…それもまだ少女の域を脱したかと言う年頃なのに、男装して眉目秀麗に見える成りと、獣にも似た、それでいて挑発な人を試すかのような視線を向けられては、えも言えぬ動悸が生じてくる。
「ふふっ……。やはり、
くしゃり、悪戯の見つかった子供の様な無邪気な表情に、ドキリと胸が跳ねた。
(紛らわしい格好をして、
レティーナに向かい合う女は、訝しんだ。
「お姉様には、参りましたね。こちらの事情はやや外聞が悪いんですが……お耳を貸して頂けるかしら?」
レティーナに促され、耳を貸し、コソコソと二人話し込む。
「実は…私と彼とは、婚約者同士なのです。けれど彼は、この私がいながら他の女に目移りして心変わりしたのですよ。それも、
すうっ……と細まるその瞳からは、けっして冗談で言っているのではなく、本気なのだと思えるほど真剣な眼差し。ある種の狂気じみた提案に、女は仰天する。
「…………なっ?それ、ほ……本気で言っているの!?」
「本気ですよ。本気ですとも。だからこそ、男のフリしてこの格好で来たんだから。だから、二人で一人の女を買う呈で通るようにしたいんです。ふふっ…。そうすれば、武芸一統の筋肉馬鹿に、色恋の手管を教えるには一番手っ取り早く、そして男としての沽券を損ねられるし、最後に婚約者として釘も打てるでしょう?ふざけんなよって」
氷の様に冷たく見える瞳。
うっすら婉然とした微笑を浮かべる様からは、抑えきれぬ怒りが漏れ出している。それが極静かで平常との差異が見られない、けれど確実に怒っていると分かる怒りの示し方。
その様子に、ゾッとした。
正直、恐いと感じた。
当然、貴族の客も娼館には、やってくる。
大金を落とす貴重な顧客だが、彼らも虫の居所の悪い時には怒りを顕にすることも良くある。
それはとても分かりやすく、売り物の娼婦が買われた客に怒鳴られたり、罵声を浴びせられたり、殴られたり、痛め付けられるなど、ままあることだ。
目の前の女は、そう言う短絡的、突発的な怒り方ではない。
常との差の見られない静かな怒りで、きっとこういう人間は、いきなりなんの前触れもなく躊躇なしで人を殺せる。そう言う系統の人種なのだと感じてしまう。
決して、怒らせてはならない───そんな人種だ。
「無理をお願いするんですから、当然お金は弾みますよ?」
にっこり、穏やかな笑みを浮かべて金額を呈示する男装の麗人。その微笑みに、その身から発せられる圧に抗えない。
貴族とは、かくもこう言うものなのかと思い知らされる気がした。
例え成人していなくても、これで半人前なのだとしても、平民とは違う。成り上がりとも違う。否を言えない、言わせない、そんな絶対的な空気に晒され。
「…………分かったわ。……私が、今夜の相手をしてあげる。……で、どうするの?」
レティーナの耳を食み、その事情を聞いた女──レベッカは、その圧に圧され抗えず、屈した。
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