第4話

「そう言えば、カイン様の香水の好みって、どういった香りなんですか?」

 もうすぐ、二人一緒に参加しなくてはならない夜会がある。

 第一王子の立太式だ。それぞれの家に招待状が送られるとは言え、婚約者のいる貴族子弟は、婚約者と共に参加となる。


 デビュタントでの失敗から、前回まで2回の夜会では香水は付けていなかった。別に付けなくても構わないけれど、香りが無いというのはそれはそれで周囲から浮いてしまうのも事実で。


『あら、あの方何も付けてらっしゃらないのね』

『何にも香らないから、いるかいないか分かりませんでしたわ』


 最初の失敗以降、香水を付けなくなったマリーナ。けれど本当は、華やかな香りのする香水少しは付けたいと願っていた。

 自分の好きな香りでは、カインは嫌な顔をする。それならカインが良いと思える香りは何だろう?好みの香りは何?


 そう思って、勇気を出して聞いてみたのだ。


「香りの好み……?」

「そうです。私もたまには香水を少しは付けたいと思うのです。けれど、カイン様の香りの好みを知らないから……普段は、どの様な物をお使いで?」

「………………」


 無言で、カインは思考を巡らせた。何せこれまで一度も、好ましい香水などこれまで一度も考えた事が無かった。

 香水など元々興味も無いし、令嬢や貴婦人の濃すぎる臭いに辟易してそれ自体を嫌煙していたから。

 だから咄嗟には答えられず、一瞬考えた後「どうだっけ?」と、天井を仰いで……。


(思い浮かばない……)


「いや。何が良いか、思い浮かばない……そもそも、好みの香りなど気にしたことも無かったな」

「それなら、今からショップに行ってみせんか?ショップなら色々な香りが試せますし、カイン様の好む香りが知りたいです。だめでしょうか?」


 こちらを伺うその瞳が、不安混じりとわかるほど揺れている。余程勇気を出してこの誘いを口にしたのだと、普段婚約者の顔をまともに見ていなかったカインでも分かった。

 折角、折衷案めいた事を考案してくれたのだ。それを無下にするのは流石のカインでも憚れる事で。


「……そうだな。婚約者になったのに、二人で出掛けるなんてしたことが無かったし、たまには二人で出かけるのも悪くは無いか。それじゃ、南地区の商店街に行こうか」


「………は、はいっ!!」


 マリーナは、常ならあり得ないカインの申し出に顔をほんのり赤く染めて上擦った声で返事をした。


 その様子にカインは、やんわりと微笑む。


 何気に、自分の婚約者は可愛いんじゃ無いか?とでも思ったのだろうか。




 放課後、二人の姿は南地区の一角にあるサロン・ド・テリーシュにあった。

 丸みを帯びたフォルムと王冠を思わせる屋根のオブジェが特徴の店で、外壁よりも窓が大きく取られ、外からもサロン内の様子が見える先進的な構造だ。


「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。ロードスター侯爵子息様にエヴァーソン伯爵令嬢様」


 サランに入って受付で来店の趣旨を伝えると、店の奥から現れたのは金色の髪を後ろ手に撫でつけ、細く伸ばした髭を鼻の下からチョロリンと伸ばした全体的に丸い印象の顔をした店主兼調香師マロニス・テリーシュ。

 白い絹のピタリとしたシャツに首元には三連のフリルがつけられ、黒のピタリとしたズボンを履き、ポチャリとした体型が浮き出るような印象で。

 飾り気がないと言えば飾り気はなく、オシャレかと言われれば応と答えるが、ありのまま彼の本質を表している……そういうほうがしっくりくる印象だ。


「はじめまして、テリーシュ殿。それにしても、一度もこちらを利用したことの無い貴族家の端くれの名まで網羅したいるとは驚きですね」

「ははは、それほどでも。これでも社交界には目を光らせていてね。次代の有望な若手子息女を覚えるのも仕事のうちなのですよ」

「なる程。商売上手と言う訳ですね?」


 年頃に成長した貴族子女ならば将来客として来店する可能性が高い。それ故、誰が誰に香水を贈るかや、誰がどんな香水を買い求めるかとか、色々下情報は蓄えているのだろう。


「さて、今日はどの様な香りをお求めで?」


 マロニスの一言で、六つの香水が目の前に用意され、テスターを嗅いだカインは顔を顰めたり不快気に眉根を寄せたりしていた。

 六個中、四つに不快を示し一つは「これは大丈夫そうだ」残る一つには「これはまぁまぁ……かな?」だった。

『大丈夫そう』と言ったのは新緑をイメージした香水で、『まぁまぁ』の方はシトラス系の爽やかな香りだった。


「それなら、こちらをベースにエヴァーソン伯爵令嬢がお付けになるならふんわりとした香りになるように仕上げましょう」


 幾つかサンプルを作り、一つを選ぶとプレゼント用の瓶に詰められ箱に入れられ布袋に入れられると、リボンを付けてカインに手渡された。


「あ、お会計は……」

「そのくらいは出させてくれ。俺の我儘に付き合ってもらったんだし、婚約者なんだしこれは当然だろう?」


 なんて事の無い様に、サラリと言ってのけサッと会計を済ませるカイン。

 けれど、そこに思考が付いていかないのはマリーナである。婚約以来、私的な理由で二人で外出することは愚か、誕生日でも無いのにプレゼントを貰うのはこれが初めてだった。

 だから、初めての事に戸惑い頬を赤く染め、店を出ようとするカインに付いて歩く動作が若干おかしな動きになっていた。


「きゃっ……!」

 足が縺れた。グラリと傾げたその体の腕の隙間に手を差し入れ、もう片方の腕は背中に回っていた。カインがマリーナを支える。その体制は、奇しくもカインの胸に抱込まれる様な形で、頬に当たるカインの胸板の熱にマリーナは余計に頬を赤らめた。


 慣れないことの連続にマリーナの精神は緊張の限界に達していたのかもしれない。


「も、申し訳ありましぇん……っ!!」


「大丈夫。マリーナに怪我がなくて良かったよ。それにしても、そんなに顔を赤らめてマリーナは可愛いんだな」


 ボンッと、沸騰しそうだった。

 婚約以来、カインがそんな甘い囁きをマリーナに向けたことはあっただろうか?


 な、な、な……。可愛いだなんて、可愛いだなんて、可愛いだなんて!!


 ドキドキ高鳴る胸の鼓動は煩く、耳の奥にその脈動が伝わり、触れたままのカインにもそれが伝わるんじゃないかと思うと余計に動揺は治まらず、合わせたままのカインに瞳すら向けられなくなりそうで……思わず下を向く。


「そんな事……有りませんわ……」


 消え入るような、弱々しい声になった事は許してほしい。



 サロン・ド・テリーシュを後にしたマリーナとカインの姿は、通りを一つ挟んだカフェにあった。

 しばらく通りを散策し、幾つかの店を見て回り、迎えの馬車を待つ間カフェで一休みしているところだ。


「今日はありがとうございました」

「いや、いい。たまにはこう言うのも悪くは無いだろう。それにしてもだいぶ歩き回ったな。足は大丈夫か?」

「はい。お陰様で何事もなく」

「それなら良かった。……普段、こんなにマリーナ嬢と歩く事なんて無かったから、今更だけど気になって。もし、馬車までで痛くなったら言ってくれ。君一人くらい抱えるなんて、何て事でもないからね」


 優しげに細められる瞳。穏やかな表情が、ニ週間に一度きりの親交の時よりもずっと近いもので、治まっていた頬の火照りが再燃されてきた。


「カ…カイン様……」


 言うなれば、見惚れてぽうっと熱に浮かされた。そんな表情を浮かれるマリーナ。

 テーブルの上で、カップに伸ばされかけていた手を、カインの大きな手が包み込む。

 それに気付くと更に頬に、熱が上がった。


「熟れたトマトみたいだね。瞳が泣いてるわけでもないのに潤んで可愛いよ」


……そ、それは!口にしないでください!!


 真っ赤になったのが可愛いって!何ですか!?泣きもしないのに潤んだ瞳って何!?


 片方の手はカインの手に包まれ、指先で指を撫でられふにふにと弄ばれている。合わさったままの視線は、反らすことも出来ないほどに吸い寄せられ、それがまた囚えられていると言う様な感覚を生み出した。


「折角同じ学園に通っているわけだし、今後は二週間に一度と言わず、こうやって出かける機会を増やそうか?」


 二人きりの初めての外出。ドキドキするするようなこの状況。そして何よりもカインの申し出が物凄く嬉しかった。


 婚約者となった時の顔合わせ以来、厳しい言葉やツレない態度ばかりだったと言うのに、カインのこの態度の変化はなぜなのか。マリーナは知る由もない。


 それでも、この後の二人は主に図書館デートが主となるがその後に喫茶店やスイーツショップを巡ると言うのが定番のデートコースになっていった。




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