第3話

 放課後、私達は図書室にいた。

 元々読書好きの二人である。特に会話をすることは無いが、気に入った本を手に、向かい合わせの席に腰を下ろし、本の世界に耽る。

 2週間に一度、婚約者同士の交流の定番と変わらぬ時間がそこには流れていた。


 ふと、耳に流れる曲は閉館を知らせるもので、読みかけの本を少し迷って借りて開くことにした。


「今日はなんの本を借りたんだ?」

「レンユーロの異譚記です」

「ああ、ヴァルダナ帝国の興亡の。昔読んだな」

「昔、ですか?」

「四年くらい前かな。内容は、教えないよ?」

「当然です!これから読む内容の結末を教えられるなんて、そんな悲劇ありますか!?」

「クククッ……ムキになって、ククッ…」

「もう、何が可笑しいんですか!!」


 そんなやり取りを、迎えに来ているであろう馬車までしていた。


「カイン様。近頃はどうなさったのですか?以前よりもよく話してくださいますし、随分と距離も近いような……」


『必要以上に近寄るな』


 昔、彼に言われた言葉が蘇る。人を寄せ付けない、何処か棘の混じった声で、私が側に寄ることを拒絶した言葉。


 思い出すたび、胸は針で刺されたようにチクリと痛み、その針は未だに刺さったままで抜けてはいない。


 そう、疑問に感じた事を何気なく訊ねたつもりだった。途端、カイン様の瞳が暗く翳る。


「グレンジナ子爵家に嫁いだ奥方が死んだ。自殺したんだ……」


 ポツリ。零された言葉は大変に重い物で。

 グレンジナ子爵家は、ロードスター侯爵家家の叙爵位の一つで、カイン様の従兄弟に当たるアレス様が継いでいたはず。

 そのアレス様は、カイン様より7歳年上で、5年前に結婚。その奥方が死んだ?それも自殺だなんて……。


「そんな…何故!?」


「言葉が……足りなかったらしい」


「言葉?」


 理由は、思いもかけないもの。けれど、マリーナにも思い当たるモノ。

 婚約者同士の交流の度、『違う』『駄目だ』『近寄るな』との拒絶の数々。当初、毎度と言っても過言では無い程、否定の言葉が投げ掛けられ、何度傷付いたか。

 側にいるのに遠く感じ、近くにいるのにその心に触れられない、寂しさ、悲しさ。

 いつしか傷付く事を恐れて、声を掛けることも躊躇うように。

 そんな期間も、この四年の間には幾度となくあったのだ。

 それが、その関係が結婚後も続く?

 ……それも、一生?

 確かに、それでは目の前は真っ暗になるだろう。

 期待して、求められて嫁いだのに、相手の男がその様子では、結婚生活は幸せな物では無く不幸な牢獄生活だ。


「そう、言葉だ。その点は、俺も……だいぶ怠っていたと思う。俺にとっては、あのぐらいの距離感で丁度だと思っていたんだ。……でも、女性は違うんだろ?だから、前よりも話したほうが良いだろうと……怖くなったんだ」



 小さな声で、消え入るような声で語られた言葉は掠れて、聞き取るのがやっとで。


「もしも、マリーナが俺の前から居なくなったら……それは、それだけは、俺は耐えられない」


 肩を掴まれた。痛くは無い。そっと、触れるだけのだったから。

 だけど、上から覗き込む瞳は悲しげでそれでいて今まで見たことのない熱を宿していて……。


 掛けられた言葉に、それが脳裏に染み込んで、理解と同時に頬が熱くなる。



 嫌われて、無かった……?




 ずっと、嫌われているのだと思っていたのに……。


「今更、ずるいです……そんな事を言うなんて」

そんな事を今更告白されても、それならあの時の、過去の私の苦しみや悲しみは、寂しさは何だったの?


「ごめん。……でも、俺はマリーナを好ましく思っている。君無しの未来なんて、考えられない。決められた婚約者だからじゃ無くて、俺が好きだから結婚して欲しい」



 カインは自身を口下手な人間だと思っている。そして、侯爵家嫡男として社交界に出て、幼い頃から貴族の令嬢達に囲まれ、追われる高位貴族の子息達。

 そこで突然決まった、一面識も無い伯爵令嬢マリーナ。

 これまでの令嬢達同様、出会った当初のマリーナも例に漏れずの態度だった。

 そんなマリーナのアピールを片端から折り続け、大人しくなった頃からの距離感は、カインにとって随分と楽な物に変わっていた。


 思考を邪魔されない、ゆったりと流れる穏やかな時間。

 自分にとって、最適でも相手にとってはそうではないかもしれいと思いだしたのは、従兄弟の奥方の自殺が切っ掛け。


 カインの身の回りには、相変わらず貴族の令嬢や、庶民上がりの女生徒が。


『マリーナさんは、形だけの婚約者ですよね!?可哀想に、自由に恋も出来ないなんて』

 ある日、距離感も無く纏わり付く女生徒がそんな事を言ってきた。


 どういう意味だ?


 王子や友人に聞けば、俺とマリーナの距離は随分と希薄なんだそうだ。

 そこで漸く、俺にとっての距離感は、彼女のそれではないと気付いた。そして、振り返れば結構散々な言葉をかけていたとも。



 だからこれからは、もっと側に近くに居なくては。『喪ってからでは、遅い……。もっと、早くに気付いていれば……』従兄弟の力無く呟くその言葉が、脳裏から離れない。




「………そう、ですか」

 あれで、丁度いい……?

 会話無く過すあの時間が?

「慣れるまで、息が詰まるかと思いました。拒絶される度、とても、寂しくて悲しくて……諦めてたのに(色々と…)」

「遅いか?今からじゃ、駄目だろうか?」


「……分かりません。けど、無理はしなくていいですよ?お互いに、妥協出来る距離を探れば良いんじゃないですか?」

「ありがとう。でも、こうして今まで以上に踏み込むのも悪くないな」

「……?」

「マリーナの、百面相が見られるから」

「はいぃっ!?ひゃ、百面相って何ですか!!真面目な話してたのに!!」

「ハハハッ!ごめん。でも、ほら…やっぱり百面相だよ」


 真面目な話をしていると言うのに、その側からからかって!!と、抗議の声を上げた。そのマリーナの背中にそっと回されたカインの腕と、そっとなぞられる頬に、触れた箇所から熱を帯びる。


 ち、近い!!近いです!!


 怒るどころか、顔が真っ赤に染まり、心臓はトクトクと鼓動を打つ。その脈動が自分の耳に聞こえて、更に焦る。


 怒りの顔から、羞恥の顔へ。

 その一瞬の変化も、カインにとっては好ましく愛しく感じ始めていた。





「カイン様ぁ〜♪今日こそ一緒に帰りましょうよぉ♡」

 甘ったるい声音。耳元に寄せられる唇から漏れる吐息。対して親しくも、側によって欲しいとも思わない女の粉掛けが、こんなにも嫌悪感を抱かせるものだとは、知らなかった。


「セリーナ嬢。あまり近寄らないで貰えるか?」

「そんなぁ、同じクラスの仲間じゃないですかぁ。そんなに冷たいこと言わないで♡」

「婚約者のいる男に、無闇に近付くのははしたないとコロン男爵家では教えられなかったのか?」

 冷ややかな視線。侮蔑を込めた冷淡な喋り。明確な拒絶をカインは、セリーナに示した。


「……婚約者?」


 小さく返させれた言葉は、セリーナの理解を示した物なのか。


「婚約者って、カイン様の婚約者は、エヴァーソン伯爵令嬢よね。知ってます。けど、彼女との間に愛は無いんでしょう?それなら、関係ないじゃないですか!!私はカイン様を愛しています。カイン様を愛のない婚約から開放してあげられます!!」

 セリーナは、堂々とした態度とはっきりとした口調で言い切った。



「……私と君との間に、いつ、恋愛感情が存在した?」


 明確な怒りを込めて睨みつけ、低く『これ以上関わるな!』と、威嚇を込めて放った言葉。これでこの女も、いかに自分が他者に迷惑をかけているのかわかるだろう。そう、カインは思った。


「え〜!?カイン様、怖ーい!」



「「「……………!!?」」」



 これには流石に、二人のやり取りを聞いていたクラス中が固まった。

 あれだけ明確に嫌悪を示され、側に寄るなオーラをカインが出しているにも関わらず、それに気付きもしない。神経が極端に鈍く、限りなく図太い人間がこの世に存在するものなのか!?


 クラス中が、信じられない者を見たと感じていた。


「ロードスター様!エヴァーソン様がお見えですよ」


 その時、カインの耳に天の助けが舞い降りた。

「そうか!それは、大変だ!!直ぐに行かなくては!!」

 わざとらしいセリフを嬉々とした声で言うと、あっという間に頬を緩ませる。

 鬼の様な怒りの形相から、ふわりと緩んだ柔らかな表情。そんな表情で教室をスタスタと抜け、婚約者エヴァーソン伯爵令嬢を前にした。



「やあ、来たね。実にナイスタイミングだ」

 そう言うと、ポスリとカインの頭がマリーナの右肩に。両の腕はカインに掴まれていて、振り払うことも突き放すことも、この場合は出来ない。


「カ、カイン様!?」


 マリーナは、慌てた。幾ら婚約者同士とはいえ、ここは学校で同学年の生徒の前だ。


 は、恥ずかしいー!!


「ちょっと、話しが通じなさ過ぎて爆発寸前だった。マリーナが来てくれて助かったよ」


 私はカイン様のせいで、羞恥の限界に挑まされていますけど!?


 肩に乗るカインの額から発せられる熱も、体のすぐ側で発せられる声も心臓の鼓動を早めるには充分な起爆剤となった。

 そうしていたのはそう長い事では無い。

 ふっと、肩が軽くなる。カインから移された熱が冷めていくのを感じた。


「さて、昼食に行こうか?」

「はい……」



 この件を切っ掛けに、ロードスター侯爵家嫡男カインとエヴァーソン伯爵令嬢マリーナの仲は、相思相愛であると噂が学園中に広まっていった。












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