山鼠の春

絵空こそら

dormouse

 クラスのアイドル空井くんの家にはヤマネがいる。

 ヤマネは日本固有の準絶滅危惧種で、国の天然記念物に指定されている。当然、捕獲や飼育は禁止されているので、空井くんの場合、飼っているわけではなく、ただ家に出るのだ。そして、これは秘密のことなのだ。私と空井くんだけの。

 きっかけは、美術の課題だった。なんという技法かは忘れたけど、黒い板を削ると金地が現れ、それで絵を描くというやつ。動物ならば何でもいいということだったから、どうせなら他の人と絶対被らないやつにしようと思って、検索していうるうち見つけたのがヤマネだった。長いしっぽをくるりと体に巻き付け、丸くなって冬眠している姿がなんともいえず可愛らしいのだった。

 出来上がった作品の鑑賞回、ほとんどのクラスメイトは私が何を彫ったものか首をかしげていた。空井くんを除いては。

 空井くんは私の絵を見ると、ハッとして

「これ、ヤマネだよね」

と言った。急に言い当てられて、私はどぎまぎした。よりによってあの空井くんである。さらっさらの髪と天使の加護を受けたのか?みたいな清らかな瞳。友人たちと笑いあう姿はもはや天使。授業中に翼が生えても誰も何も違和感をもたないだろう。

そもそも今までろくに喋ったことなどないのだ。題材にヤマネを選んでよかった!と胸の内ではガッツポーズを決めるものの外面はあくまで平静に、「よくわかったね」と言った。

 空井くんは辺りを見渡し、そっと声を潜めて言った。

「実はね、家にいるんだ」

「え、でも」

 ヤマネは天然記念物で、飼育は禁止されているんじゃ。検索したときに得た情報が、顔面に出ていたのかもしれない。空井くんは笑って、

「飼ってるわけじゃないんだ。ただ、家に入り込んでくるんだよね」

と言った。確かに、ネットの関連ページには「もしヤマネを見つけたら……」「もしヤマネが家に入ってきたら……」というようなリンクが貼ってあった。そんな、山奥でもあるまいし、そうそう野生動物が入って来るかいと思っていたのだが、そういえば空井くんはクラスで一番遠いところから登校しているらしかった。山奥。あり得る。

「今度見に来たら」

 そう言って、空井くんは笑った。その笑顔のシンチレーションといったら!彼は友人に呼ばれて、去って行った。私は平静さを保つのが限界で、ふらふら廊下に出て掃除用ロッカーに入った。暗い長方形の中で顔を覆う。尊い。あまりにも。


 空井くんのお家は、本当に山奥にあった。バスと電車に揺られ二時間、下町の情緒溢れる、ほぼ県外では?という場所に位置する町が彼のホームタウンだった。駅から更に15分くらい歩いた。

「いつも何時に家出てるの……」

「6時くらいかなあ」

「へ、へえ……」

 私がまだ寝ている時間だ。っていうか何時に寝てるの、何時に起きるの?午後の授業しんどくない?そんな質問を続けてみたいけれども、どきどきしてしまって二の句を次げない。彼も饒舌なほうではないから、どうしても沈黙が続いてしまう。それでも、彼のほうは自然体で、リラックスしているよう。何も言葉を交わさず歩くのが、とても、心地いい。

 やっと辿りついた彼の家は、ジブリ作品に出てきそうな貫禄の一軒家だった。ほとんど森と一体化しているお庭は、木が乱立している。

彼は裏手の倉庫から梯子型の脚立を持ってくると、一本の木の前に置いた。そして地上3メートルくらいのところを指さす。目を凝らすと、小さな穴があった。

「あそこにいるよ」

 私は、慎重に脚立を登った。よろけて木にぶつかって、ヤマネを起こしたら大変だと思ったのだ。最上段に足をかけて、腰を伸ばすと、ちょうど目の前にあの小さな洞があった。その暗闇の中に、ふさふさした茶色の尻尾が見える。ヤマネが、いる。写真で見た時はわからなかったけど、本当に小さい。手のひらに余裕で3、4匹は載りそうだ。尻尾を縦に体に巻きつけ、ぎゅっと目を瞑って、ほとんど動かないから、死んでいるようにも見える。でもちゃんと生きているのだ。私はその寝姿にしばらく見入ってしまった。胸がいっぱいのまま、脚立を下りるとき、空井くんが手を貸してくれた。

 

「昔、俺の布団に潜り込んでたことがあったんだよ」

 湯呑のお茶を啜って、空井くんはそんなことを言った。何それ羨ましい。思うもののもちろん口には出さない。私も彼が淹れてくれたお茶を震える手で口に運んで、適当な相槌を打つ。

「すごい冷たくてさ、凍死寸前なんじゃないかと思って、ストーブの前に移動させたんだ。そしたら目が覚めて、外に飛び出していった。よかったとその時は思ったよ」

 コトリ。湯呑をテーブルに置く、小さな音がした。

「でもね、後から知ったんだけど、冬眠中のヤマネを起こしてはいけないんだ。もう一度眠りにつけたとしても、一回目覚めると数日分の体力を使ってしまうから、春が来る前に死んでしまうことがあるんだって。悪いことしちゃったなって今でも思っているんだ」

 彼の表情は静かだった。伏せた目から睫毛の長い影が、頬に落ちている。

「きっと、大丈夫だったよ。ちゃんと春を迎えられたよ」

 根拠のない気休めしか言えない。それでも、彼は顔を上げてやわやわと笑った。

「だといいなあ」

 直射日光を真っ向から浴びて、目も開けていられないほどだ。

冷静に考えてみれば、なんだこの状況は。アイドルと、アイドルの自室で二人きりだ。このことが知れたらクラスの全員から、いや全校生徒から刺されるかもしれない。黒ひげ危機一髪は御免だ。命の危機と今の幸せを天秤にかけると、後者がちょっとだけ勝った。甘んじて色とりどりの剣をこの身に受けようと覚悟を決める。

「それにしても、何でこのこと、私に教えてくれたの?」

 いつもつるんでいる友人連は、彼の家に来たことがないようだった。なぜ、ほぼ喋ったことのない私にだけ、ヤマネの所在を知らせてくれたのだろう。

 空井くんは、全存在を愛しむみたいなあの瞳で笑った。

「だって浅根さん、ヤマネに似てるから。いつもすごい寝てるし」

 言われた意味を数秒後やっと理解して、ぶわわわっと顔が熱くなる。確かによく寝る。よく寝てる。授業中教師に起こされることもしょっちゅう。だって朝は眠いのだ。昼もだけど。超絶低血圧で、あの睡魔に抗えない。でも、私はヤマネみたいに小さくないし、そもそも可愛くない。

「俺は寝かせててあげたいな、って思っちゃうんだけどね。起きたとき、春に冬眠から覚めたみたいで、ちょっと救われた気になったんだ。だから、なんかありがとうね」

 はにかむように笑う彼。ああ。黒ひげ危機一髪上等だわ。低血圧でよかった。初めてコンプレックスを肯定された。わからない問題の質問に行っても、「寝てただろ」って先生に一蹴されるけど、頑張ろうと思えた。死んでもいいような安らかな境地だったけど、死んだら彼が救われないなら私は生きる。なんだか涙が滲んできて、「こちらこそありがとう」という声が震えないようにするのに精いっぱいだった。


 それから一度も、彼の家に行ったことはない。でも学校でたまに立ち話をした。彼は必ず足を止めて、返事をしてくれた。話題は専らヤマネのことだった。

 卒業してから少し経った頃、彼からLINEが来た。空っぽになった木の穴の写真と一緒に。

「冬眠成功したみたい」


 私は部屋の窓を開けた。すっかり暖かくなった陽光と、爽やかな風が部屋に入り込んでくる。目覚めたヤマネがどんな風に生きるのか、空井くんが今何をしているのか、そして、私のこれからについて色々と思いを馳せた。結果がどうであれ三者三様。そのどれもが、きっと尊いこと。

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山鼠の春 絵空こそら @hiidurutokorono

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