第2章 その7
塾に、青海さんは先に来ていた。
「赤崎君、どうだった?」
柔らかな表情のまま彼女から尋ねてきた。
「ああ、こんな感じ」
室長からセンター試験の受験全科目の問題冊子を持って来るように言われていた。その中で世界史の裏表紙に綴った、俺の試験結果の合計点数。それを青海さんに見せた。
「これって」
「自己最高。まぐれにしても出来過ぎ」
「良かったね」
本当に喜んでくれている笑顔だった。可憐すぎる。真冬に、向日葵を見られるとは。
「青海さんは?」
「私はこれかな」
ルーズリーフに綺麗にまとめられた一覧表。
「これ……」
俺は絶句をした。コスプレ室長が部屋に乗り込んで来た時でさえ何とか言葉が出てきたというのに。
「ワーストワンです」
やっちゃったみたいな表情をして言う。が、アホを自覚する俺でも分かるさ、それが取り繕ったものであるということくらい。医学部に合格するためずっと俺なんかよりもずっと勉強をしてきたんだぞ。クラスの女子が言ったてっけか。小学校からの英才教育だって。ずっと九割弱を叩きだしていたそんな彼女が本番で七割五分強だと? んなことあるわけがない。これまでだって彼女が模試の判定でB判定よりも悪いなんて見たことないのは、知っている。そう。あるわけがないことが現実として起こっているのだ。
そんな時でも授業は始まる。いつも通りの軽妙さで室長が入ってくる。
「今日は二人だけですから、交互に聞いてもいいでしょうかね? というよりもう見せ合っていたようですしね」
室長が各々の点数を聞く。情報公開である。俺は称賛された。が、無言を答え代わりにした。
「青海さんは……どうしましょうね」
「どう……しましょうか……」
力なく青海さんが答える。
「医学部医学科は無理ですね」
室長が断言した。青海さんはうつむいた。
「おい!」
俺は教壇に詰め寄った。考えるよりも先に身体がそうしていたのだ。
「室長、あんた先生だろ、なんとかしろよ。青海さんが医学部無理なわけねえだろ」
「無理です。センター試験がこの点数では二次試験で満点取ったとしても合格できません」
「それをなんとかするのが……」
激情とは恐ろしい。俺は室長のスーツの胸元を握っていた。室長の正体のことなど毛頭にもなかった。
「止めて!」
青海さんの大声なんて初めて聞いた。いや体育祭やスポーツ大会で聞いたことはあるが、そう言うのとは違う絶叫というか悲鳴というか。
「赤崎君がキレることじゃないよ。先生に失礼だよ」
俺の手の力が抜けていく。そりゃ、そうだ。別に俺は青海さんの護衛でもない。けど!
「赤崎君、着席してください」
襟元を正す室長に従うしかない。
「青海さん、ご家族の方は今日お忙しいかな?」
「いえ、分かりません」
「そうですか、なら、これから面談をしませんか。よろしければご家族に連絡を取ってもらって同席がいいのですが」
「分かりました。いいですか?」
青海さんは鞄からスマホを取り出したが、
「塾の電話を使ってくれてかまいません。私がそう言ったと冬雪先生に言って使ってください」
青海さんは小さな声で返事をし、教室から出て行った。その伸びた背筋がむしろ痛々しい。
学校での様子が思い出される。一教科分多いあるから採点が伸びていると俺が思っていたのは、そうじゃなくて何度も計算し直していたのかもしれない。
そして、さっきのこと。俺にどんな気持ちで聞いて来たのだろうか。俺の結果を知ってどんな気持ちだったのだろうか。そしてどんな気持ちで「良かったね」と言ってくれたのだろうか?
「赤崎君。君は君のことを考えなさい」
「青海さんは無理なのか?」
室長の命令に従うよりも確認の方が先だった。
「無理です」
「どうしてもか?」
「どうしてもです」
「室長が……」
俺の言葉を掌で制する。きっと俺の言いたいことが分かったらしい。
「それは選択肢に入っていません」
「なら無理じゃないってことだろ?」
――魔術なり妖術なりを使って、せめて合格に近づけることくらい
「それを彼女が望んでいると思いますか?」
「知ったことかよ。俺が最高点で、青海さんが最低点だと? どんな喜劇だ、このシナリオ書いた奴知ってんなら、連れて来てくれ」
「そんな者はいません。これが現実です。彼女はセンター試験で失敗をした」
「納得……」
青海さんが戻って来た。顔色も声色もいつもの調子で俺の言葉はさえぎられた。。
「父と連絡がつきました。これからすぐ来るそうです」
「そうですか。ではお父様が来られたらすぐに個人面談を開始します、いいですね。それまで自習にします」
室長は教壇の席に座り、しきりに分厚いファイルのページを丹念に追っているばかり。
青海さんは教材を広げ、設問に目を落としていた。
そうこうして四〇分ほど経っただろうか、教室のドアが叩かれた。
「室長、青海さんの親御さんがいらっしゃいました」
冬雪先生が告げ、室長と青海さんが教室から出た。教室に一人きりの俺。
問題集を適当に買っていた俺は親に言われて塾に通い、なんとなく志望校を決め、言われた通りにしていたら成績が上がった。結果は特上の良である。受験生としてはもしかしたら理想的な展開なのかもしれない。けれど何だ、この釈然といかなさは。当然それは青海さんのことだ。室長の言うことももっともだ。俺がどんなに心配してもキレても、青海さんのセンター試験の結果が変わるわけでもないし、俺が代わりに医学部に受験できるわけでもない。俺がまだ合格していないということにも変わりがない。ただセンター試験で結果が良かった、それだけである。
俺は一体どんなとこに行こうとしている?
「赤崎君、室長から」
突然の声に身体がわずかに跳ね上がる。冬雪先生の入室にさえ気づいてなかった。先生から俺に手渡されたのは、大学のパンフレットだった。
室長の意図を介せぬまま、暇つぶしにはもってこいとばかりにページをめくる。
経済学部経済学科。俺が目指している所、文字を追った。写真を眺めた。全く心が動かなかった。合格する気あんのか? 俺。
ページをめくる。めくる。めくる。
「赤崎君、いいですか?」
室長が入って来た。気づけば三〇分経過していた。気配を感じなかったのは妖怪だからではないだろう。
「では授業を始めましょうか」
医学科合格確実だった生徒が自己ワーストだってのに、よくもまあ落ち着いていられるものだ。いや、待てよ。もしかしてこうなることもは想定してたのか?
「いえ、想定外ですよ」
なんで想定外のことが起こって平然としていられるんだ? 俺にとって、想定外のこと、てか、想定している範囲自体が狭いのだろうが、そんなに冷静でなんていれねえぞ。
「どうにかするのですよ。どうにかなるのではなくね」
言いくるめられているだけのようだが、それよりもだ。
「青海さんは?」
「帰りました。お父様と今日はということで」
「歯切れが悪いな。何かあった? トラブったとか」
「いえ、志望校の変更を熟慮することになりましたが、まだ体調が優れないようです」
最後の一言に、俺はいぶかしくなった。今、「まだ」って言ったな。
「ま、他に生徒もいないですし」
「聞かれちゃまずいのかよ」
「ええ、こちら側の話しが混じるものですから」
それだけで察してしまう。それは妖怪絡みだ。身が強張る思いがした。
「彼女の体調不良は風邪ばかりではないということです」
室長の説明は時折こうして導入をもったいつける傾向にある。
「あれは思念によって引き起こされたものです」
「思念?」
思い起こされるのは、テーマパークでもないのに色とりどりだった、元旦の初詣でのこと。
「そうです。恨みとか妬みというと分かりやすいですか?」
青海さんが恨まている? んな、バカな話あるかよ。青海さんは成績優秀で、クラスのみんなだけでなく学年の男女問わず、いや上級生下級生からも一目置かれてるだぞ。しかも先生からの信任も厚いのは室長だって知ってるはずだ。
「だからですよ。本人に悪気はなくても、それを鼻につく、妬ましいと思う人というのはいるのです。『忍れど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで』。ちょっと意味は違いますが、抑えていても人間の感情と言うのは、どんな形であれ、溢れるなんです。」
逆恨みにもなってない。
「そうです。その通り。そうした人の妬みや恨みと言った思念は人には見えないでしょうが、そうですね、空気は見えません。が、酸素も窒素もあります。そんな感じです。そして酸素が増え過ぎればどうなるでしょう、あるいは窒素が増え過ぎると」
他人の感情が青海さんの身体に影響を及ぼしているとかって言いたいのか? なら、検査したら数値に出そうなものだが。
「ええ、人間が測定決定した範囲内での、あるいはそれを越しての身体の変調という傾向を示し、それに対しての処方はできるでしょう。しかし」
数値に出ないで不調になっているものは、何もしようがないってことか。だから点滴とか薬とかでも青海さんは……ここで閃く。
「おい、てことは年明けから知ってたってことか」
「もちろん。人間ではありませんから」
「なら、なんで何もしなかった?」
「何もしなかったわけではありません。空気の清浄化のようなことは私も冬雪先生もしてました。と言って、君が信じてくれればいいのですけどね。私たちがそうした術をしても、回復状況が芳しくなかったということです」
聞きながら頭に浮かんだのは、俺の部屋からビームぶっ放した時とカラフルな境内だった。あんだけのことやっても気色の悪い思いてのは、なかなかにして消えないというのが今頃になって痛感される。自分の無力さを棚に上げて、言いたくもなる。
「何やってんだよ。それでも妖怪かよ」
「まさしく言う通りです。ただそれほどまでに彼女に対する嫉妬心が強いとも言えます」
「青海さんを……なんで……」
「他人事のようですが、君も含めてですよ」
「俺?」
「もちろんです。君も彼女に対して羨ましいとか思ったことはありませんか?」
「いや、そんなことで」
「羨ましいという気持ちの行く末は、妬みや恨みです」
俺の感情が彼女を追いこんでいたという訳か。
「しかし君が気に病むことはありません。この社会というか世界はこういう、そうシステムなのです。だからこそ、そうですね、お祓い家業が儲かるわけです。今後もしばらく私たちは彼女の体調がこれ以上悪くならないようにします。が、少し心配ですね。彼女のセンター試験の結果」
「だから、それはあんたが追い打ちかけて」
「そうではなく、あの結果を知って彼女に対して妬んでいた人々がほくそ笑むだろうなということです。そら見たことかと、ざまあねえなと言ったところでしょうか。そうした嘲笑も今の彼女にとっては不調の継続につながるでしょうね」
「意味が分かんねえ……なんなんだよ、これは」
「彼女への妬みや恨みの攻撃は私と冬雪先生でなんとかしますので症状は緩和されるでしょうし、身体的な面でのケアは彼女のお父様からの治療があります。ですから、君は……」
「クソだな」
「随分なことを言いますね。これでも的確な処方を施して……」
「室長のことじゃない。受験のことだ。なんだよ、これ。一生懸命勉強しているだけなのに、なんで青海さんがそんな目に合わなきゃいけないんだよ。ずっと勉強して医学部目指してて、それがこんな……サイコロゲームみたいな塗りつぶしゲームみたいなテスト一回だけでオシャカになるなんて。しかも妬んでいるだぁ」
「そうですね、君は私から事情を聴きましたから、因果関係が分かりますが、それを知らない他の人達からすれば志高く勉強に邁進していたけれども、試験本番で失敗をした哀れな女子生徒ということですね」
「だから、クソだって言ったんだよ。こんな試験」
「君の言うところのクソみたいな試験がある。一人の女子生徒の努力の過程がまったく無視・割愛される。それがこの今の日本の教育システムなんです。さらに言えば、どうしても医学部医学科に行きたければ、浪人という道もある。そうすれば、予備校はさらに大儲けという訳です」
ほらこの通りと言わんばかりに室長は机の上に百万円の束を二つ置いた。なぜ懐にそれが入っていたのかは知らんが、帯封してある札束なんて初めて見た。これと同等の金が授業料とかで飛んじまうんだろうな。急に重く感じられる、進学という経済事情。
「私たちが教育業界に手を伸ばした理由も理解できますか」
多くの若者が進学を経て企業・役所等に入る時代。妖怪の活動資金にも最適なわけだ。急に受験が妖怪なんかよりも気味の悪いもののように感じられた。
が、そこで本日の授業終了時間となった。全く授業の体を成していなかったから必要なら補習してくれると言ってくれたが、この話の方が何よりの講習だった気がした。
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