第2章 その2

 で、そんないかがわしい連中がいるならば、そんな塾辞めてしまえということになりそうだが、そうは問屋が卸さない。ネット社会でも俺の中の流通形態は旧態依然としているようだ。

 逃げ出した俺に対する処刑執行が怖くないと言えば、嘘になるが、彼らが人間であるかないかにかかわらず、彼らの指導力には十分感謝をしているし、すごいとも思っているのだ。

 地元国立大学への志望校判定が軒並みD、つまり合格三十五パーセントだった俺が、たかだか夏季講習から本格的な指導を経ただけで、C判定となった時は視力検査かと思い、一二月の模試でB判定を叩きだしたのは俺の努力を除けば、完全に彼らの指導以外にない。

 またこんなセンター試験近々の一月に他塾へ変えたとして、今のようにうまくいくという保証があるわけではない。ましてや今後一人で勉強すると意地を張ってみたところで、初体験の受験戦争に平然としていられる余裕があるのか、はたしてクエスチョンマークが浮かぶだけだし、恐らくその都度あるであろう指導に従っていた方が、試験直前の不安の解消にもなるし、これはあこぎだが、不安を払しょくできなかったら、彼らのせいにすることもできるわけだ。

 そもそもあいつらに洗脳されなければ、いいだけの話だ。などという御託口上がよくもまあ、ツラツラと出て来るものだ。それはあくまで上っ面の良い言い訳でしかないというのは自覚している。

 なぜなら、俺がこの塾を辞めない理由。それは

「あけましておめでとう」

 年明け初日の冬期講習授業開始五分前。

 俺の隣の席に座り、鞄からいそいそと教材を出す女子。青海真紀。俺と同じ高校の、同じクラスの、しかも同じ塾。非常に俺の好みの女子が3Dプリンターで出て来たのではないかと思うくらいのどストライクな女子である。気立てが良くて、優しく、面倒見がよく、明るい。ザ・女子の極みである。男子高校生など妖怪やらよりもこういうのが理由になる。実にちょろい。

「学校の方の古典の宿題終った?」

「なんとか。青海さんは余裕だったでしょ?」

 ここで一つ注釈であるが、俺は彼女目当てでこの塾に通うことになったのではない。母親が光回線より高速な、母親同士の井戸端会議での情報収集に寄り、この塾の評判を嗅ぎつけて来たのである。自宅からも割と近距離ということもあり、料金はいささか割り高らしいが英語・数学・国語・生物の四科目を受講できる利点は、フランチャイズの塾などでは迅速に対応できない点らしい。世界史と現代社会は夏季講習を経て、二学期からはプリント類を頂戴するという対応の充実さ。大手予備校には負けるだろうが、地方都市近郊の個人経営としては上々であろう。他の級友たちは宣伝上手な大手予備校に足しげく通っているようであるが。

 という訳で、夏季講習に来た時に、青海さんに会い、ビックリ仰天。その心拍数上昇は予想外なところでの出会いと言うほかに、きっとときめきという思春期反応があったのだろう。塾内はクーラーが効いていたから温暖化は関係なさそうだし。

 クラスではあまり話したことはなかったが、これをきっかけに話す機会が増えてラッキーなわけだ。何と言っても、彼女は学年トップの成績で、日本で五本の指に入ると言われている県内の国立大学の医学部への道を歩んでいる。ちなみに俺はその経済学部。志望理由は特にない。ここらだろうなということで一応選んだに過ぎなかった。親も国立志望に安堵していたし。

 そんな彼女と万年中堅の俺が、これ以上の接点を設けようとしても、そうそうあるものではない。ならば、この絶好のポジションを確保しておく以外の選択肢は俺にはなく、それにだ、氷川室長及び冬雪先生が妖怪だか魔物だかとして、本当に洗脳うんぬんが催されるならば、この身を挺しても彼女を文字通り魔の手から救わねばならん。方法を知っているわけではないが。

「他の勉強、進んだ?」

 やや高めの優しい声がまた実に女子らしい。今心電図を取ったらきっと不整脈の診断がつくくらいに胸躍る。

「まあまあかな。青海さんは?」

「いつも通り」

「青海さん、頭いいからな。俺なんて毎日必死だよ」

「スランプも脱したって言ってたじゃない」

「うーん、そうなんだけどね」

「困ったら先生たちに聞くに限るよ。先生たち、ちゃんと弱点言ってくれるし、見計らったようにアドバイスくれるから」

「それはいいんだけど」

「けど? どうかしたの?」

 決して言えない。「けど、人間じゃないんだよな」とは。彼女の言う通りなのだ。それは俺も分かっている。だが、教育業界に手を伸ばした妖怪から「人間は悪い奴だから、その悪い奴らがこしらえた社会も悪いからぶっ壊していい」なんて教わっていない。それどころか、学校でも満足いかないような授業をきっちりと教えてくれ、質問にも面倒がらずに答えてくれた。そして、言われたことをしていたら成績は上がった。これは邪なことなのだろうか。

「室長とかってさ、学校の教師にならんかったのかな?」

 そんなつもりはないのに、どうやら口走っていたようだ。

「そうだよね。あんな先生が学校にいたら、塾来なくても良かったのかも」

 いやそれは困る。きわめて個人的な理由で。本来なら公教育の教師がやるべきことをやらなかったから、そのおかげで通塾することになり、青海さんとこうして話ができてるわけだから……あれ、ちょと待てよ。

「そう言えばさ、今さらだけど、青海さんて予備校とかじゃなくて、何でここにしたの?」

「塾のこと? 予備校は確かに規模はあるけど、いまいちなんだって。お父さんの意見」

「確か医者だったっけ? 青海さんの父親って」

「そう。室長は大学の医学部出身で、お父さんの後輩にあたるわけ。在学中から家庭教師やら塾講師とかしていたらしくて、その実力をお父さんが人づてに聞いてって感じ。卒業してから独立開業。教授たちの中にはなんで塾なんぞをやるんだろうと、室長が医学の道から離れたのを残念に思っているらしいわ」

「初耳だな」

「聞いて驚くと同時に、なるほどよね。若いのにあれだけ威厳があるんだから」

「若い?」

「室長のこと。確か三十一歳だったかな。で、冬雪先生が……あ、女性は秘密ね」

 その年齢絶対サバ読んでるだよな。あるいはプラス何百歳なのか、はたまたウラシマ効果を起こして時間の流れを遅くしているか、機会があれば聞いてみよう。

「それにしてもセンター試験まであと少し。なんか好調の波に乗れる魔法みたいなのがあればいいのになあ」

「魔法?」

 上ずってしまった。思わずというか、パブロフの犬よりも急加速な反射的になってしまうフレーズ。否応なく思い出されるものがあるのだ。

「どうしたの? ごめん。何か気に障ること言った?」

「いや、平気。てか何ともないよ。俺も、ンな魔法でもあったらいいなと思ってただけだから」

 とか言うしかあるまい。まさか俺の知らないところで、連中魔術、いや妖術だったか、そんんなんを使ってはいないだろうな。成績向上とか言う。自分の努力が水泡に消えるかもしれんが、ここまで成績の向上が順調だとそれも疑ってしまう。

「軽々な魔法なんてありませんよ。日々の努力に勝る魔法などありません」

 どの口が言う。人ン家に闖入し、機動戦士顔負けのことしやがった奴が。

「では、授業始めましょう」

 数学の開始である。もしかしたら、青海さんが医学部に進んだ暁には、妖怪ウィルスをまき散らすようにコントロールするのかもしれない。そんなSFちっくな問題よりも目の前の数列の設問が、まさに俺にとっては大問題なのだった。

が、ふと一つ浮かんだことがある。妖怪、魔物あるいは魔術、支配というフレーズから俺は=イコール悪という等式を結んでいた。しかし、これは果たして等式なのだろうか。支配というなら鎌倉幕府の支配、織田信長の支配なんてのもあったわけで、今だって民主主義というイデオロギーの支配と言えなくはない。無常観を体現した支配体系の変遷。

 しかも、悪が全面的に悪の支配をしてしまったら、社会が機能しなくなるのではないか。全員が悪なんだから、法なんて作りゃしないだろうし、警官だって、弁護士だって、それこそ医者だって悪なわけだ。誰も生存できなくね? だとしたら、室長たちの行動を非難一色に染めるのは、やはりお門違いということになってしまう。一体、どういうことなのだろうか?

「赤崎君、聞いていますか?」

 室長の指摘。聞いていないというのが見えているからこその問いかけである。

 「聞いてます」と答えれば、「では何と言ってましたか?」とか「ではこの先を進めてみてください」とか反応されるのが定型であるし、「聞いていません」と答えれば、「大丈夫ですか、センター試験間近ですよ。気を緩めてはいけませんよ」とか「それで困るのは君ですよ」とかの反応がやはり待ち受けているだろう。

 などと考えている分、黙ってしまうわけで、

「ちゃんと聞いてください」

 沈黙は金ではなかった。授業は授業、傾聴しなければならない。

 しかし、横をちらとむけば、青海さんが少し笑んで口を動かしていた。

――ダイジョウブ?

 音声は聞こえない。読唇術師にでもなろうか。

 左手の親指と人差し指で輪っかを作る。OKのサインである。

 俄然やる気が出てくるのであった。

 

 翌日、青海さんは少し元気なさ気だった。顔色がいつもと違う。色つやのある肌色から血の気がないというと言い過ぎかもしれないが、俺にはそのように見えた。

「昨日あれからちょっと熱出しちゃって。少し寝たら熱は下がったんだけど、微妙に残っちゃってて。点滴も打ったからだんだん良くなるとは思うんだけど」

「風邪だったら俺にうつしてもいいよ。俺、頑丈だし」

「気持ちだけ受け取っておく。それにそんなこと冗談でも言っちゃだめだよ。赤崎君にとっても大事でしょ」

 そんな気遣いをしてくれる彼女の優しさに感涙しそうになる。超いい子。

「でも、こういう時親族に医者がいると、心強いんじゃない?」

「え? ……うん、まあそうだね」

「あれ? 何か言っちゃまずいこと言った?」

「違うの。早速お父さんから小言もらったばっかりだったから。注意が足りない証拠だって」

「……ごめん」

「赤崎君が謝ることじゃないから。心配してくれてありがとう」

 青海さんのけなげな笑みに、胸キュンである。

 授業が始まっても、青海さんの取り組む様子はいつもと同じに見える。ならばきっと体調は良くなるのであろう。彼女の言う通り俺も後二週間は健康を優先せねばなるまい。

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