第1章 その2

 年も押し迫った十二月三〇日。兵庫県からかなり距離はあるものの日付をまたいで時差が生じていない頃、床に就いた時のことである。

 高三で一応進学志望であれば、自主的に受験生の自覚とやらを持たなければならないのであろうが、問題集だけ買って効率も成績も上がらなかった俺は、夏休みから近所の塾に通い始めた。そこでは、勉強面だけでなく、ストレッチやら体操やら食事栄養の紹介など、至れり尽くせりに受験生モードにしてくれる。で、こんな曲が売ってることすら知らなかったが、くれるというのを断る理由がなかった、静かなせせらぎの音の流れるCDオン。アルファ波だか、f分の一ゆらぎだかで、とにかくよく眠れるとのこと。デッキのスリープ機能で三〇分もすれば自動に電源が切れる。これを聞きながら寝るのが、すでに日課とさえなっている。習慣とは恐ろしい。

 部屋の電気を落とし、ベッドの中で、深い息を一つ。

「今日もたくさん勉強したな。それにしても……」

 などと顧みながらも考え事が頭をよぎろうとはするのだが、あっという間にまどろみが身体を包んできた。

――お、寝るか

 普段ならここで覚醒状態が遮断されるわけなのだ。

 が、身体が硬直した。しかも身体の上にずっしりとした重みを感じる。おかげで頭は妙に冴えてしまった。

――これは・・・・・・金縛り?

 よもや勉強のやりすぎか。あるいは、まだまだ頭は勉強を望んでいる一方で、身体が休息を求めていた、そんなとこだろうか。いや、そんな解説よりも俺は金縛りなど初めての経験なので、さすがに不気味さも感じる。生理学的・理論的な金縛り現象の講釈云々は置いておいて、霊的ものではないだろうな。

 俺がこう思ったのも道理があって、というのも、通う塾の室長と女性講師が人ならざる存在と認めなければならない状況に、たった数時間前に遭遇したばかりなのだ。

十二月二十九日、追込み時期ということもあり、閉校時間ぎりぎりまで塾で自習をしてから帰途にいた俺は、すっかり休業中用のプリント類をもらうのを忘れていた。自宅までもう一〇秒の所だったが、塾まで一〇分なので戻ることにした。

 すると、明かりは点いているのに、校責任者の姿がない。忍び込んだ、というのは語弊があるが、行為自体はそうなので否定しようがない。校舎奥の控室。よもや室長と美人講師との密会現場かと思ったのもつかの間、ドアの隙間から聞こえてきたのは、

「では、〇時に術をかけます。結界も同時に」

 若干のハスキーボイスが魅惑的な女性講師の声とか

「陣を組むのに時間がそうありませんが」

 淡々としているのに妙に説得力のある室長が、などと言うもので、大人でも厨二病にでもかかるのかと疑念が沸いたが、ここは引いた方がいいだろうと後退した瞬間に典型的且つ古典的に物音を立ててしまい、勘付いた女子講師―室長の臣下らしい―に空中浮遊しながら追いかけられ、氷の縄を用いて捕縛されたのである。普段の美形からは見られない表情は、きっと鬼の形相とか言うんだろうな、言えないが。

 事情聴取の末、市中引き回しにもならなかった俺だが、彼らが妖怪であるという自己申告を口外しない代わりに俺の命はとらないという不平等条約が結ばれたのは言うまでもない。ここが桜田門外でないことに心底ほっとするしかない。

 その後、プリントをもらい自宅に帰ってもやはり気になって仕方なかった。で、寝たら忘れてしまえるかもしれないと思い寝ようとしたら、こうなったのであるから、「まるで雪が降っているような……雪?」てな具合に、変に寒く感じる室内にあって嫌がおうでも思い出すというもの。

 おもむろに瞼を開けてみた。

「!」

 エクスクラメーションマークを発音した。なんて言ったかは覚えてないが。何しろ、ベッドに横たわる俺の上にいる人を見れば、「敦盛」を踊る前にきっとそう言っているはずだ。

 氷川塾美人女性講師の冬雪先生が膝立ちで、俺にまたがっていた。数時間前と同じスーツ姿で。

「な……」

 言うが早いか、俺の口を左手で遮り、

「大きな声を出すと刺す」

 冬雪先生は、右手の先に氷の矛を作り、俺の眉間へ近づける。まるで晴らせぬ恨みを晴らしに来た仕事人である。あるいは条約改正交渉の始まりか? 

 とりあえず、首を一つ縦に振る。「先生の命令に従います」の意を込めて。

 どうやら俺の意図をくみ取ってくれたらしく、冬雪先生の手が俺の口から離れる。さすがは文系科目担当講師。

「寝てりゃあいいのになあ」

 その声に向けば、窓は開いてそのサッシに、その姓を塾の冠に置く氷川室長が腰を掛けていた。いや、たぶん室長だったろうとしか初見では思えなかった。近視ではないのだが、自分の目を疑った。何せ声色は彼なのだが、格好がさぞかし昔な和装である。左手にはひょうたんをぶら下げた組みひもを握り、右手で盃を遊ばしている。遅れて来たサンタクロースにしては、腰元に光る物が物騒である。

「何してんすか?」

 小声くらいは良いだろうと、上半身を起こしながら問う。やはり俺の処罰に来たのか。

 が、その答えを待つよりも目の前の光景に釘付けとなった。俺の部屋一面が銀世界となっていた。「どうりで寒い訳だ」などと悠長なことを言っている場合ではない。のだが、

「慌てなくてんなって」

 慇懃な普段の態度とは真逆の荒っぽい様子に戸惑わざるを得ないが、悠然としている室長から目が離せない。おもむろに立ち上がると、部屋の真中にしゃがみ込み、盃も置いた。気づけば雪原と化した俺の部屋の床に魔方陣らしき図象が描かれているではないか。

「室……」

 ベッドから降りようとするが、ベッドもろとも下半身がフリーズされており、近づくことすらできない。痛みがないだけ拷問の一種には入れはしない。が、誰がそんなことをしているかと言えば、冬雪先生しかいない。間違いなく雪女だろう。

「言ってるでしょ。すぐ済むって」

 マウントポジションから降り、俺の顎に指先を当て、大人の妖艶さを演じようとしているのであろうか。確かに妖怪であろうが。

が、すぐも何も、何が起こるか俺は知らないのだから、これからやろうとしていることが終わったら、俺自身も終わったなんてことにならんとも限らんわけで、追及するのは当然の権利のはずだ。憲法に書かれていなくとも。いや、知る権利があったか。だが、その権利が守られることはなさそうだ。なぜなら、室長は俺の言葉なんぞにまるで耳を傾けておらず、何やら意味のわからない文言を述べている。この人は治外法権なのか?

「消えろ」

 片膝立ちで抜刀。その剣先から光線が放たれた。窓は開いていた。段取りがいいことで。もう、俺にはビームとしか形容できないそれが俺の家から、どこぞやに向けて放出されたのである。

「赤崎君」

 冬雪先生の声にハッとした。どうやら魔術施行後、影響のあおり食らったのか、意識を喪失=絶命したらしい。一応講師と生徒の関係だったから、黄泉の国まで見送りに来てくれたのだろうか。律儀な魔物である。いや、妖怪だったな。

 かと思ったら、部屋の中にいた。雪で覆われてもいない、元の通りの俺が馴染んでいる部屋。窓は閉じてあった。

 辺りを見渡す。サッシには室長が、俺の勉強机の椅子に冬雪先生が腰かけていた。いつものスーツ姿で。不敵に笑んでいる。どうやら無事のようだった。あるいは黄泉平坂から帰って来たのか?

 俺はベッドの中。上半身を起こす。

「大丈夫。いたって健康体ですよ。じゃ、そういうことで」

 室長が窓を開けたのを合図にしたように、冬雪先生が立つ。サッシに足をかけ、室長、冬雪先生の順で窓外へ。そう、ここは二階である。俺は飛び出して窓のそばに立つ。とっくに見飽きた近所の風景に目をやる。誰もいなかった。室長も冬雪先生も。一体、なんだったんだ?

 力を失くした腰から崩れるように床にへたり込む。そのまま体を床に預けた。

「夢でありますように」

 言った直後、俺の意識はない。これがそもそもの始まり……のはず。

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