リズ先生の悶々
ハイトがアルジオと和解し、侯爵を継ぐことになっていた時。
ハーメニア王都、英雄学園の研究室で一人――黒い魔導士ローブに身を包んだ銀髪蒼眼の少女は足の踏み場がないほどに散らばった資料の山の上で突っ伏し、バタバタと水揚げされてしまった魚のように悶絶していた。
「う、うぅ。おかしいのですぅ。魔界から帰ってから、ボク、何だかとってもおかしいのですよぉ」
少女の名前はリズベット・シュバルツ。
『職業』『スキル』の研究に関してはハーメニア王国――否、現状の地上世界では最も詳しく、それでいて騎士団長や魔導士団長を優に上回るほど圧倒的に強い。
そんな彼女の脳裏には、ある一人の男の顔が焼き付いて離れなかった。
その男の名前はハイト。『職業』はこの世界で最弱と言われる『農民』で、数か月前まではデュークハルトの嫡子、王国有史以来切手の天才と噂されていた麒麟児。
その才能は『農民』を与えられてもなお廃れず、職業を貰ってからほんの数か月の間に数多のドラゴンを相手にしてS級冒険者になるだけの成果を示した。
それは『職業』や『スキル』の研究を生業とするリズベットにとってとても興味深い対象だった。
だけど、その程度でしかない。
偶々生まれ持った才能が優れていたから、無いに等しい弱い職業でも人並み以上に成果を残せた天才。しかし『職業』を与えられる前から天才で、その上で最上級の職業である『参謀』を与えられたリズベットには遠く及ばない。
ましてハイトは24の――飛び級で博士号を得たリズベットよりも9つ年下で自身の生徒だ。恋愛対象になんてなるはずがない。
だけど……魔界での出来事が何度も走馬灯のように高速でリズベットの脳内を何度も駆け回っていた。
最初に思い浮かべるのは、グラトニーグリズリーがいとも容易くリズベットの自慢の兵隊たちを木っ端みじんにした時。
正直あの時、リズベットは割と本気で死んだと思っていた。
あの場には自分と、自分より弱いハイトの二人。リズベットが同時に出せる最大の50体の兵隊たちを瞬く間に全滅させられたのだ。
最初にした模擬戦で自分に負けたハイトが、あんな化け物を倒せるはずがないと思っていた。
――だけど違った。
ハイトはスキルを駆使して、あのグラトニーグリズリーを瞬く間に倒してしまった。
次にリズベットが思い出したのは魔界での己の発言の数々。
『もしこれでボクより強かったら好きになっていたかもしれませんねぇ?』『ボクを倒せるくらい強くなったら、手を出してきても怒らないのですよぉ』
「こここ、これじゃあまるで、ボクがハイトさんに告白してるみたいじゃないですかぁ!」
いや、あの時はまだリズベットはハイトよりも自分の方が強いと思っていた。
だけど、リズベットの最強の兵隊たちを瞬く間に倒したグラトニーグリズリーを倒してしまったハイト。その状況が前提を覆す。
……リズベットの好みの異性のタイプはいつだって自分より強い人と言う事になっている。
しかしリズベットがこれまで歩んで来た人生の中でそんな人はいなかった。
少なくとも『職業』を授かって以来リズベットは多くの人と刃を拳を交わし合って来たものだが、千に及ぶ試合をして負けたことはただの一回もない。
『職業』を得る前ならリズベットに勝てた奴はいるのだろうが、少なくとも戦う機会はなかった。
故にリズベットの言う『好きなタイプは自分より強い人』と言うのは、ある種、恋愛をしない言い訳のようなものだった。
女でありながら研究と強さに身を捧げた自分が行き遅れと後ろ指を指されないようにするための鎧でもあった。
だが、それと同時に――何度もそうやって好みのタイプを言い続けているうちに、本当にリズベットより強い人が無理やり自分を……なんてことを夢想するようにもなっていっていた。
「で、でもぉ、ハイトさんは。あ、あんな人にはぁ……」
初めての模擬戦の時――『農民』でありながら僅かな期間でS級冒険者になった天才。その実力を楽しみにしていたリズベットの服を切り裂き……誰にも見られることはないと、お気に入りのクマさんパンツを晒された挙句、胸の間に顔を持って来ると言う最悪のセクハラをしてきた奴なのだ。
……そ、それは態とではなかったみたいだし、謝って貰えたけど。
でもその次に『封縛の茨』と言う種で縛り上げられ、またしてもネコさんパンツを晒されると言う辱めを受けた恨みは忘れていない。
……そのおかげで最強だったリズベットの兵隊を更に強化できたけど。
「うぅぅぅ。で、でもぉ。ぼ、ボクが。このボクがあ、あんなセクハラ小僧を……ハイトさんを好きだなんて、そ、そんなこと……」
あって良いはずがない。
だって、だって、だって。魔界の湖畔で水浴びをしているところを――裸まで見られてしまっているし、素でなくとも恥ずかしい軽口だって言ってしまっている。
リズベットは美人だが誰よりも力を追い求め、研究に身を捧げていた。
学生時代決してモテなかったわけではないものの、常に主席を取り続け、模擬戦で圧倒的な力を見せるたびに彼女を恋愛対象にする男は一人また一人と増え、結局、色っぽい話になったことなんて一度もない。
リズベットにとっては――ハイトに下着を見られたのも、胸に触れられたのも、水浴びを見られたのも、全部、全部初めてのことだったのだ。
「うぅぅぅ……」
リズベットの顔が、耳が茹るように真っ赤に染まって行く。
「で、でもっ、ま、ままだボクがハイトさんより弱いと決まったわけじゃないのです!」
あの薬屋の老婆に言われたことは気になるし、リズベットの最強の兵隊を瞬殺したグラトニーグリズリーを倒したハイトに必ず勝てる自信なんてないけど。
だけどリズベットのハイトの模擬戦での戦績は1勝0敗。リズベットの方が勝っている。
これは恋じゃない。ただ『農民』が――リズベットが今まで最弱だと思っていた『職業』の少年が、リズベットじゃ倒せなかった――魔界の強力な魔物を倒して見せたことに驚いているだけ。人生で初めてピンチから助けてもらうみたいな感じになって勘違いしているだけだ。
「い、いつもみたいに模擬戦でボッコボコにしてボクの方が強いって証明されれば、ボクも元通りなのですぅ。……ただちょっと、ボクの方が弱いと思われているのが癪なだけなのですぅ」
誰もいないのに言い訳するみたいに――いつもよりも間延びのない、つまり余裕のない声でそう言う。
……大丈夫。リズベットの好きな異性のタイプは相変わらず『自分より強い人』
ハイトがリズベットより弱いことをちゃんと証明すれば、この勘違いも冷めるだろう。だがもし、万が一だとしてもハイトの方が強かったなら――。
リズベットは顔を赤くして、心臓をバクバクと煩く鳴らしながらギュッと武器である魔導書を握り締める。
「帰ってきたら約束の模擬戦で――ボッコボコにしてやるのですぅ」
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