星の神話

尾八原ジュージ

星の神話


 春うららかな川辺の土手を、豊満な両乳を揺らして走るブリーフ一丁のおじさんが一人。昔からこの時期にはよく見られる光景である。

 そしてその後に続くゴリラもまた、春先にはよく見かける風物詩である。しかしこれが二十頭近い群れとなれば、さすがに逃げるおじさんと共に衆目を引かないわけにはいかなかった。

 おじさんがなぜブリーフ一丁であったのか、そしてゴリラの群れから逃げていたのか、それを語る文献はもう残されていない。ただ彼はゴリラの群れから命がけで逃げていた。それは確かなことである。

 一説によれば、ゴリラの走る時速は約40キロ。世界レベルの短距離走の選手よりもなお速いとされている。そのゴリラから逃げ続けるおじさんの体力と脚力たるや、彼のだらしない体型からは想像もつかないものであった。その姿に川辺にいた人々は歓声を送り、即興で作った歌を合唱し始めた。これは今も『親父逃走歌』として、バリエーションを増やしながら広く全国で歌われているものである。

 暖かい春風がおじさんの心もとない頭髪を揺らし、土手に咲いた桜の花びらがその汗ばんだ肌にしずしずと降り注ぐ。人間の能力を超えて走り続けたおじさんの肉体は、このときいよいよ限界を迎えようとしていた。しかし止まればゴリラの群れにもみくちゃにされてしまう。まさに彼の命は風前の灯火である。

 さて、その危機に反応したのが、おじさんのキンタマであった。まさに今ここでその一生を、清き童貞のまま終えんとしている本体のさだめを悟り、キンタマはブリーフの中で激しく振動した。せめて未来へ子孫のひとりも残したい。それが種の目的、生命の生まれ出でた意味ではなかろうかと震えたのである。そしてああ、いかなる奇跡が起こったのであろうか。キンタマはおじさんからぽろりと取れ、真っ白なブリーフの中から広い世界へとまろび出たのである。

 走るおじさんとは直角の方向へ、キンタマは逃げ始めた。ただその命を拾わんと、右の玉袋と左の玉袋を交互に懸命に動かし、おいっちにおいっちにと川に向かって走り始めたのだ。そのいじらしい姿に人々は一斉に涙し、穏やかな川が一時的にその水嵩を増すほどであった。この川は現在も春先になると、雨も降らないのに増水することがあるのだが、それはキンタマを想う人々の涙が原因だと当地では言い伝えられている。

 しかし何という無情、川辺の物陰にたどり着かんとしたその時、一羽のカラスがさっと降り立ち、キンタマを咥えて飛び去った。もちろん補食行動である。人々はいっせいに嘆息し、その際の「あ~あ」は、周囲100キロに響き渡ったとされる。しかし当地では特にカラスが忌まれているということはない。生き延びるための補食行動は必然であり、自然は厳しいのだ。カラスは悪くない。

 なおキンタマを失ったおじさんは、その12秒前にゴリラの群れに追いつかれ、もみくちゃにされて跡形もなくなっていた。目的を遂げたゴリラの群れはしずしずと解散し、各地の動物園へと散っていった。なお、おじさんが命を落としたこの土地は現在に至るまで禁足地とされており、高さ50メートルの鉄筋コンクリートの壁によって厳重に閉ざされている。年に一度、特定の国家資格を得た神主がここに入り、祈祷を捧げるのみである。


 さて、この騒動を天界から見ていた女神シモネッタは、懸命に逃げるも命を繋ぎ損ねたキンタマのことを哀れにお思いになった。そこで女神は御使いのマントヒヒをもってその魂を掬い上げ、空へと解き放った。

 夜空を見上げてみよう。春になるとあの堂々とした力士座の隣に、つつましく輝くωの形をした星雲が現れる。それこそが星となったキンタマの姿なのである。

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