100センチの心音

さとね

この距離のままがいい

「遼ってさ、どうして人前で歌わないの?」


 授業が終わるや否や、前の席に座っていた幼なじみの美波がそんなことを問いかけてきた。

 理由なんて、決まってる。


「恥ずかしいよ。僕、別に歌うの上手くないし」

「そんなことないよ。たま~に夜に聞こえてくる歌声、かなりいい感じだし」

「き、聞こえてたの!?」

「うん。ばっちし」


 隠れる場所がないので、遼は机に突っ伏して頭を覆う。

 隣の家に住んでることが当たり前で、そこらへんの対策を忘れていた。

 ちらりと腕の隙間から覗いてみると、にやにやとした口角が見えた。


「油断してた。次から防音材買ってくる」

「ええ! 意外と楽しみにしてるのに!」


 感情が表に出やすいタイプの美波は、あからさまにがっかりな顔をする。

 そんな顔をしても、絶対に防音材は買う。

 そもそも近所迷惑だろうし。


「もったいないなぁ。せっかく上手なのに」

「上手じゃないよ」


 遼が俯いた視線の先に、笑顔の美波が顔を寄せて先回りした。

 艶やかな金髪に、程よく日焼けした肌と、健康的な肉体。

 校則なんて知りませんという言葉もいらない着崩した制服。

 ギャルと一言でまとめるのが一番わかりやすい。


「遼の声、格好いいと思うんだけどな」

「そんなことないよ」


 いつだって、美波は良くも悪くも本音を口にする。

 人付き合いが苦手な遼が唯一ちゃんと話せるのが美波だけなのも、昔からの子の性格を知っているからだろう。


「あ、なんで後ろ下がるの」

「いや、その……近いし」


 思春期の男子が制服を着崩した女子を目の前にして、落ち着けるわけがない。


「はいはい。あーしたちの距離だもんね」


 言われて、美波は反対向きに跨っていた椅子をずずずっと下げる。

 100センチ。

 触れることは決してないが、手を伸ばせば簡単に届くこの距離が、二人の距離だ。

 幼い時から、この微妙な距離を二人は保ってきた。

 この距離感を友達と呼ぶのも難しい。

 それでも、喧嘩をしたことはなかった。


「あ、そうだ!」


 美波の頭上で電球が光る。

 嫌な予感がした遼は慌てて荷物をまとめるが、


「ちょっと待っててね! 五分だけ!」

「あ、うん」


 先にこう言われてしまえば、待つしかない。

 無視をして帰っても、ベランダ経由で自室に侵入されてしまう。

 走って教室を出ていく美波を見送ってから、きっちり五分後。


「遼! 週末、体育館使ってライブしよう!」

「……はい?」


 突拍子もない、どころのレベルではなかった。

 そもそも、帰宅部の遼ではライブどころかバンドメンバーさえいない。


「いろいろ、無理でしょ」

「軽音に行って助っ人お願いした!」

「機材は……」

「好きなやつ使っていいって!」

「体育館、部活動で使うんじゃ……」

「体育教官の一番偉い人が三〇分ならいいって!」

「人だって来ないだろうし」

「インスタとツイッターで拡散! 四〇人は来るよ!」


 これを全て五分で根回しできるほどの有能で、厚い人望があるからこそ、こんな風貌がまかり通っているのかもしれない。

 確か、成績も学年上位だったはずだ。


「ハイスペック過ぎない?」

「でも、あーしは遼みたいにギター弾けないし、歌も上手くないよ」


 こういうことを、サラッと言ってのける。

 どれだけ悩んでも、断る理由を見つけることができなかった。


「……三〇分だけ、なら」

「よし! ならすぐに練習だっ!」

「え、ちょっ!?」


 美波に連れられて、気が付けば軽音部の部室でギターを握っていた。


「よう、よろしく! 美波から話は聞いてるから、早速セトリ決めて合わせてみよっか」

「て、展開が早い……」

「それくらい強引でも大丈夫な程度には上手って聞いてるんだけど」

「まあ、ある程度の曲なら耳コピできる……けど」

「おお! いいね、楽しみだ」


 軽音部の部長兼ベース担当の高橋は、爽やかに白い歯を見せてきた。

 そりゃあ、女子の人気をかっさらうわけだ、と遼は小さくため息を吐く。

 美波を間に挟んでコミュニケーションを取りながら、歌う曲が決まった。


「ってことで、いってみよう!」


 いつも一人でギターに触れていたからか、想像の何倍も疲労が溜まった。

 帰宅して、重くなった体を窓辺に支えてもらいながら、外の空気を吸う。


「お疲れ~! どうだった、練習は」

「……めっちゃ疲れた」


 隣同士の家で、自室の窓と美波の部屋の窓は向かい同士。

 どこかの漫画みたいだなと、昔は笑っていたが、今となっては何かを言うことすらなくなっていた。

 ぐったりとしている遼の重たい前髪を、美波は手を伸ばして軽く持ち上げる。


「前髪、切っちゃえば?」

「い、嫌だよ。人と目を合わせるのが苦手だからわざわざ伸ばしてるのに」

「う~ん。あ、じゃあこうしよう! ライブの時はあーしがセットしてあげる」

「いいよ、別に」

「あーしがやりたいの。いいでしょ?」


 にこっと笑う美波の顔が視界を埋めたので、慌てて遼は前髪を下ろす。

 わちゃわちゃと髪を直すふりをして赤くなった顔を隠しながら、遼はコクリと頷いた。





 あっという間に、週末になった。

 美波が築き上げた人脈が、遼のミニライブのために体育館に集まっている。

 人前で歌うことも、ギターを弾くこともしていなかった。

 練習はした。それでも、震えが止まらなかった。


「緊張してる?」

「……するよ、そりゃあ」


 舞台袖。

 相変わらずの笑顔で、美波はそこにいた。

 他のメンバーたちは、偶然手に入れたライブの機会にやる気満点だった。


「みんな、どうしてあんなに胸を張れるんだろう」

「自信があるからとか?」

「僕にはないやつだ」


 はは、と乾いた笑いがこぼれる。

 出来る限りの努力はした。

 それでも、自信なんて一つも生まれない。


「なんで、こんなことに」

「……嫌だった?」

「そうじゃない、けど。でも」


 重たい前髪の隙間から、遼の震えた視線が覗く。


「僕なんかには、勿体ないよ」

「そんなことないよ」


 美波は自分の髪を留めていたピンを使って、遼の前髪をかき分けて留める。


「あーしね、みんなに知ってほしいんだ。遼って凄いんだぞって」

「できる、かな」

「もちろん」


 美波は拳を遼の前に突き出した。


「胸張りなって。遼が凄いってあーしが知ってるから」


 いつだってこの距離から、美波は見守ってくれてた。


「頑張ってるの、見てたから」


 だから大丈夫だと、美波は笑う。


「楽しんできて。あーしはそれが見たい」

「……分かった」


 遼はコツンと拳を合わせる。

 二人の距離は、約100センチ。

 心臓の音が聞こえない、二人の距離。

 なによりも居心地の良いこの距離の隙間に、遼の緊張が溶け落ちていく。


 今より以上近くなったら、伝わらなくていい気持ちまで伝わってしまいそうだから。

 この距離でいい。この距離がいい。

 いつかこの距離を埋められるような格好いい自分になれたら。

 その時はちゃんと、伝えようと思うから。


「やれるだけ、やってみるよ」

「うし、頑張れ」

「頑張る」


 不器用に口角を上げて、遼はステージへと歩き出した。




 遼の背中を見送った美波は、ステージへ下りて生徒たちが集まるアリーナの最前線へ。

 美波の姿を見た女友達が、意外そうな顔をしていた。


「あれ、美波。ここでいいの?」

「うん。ここがいい」


 不安そうに、しかし精一杯に胸を張ってステージの中心に立つ遼を、美波は見上げる。


「あーしはこうやって見てる時間が一番好きだから」


 美波の緩んだ顔を見て、友達は本音をこぼす。


「いや、さっさと付き合えや」

「うーん、まだいいかな」

「なにそれ。好きなんでしょ? あいつのこと」

「……まあ、ね」


 頬を赤らめてコクリと頷く美波に、友達はむずかゆそうな顔をした。


「そうやって気持ち悪く笑うとこ、変わってないね」

「な、なにそれ!」

「だってそうじゃん。美波、昔はあいつと同じ感じだったし、暗くて話しかけずら~ってイメージしかなかった」

「あー、まあ、昔はね~」


 美波は恥ずかしそうに頭を掻いた。

 中学までは、髪も黒かったしスカートだって折ったこともなかった。

 そんな美波が変わるきっかけは、もちろん。


「遼って意外と思ったことサラッと言うでしょ? 昔言われたんだよね、明るく笑ってる方が可愛いよって」

「それでイメチェンしたの?」

「……うん」

「は? なにそれ、可愛い」


 友達は真顔でごちそうさまですと手を合わせていた。

 まったく、と息を吐いて、美波はステージを見る。

 全身全霊の遼の歌声に、その場の全員が驚いていた。

 ふふん、と美波は口角を上げる。


「あの日、背中を押してくれたから私はこうやって生きてる。だから、今度は私が押してあげたいんだ」


 だから、この距離がいい。

 手を繋ぐ距離じゃなくて、見守って、何かあれば背中を押してあげる。

 そんな距離が、一番心地いい。


「いや、マジで付き合えや」

「だから、まだいいんだってば」

「なんでよ。もしかして、あいつから告ってくるの待つとか?」

「まあ、そうかな」

「はあ? 一生無理じゃん、それ」

「そんな気がしたから、自信を持ってもらうためにここまでやってるんだってば」


 ここまでくると、友達も苦笑いしかできないみたいだった。


「そこまでする必要ある?」

「あるよ」


 美波は笑って、


「だって最高に格好良くなった遼に、好きって言ってほしいじゃん?」

「は? 死ぬほど乙女で可愛いんだが」


 もうお腹いっぱいですと、友達は両手を合わせた。

 そんな会話をしながらも遼のライブは進み、無事に全ての曲を歌いきった。

 遼の歌声に魅了された生徒たちが、言葉もなく拍手を始める。

 深々と頭を下げた遼は、グッと拳を突き出して。


「ありがとう、美波っ!」


 全員の視線が、一斉に美波へ向く。

 二人の関係は生徒たち全員が知っているので、カップル誕生の瞬間に立ち会うのかと美波の返答を待つ。

 しかし、当然、この乙女は自分から告白などしないわけで。

 満面の笑みで、美波は拳を突き出す。


「おう! 最高に格好いいよ、遼!」


 さっさと付き合えよと思ったその場の全員が、ようやく付き合ったかと二人を茶化すことができたのは、それからしばらく経ってからのお話。

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100センチの心音 さとね @satone

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