温かな世界

 電車から降りた。終わりかけの夕暮れが、家の白い壁たちをオレンジに染めあげていた。

 珍しく定時で帰れた私はぐぐぐと伸びをしてから、息を吐いた。

 今日の上司は機嫌が良かった。いつも上がりますと報告すれば嫌味の一つや二つ吐かれていたのに、今日はすんなりと帰らせてくれた。

「おまけに『お疲れ様〜』なんて調子のいいことこきやがってよ」

 いつもそうしとけや、とぼやいた時、携帯から通知音がした。

 彼からで、『もうそろそろ駅に着くよ、今日も遅め?』などと書かれていた。

 私は悪いことを考えて口元が緩んだ。


 電車が2本停まっては発車するのを見届けた。3本目で見慣れたスーツの彼が降りてくる。

 そして伸びをして、イヤホンを耳にさした。

 同じタイミングで伸びしてる。

 胸が締め付けられた私は彼の前に躍り出た。

「やあ!」

「えっ! いたの?」

 驚いた顔をした彼がおかしくてけらけら笑ってしまう。

 彼への返信をせずに待っていたのだ。イタズラが成功したようなそんな気持ちになる。

「もう、笑わないでよ」

「ごめんごめん、驚いた顔が愛おしくって、つい」

 頬を膨らました束の間、彼は帰ろう、と嬉しそうに私の手を取った。

「今日はね、スーパーに寄りたいんだ」


 私の鞄と私の手を握りながら、嬉しそうに、同僚との楽しそうな話とか、取引先に喜んでもらった話とか、幸せな話を嬉々として伝えてくれた。

 尻尾があったらブンブン振ってるんだろうなあ。

 彼にふさふさの尻尾が生えた想像をしてふふ、と笑った。

「なになに、急に笑ってさー」

「なんでも。嬉しそうだなあって」

「当たり前でしょ! だって早く帰ってきてくれたもん!」

 彼が夕焼けに照らされて、温かな色に染まる。綺麗な瞳。見惚れていたら、こちらに気付いて満面の笑みを返してくれた。

「今日ね、早く帰ってきてくれたからハンバーグにしようと思って。どう?」

 尻尾の代わりに繋いだ手をブンブン振って、スーパーに入った。


 彼はずっと嬉しそうに「ハンバーグに何添えたら嬉しい?」「ウインナー焼いちゃう?」「ブロッコリーもいいよね」と、私の好きな食べ物を沢山提案してくれた。

「あっ、でも、昨日鍋ってリクエストしてくれてたんだった……」

 急に声のトーンを落として悩み始めた。おそらく、ハンバーグか、鍋にするかを悩んでいるのだろう。

「ねえねえ、美味しいものと美味しいもの、足したらどうなると思う?」

「ものによるけど、最高なんじゃないかな……」

「ハンバーグ鍋、どう?」

「天才か?」

 昔、家族で囲んだ大きなハンバーグが浮かぶ鍋を思い出す。大好きで素敵な料理。大切な人と食べると、心も体も温まるだろうな。そう思って、

「きっと美味しいよ」

 ミンチをカゴに入れた。


 スーパーを出ると、辺りはもう暗くなっていた。

 お家に光が灯って、家族の温もりが漏れ出す時間。

 テレビの音、明るい声に向かい合う人の影、美味しそうな匂い。

 世界はこんなにも優しいもので溢れている。

 鞄を彼と反対の手に持って、そっと彼の手に手を添えた。

「どうしたの? お腹すいた?」

 私を猫か何かだと思ってそうな彼に笑った。

「それもそうだけど、幸せだなって」

 にっと歯を見せて笑うと、俺も、と嬉しそうな声が返ってきた。

 遊園地の帰り道のような気持ちに襲われる。高揚した気持ちがまだ冷めずに、でも夢が覚めた寂しさのような、不思議な気持ち。

 胸が締め付けられ、空を見上げた。

 一つ、綺麗な星が輝いていた。

「星が見えるよ」

「本当だ」

 時々街灯で遮られる夜空を眺めながら歩いた。

 あの星からは、この世界は満天の星空みたいにキラキラしているのだろうか。

「またにぎにぎしてる」

「ごめん、癖」

「いいよ、好きだし」

 彼は隣でくすくす笑って握り返してくれた。

 温かで幸せな世界。

 これからも、ずっと温かな世界で生きていきたい。

 手をきゅっと握り直すと、彼は私を見てニコニコと笑った。

「さ、帰ろう。あったかい今日の続きをすごそう」

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