天上天下唯我独尊!

兵藤晴佳

第1話

 光の幕が弾けたかと思うと、暗闇の中に見たこともない不思議な文字が浮かぶ。

「天上天下唯我独尊」

 どこかで見た気がする。でも、どこだか思い出せない。

 やがて、闇の中から響き渡る声が聞こえた。

「テン・ジョウ・テン・ゲ・ユイ・ガ・ドク・ソン」

 何者の声かは、よく分かっていた。

 この、どこまでも広がる街のどこかで暴走している原子炉だ。

 これを止めることができるのは、この世に僕しかいない。

 目を閉じた後の暗闇の中で荒れ狂う原子炉の、呼び声が聞こえるのだ。

 僕も、声を挙げて尋ねる。

「どういう意味だ? 教えてくれ」

 返事はない。

 ただ、呼び声だけが繰り返される。

「天上天下唯我独尊……テン・ジョウ・テン・ゲ・ユイ・ガ・ドク・ソン」

 この怒りを鎮めるには、身体の中に秘めたエネルギーを全て吐き出さなくてはならない。

 僕は闇の向こうを見据えて告げる。

「理屈じゃ伝えられないんだろうが……思いだけじゃ伝わらないんだ」

 疲れ切った心と身体が、溶けて消えていくような気がする。

 闇の中から来る邪な波動に、耐え切れなくなったのだ。

 そのときだった。

 どこからか、澄んだ歌声が聞こえてきた。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 窓から差し込む眩しい光の中、小さな僕はベッドの中で横になって呻きます。


「苦しい……プシケノースを呼んでよ」


 窓の外から聞こえるのは、そのプシケノースの声でした。

 ふうわりとした、明るく優しい女の人です。

 街のどこかに、でも遠くにある大きな建物の中で起こっている、たいへんなことを止めているのです。

 呼んでも、来られるわけがありません。

 それでも、僕を心配そうに見つめていた青い髪の女の人は、家から駆け出していき ました。

 僕は、かすれた声で後ろから呼びかけます。


「いい子で待ってるからね……リュカリエール」


 ひとりきりになったところで、僕は耳を澄まします。

 遠くで、誰かが走る足音がしていました。

 こういうとき、その人は僕をちゃんと見守っています。

 だから、つぶやくだけで充分でした。


「ごめんね……身体、何ともないんだ」


 僕は家から出ると、窓のない、丸い屋根をした縦長の家が並ぶ街の真ん中を目指します。

 そこには、気になる何かがあるような気がしてならなかったのです。

 どんな形をしているのかは、分かりません。

 ただ、頭の中には不思議な声が聞こえています。

 

「テン・ジョウ・テン・ゲ・ユイ・ガ・ドク・ソン」


 それが何なのかは、全然分かりません。

 でも、街の真ん中に行けば必ず分かると、僕は信じていました。

 誰もいない道の、石畳の歩道をどこまでも走り続けます。

 速く走ればそれだけ早く、探す場所にたどり着くことができるでしょう。

 でも。


「ここから先には行けません」


 僕の前に立ちはだかったのは、右目に片眼鏡をはめた若い男の人でした。

 もちろん、言いなりになる気なんかありません。


「通してよ」


 そんなことしか言えませんでした。

 相手は、僕より大きいのです。大人なのです。押しのけて通ることなんかできません。

 仕方がないので、来た道を戻ることにしました。でも、帰るつもりはありません。

 この街は広いのです。真ん中にたどり着こうと思えば、通る道はいくらでもあるのでした。

 でも。


「逃げてはいけません」


 行く先には、左目に片眼鏡をはめた若い男の人が待ち構えていました。

 でも、僕は回り道をしようとしているだけです。


「いいよ、じゃあ……」


 僕は、大きな通りを横切ります。人は通らないし、車も走っていません。

 でも、それは追いかけてくることもできるということです。

 僕は、走りながら振り向いてみました。

 右眼鏡の人も、左眼鏡の人も、さっきの歩道に立ったまま、こっちをじっと見ているだけです。

 助かったと思いました。

 道を渡りきって反対側の歩道にたどりつくのには、そんなにかかりませんでした。

 石畳の上に立つことはできませんでしたが。


「ここに入れるわけにはいかない」


 お爺さんが、黒いマントを広げてかざしました。

 僕の足が止まります。

 その真っ黒なマントは、ものすごく大きく見えるのでした。それが届かない辺りへと、擦り抜けていくこともできません。

 僕は、その場にじっとしているしかありませんでした。

 後ろから、声が聞こえます。


「何をしている」

「渡ったらどうだ、その道を」


 振り返ってみると、右眼鏡の人と、左眼鏡の人でした。

 僕は叫びます。


「通してくれなかったじゃないか」


 片眼鏡の人たちの、笑い声が返ってきました。


「そっちへ行ったってことは、ここを通る気がないってことさ」


 お爺さんも笑います。


「戻りたかったら、戻るといい」


 どっちの道にも行けません。

 笑い声が、一斉に甲高くなりました。

 でも、悔しいから、僕は言い返しました。


「ここじゃなくても、他に道はあるんだからね」


 車のいない道を走りだします。でも、笑い声はどこまでも追いかけてきました。

 振り返ると、そこには道いっぱいに広がった炎の壁があるのです。僕に向かって、ものすごい速さでどんどん迫ってきます。

 やがて、背中が痛いくらいに熱くなってきました。横目で左右を見ると、僕を追い抜くようにして炎が燃え広がってゆきます。

 とうとう、目の前にまで火が回って、先には進めなくなってしまいました。

 笑い声は、炎と一緒に僕を追いかけてきます。


「思い上がるな、逃げる先に道などない」


もう、どうしていいのか分からなくなって、僕は泣きました。


「プシケノース! リュカリエール!」


 返事はありません。

 プシケノースの声も聞こえません。

 リュカリエールが助けに来てくれないのは、僕が病気のふりをしたからでしょうか。

 あの走る足音がやってこないかと耳を澄ましてみましたが、何も聞こえません。 

 それでも、呼べば答えてもらえないかと思って、僕は叫びました。


「じゃあ、どうすればいいの? もうダメだよ、僕!」


 そのとき、光の幕が弾けました。


 道路に沿った炎の壁が、一瞬だけ縦に裂ける。

 家と家との間の路地が見えた。

 僕はそこへ急いで飛び込む。


「熱っ……」


 狭い地面に倒れてから、ようやく呻くだけの余裕が生まれた。

 気が付くと、僕の身体は大きくなっている。

 道端のカーブミラーの隅では、少年の裸の身体が斜めに歪んで映っていた。

 暗闇の中で響く声と闘うときの姿が戻っていたのだ。

 振り向けば、路地の入口はもうない。もとの道にもどろうかと思ったとき、ふと気付いたことがあった。


「ここは……」


 カーブミラーの向こうにある路地を抜けたところには、屋根に瓦を葺いた、二階建ての古い家がある。

 僕は、ここを探していたのだ。

 そこにある何かに引き寄せられるようにして、僕はふらふらと歩いていく。

 どこからか、優しい歌声が流れてきた。


 ……おうち時間を過ごしましょう。

 

 プシケノースだ。

 遠くからは、走る足音が聞こえる。


 どうしてだか分からないが、家の中がどうなっているのか、ちゃんと分かっていた。

 玄関の前にある階段を登りきった傍らには、扉がある。その奥の部屋は、本やら菓子の袋やらで散らかっていた。

 中に踏み込んで、床に投げ出された服に着替えていると、ベッドの上にノートがあるのに気付いた。

 開いてみると、何か長い物語のようなものが書かれている。だが、それは終わりがけに、見開きの片方で止まっていた。

 もう片方には、大きな字で、こう書いてあった。


「あらゆる人は、この世の誰よりも尊い」


 そういえばさっき、自分はダメだと叫んだような気がする。

 だが、この言葉は、それを真っ向から打ち消すものだった。

 誰もが、同じように尊いのだ。誰からも見下されることはない。

 ましてや、自分が自分を蔑むことはないのだ。

 僕はベッドの中に倒れ込む。

 ものすごく、疲れていた。

 部屋の外からは、まだ歌声が聞こえてくる。


 ラ・ラ・ラ……


 プシケノースの声は、どちらかというと発声練習に近い。

 他の声が、僕を起こす。


「余計なことは考えないで、学校へ行きなさい」


 目を開けてみると、青い髪のリュカリエールだった。

 部屋の外には、人影がある。

 あの老人と、片眼鏡の若者たちだった。


「お加減はいかがかな?」

「ご一緒しましょう、学校まで」


 後からやってきたプシケノースが、リュカリエールと丁重に謝って追い返した。

 僕は、少し慌てる。


「プシケノース……原子炉は?」

 

 困ったような笑いが返ってきた。


「自分の姉たちが分からないの? 起きなさい、さあ」


 リュカリエールは、僕の頬を優しく撫でる。


「自信を持って。あなたはこの世界でいちばん素晴らしいわ」


 

 ノートの中の長い長い物語。

 その真実は、こうだ。

 ここは、原子力に頼っている街。

 大地震と大津波で発電所の放射性物質が漏れ、僕は故郷と家族を失った。

 見ず知らずの土地で父親が再婚した家族と暮らす生活は、経済的にも人間関係の上でも苦しい。僕は心を閉ざして、幻想の世界に閉じこもった。

 心のよりどころは、自分の体験をもとにした小説だった。

 プシケノースとリュカリエールは、優しい義理の姉たちだった。走る男は、遠くから連絡をくれる友人だ。

 老人は、現実への適応を求めてくる教師や、親切ヅラした級友たちだった。

 そして僕は、それに耐え切れない自分を恥じている……。

 仮設住宅や荒れ果てた故郷。

 さまざまなのことを思いで、胸は張り裂けそうにある。

 だから、僕は記憶をリセットしながら、現実と戦う少年の物語を描き続けていたのだった。

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