笑顔
ささたけ はじめ
深夜一時、帰宅。
玄関の扉を開いて男は家へ入った。
この扉を開くとき、男の脳裏には決まって同じ言葉がよぎる。
――疲れた。
今日が特別遅かったわけではない。これがこの男の日常である。
出勤時間は朝の七時。家から車で一時間ほどかかる職場へ向かい、仕事が終わるのはいつも日付が変わるころである。
闇に包まれた宅内は静かだ。妻と一人息子はとっくに眠っている。
立ち止まれば、このままここで眠ってしまいそうだ――そう思った男はなんとか革靴を脱ぎ、暗い家の中を最低限の明かりで照らして居間へと進んだ。
たどり着いたテーブルの上には何もない。これもいつものことだ。男はネクタイを緩めながらキッチンへ向かうと、かろうじて残ったサラダとコロッケがラップもされずに置いてあった。暖めて食べろ、ということなのだろう。
ふたりの夕食の残りが男のぶんである。残っていなければ食べるものは何もない。
一度そのことを妻に問いただしたところ、返ってきた言葉は――
「あんまり帰りが遅いから、済ませてきたのかと思ったのよ。ちゃんと連絡ぐらいしてよね」
という、耳を疑うものだった。
俺がいつも遅くなるのは、いったい誰のためだと思っているんだ――。
男はその言葉を飲み込んで、以降は帰宅の目処が立つとメッセージを入れるようにした。もっとも、返事はおろか既読のマークすら付くことは一度も無かったが。
疲れとやるせなさでうまく働かない頭を振って、とりあえず食事を摂ることにした。明日も早い。さっさと食べて寝よう。とにかく一刻も早く眠りたい。しかし、最後に風呂へ入ったのはいったいいつのことだったか――。
電子レンジの中で橙色に染まって回るコロッケを見ていたら、日が沈むまであくせく働く自分の姿が重なって見えて、不意に涙腺が緩みそうになった。
――いつからこうなってしまったのだろう?
温まった食事を持ってリビングへ移動する。
この家を買ったのは、もう十年ほど前だ。
それまでは安アパートで妻とふたり慎ましく暮らしていたが、長男が産まれ成長するにつれて手狭となり、子供が小学生になる前に一念発起して郊外へ一軒家を建てたのだ。
そこからだ――。
まず職場が離れたことにより、通勤に時間を要するようになった。そして朝夕ともに今までよりも妻や子供と接する機会が減った。
折り悪くそのころ、会社が他社に買収され、それまでは気ままに出来ていた仕事が実績重視の評価へと代わり、要領の悪い男はお荷物として見られ始めた。
必然的に要領の悪さを労働時間でカバーするようになって、残業や休日出勤がかさみ、いよいよ家にいる時間は無くなった。
たまの休みに妻と顔を合わせれば、息子の育児に参加しないことを責められ、ゆっくり休むことも許されないまま言い争う不毛な日々。
今では高校生となった息子は、思春期特有の反抗期により男のすべてを拒絶し、暴言を吐いてくるようになった。
――もう、疲れた。
死んでしまおうかという思いが頭をよぎる。そうすれば楽になれる、と。
家にも会社にも居場所がなく、どこへいっても爪弾きにされる。両親はすでに亡く、兄弟もいない。残ったローンも自分の生命保険で賄えるだろうし、何の気がかりもない。
明日、会社へ行かず海へでも――。
そんなことを思いながら、寂しさを紛らわすために点けたテレビを見ると――とある若手女性アイドルが映った。
番組の内容は、レギュラーの座を勝ち取るために様々な無茶振りに応える、というようなものであるらしい。
無理難題を突きつけられ、しどろもどろになりながらも笑顔を絶やさない彼女を見た瞬間――男の中に何かが灯った。
――ああ、これだ。
乾いた砂漠で彷徨う旅人が、久方ぶりの水を口にしたように。
雪山で遭難しかけた登山家が、山小屋を見つけその暖かさに包まれたように。
ため息とともに思わず口から溢れた言葉。
「――助かった」
そうだ。
今の仕事も。
今の家族も。
全ては笑顔のためだった。
そのはずなのに。
周囲から冷遇され、久しく他人の笑顔など見てはいなかった。
誰も自分に笑いかけてくれる人などいなかった。
そして自分も、笑うことを忘れてしまった。
しかし、画面の向こうの彼女は、こんな自分にも笑顔を向けてくれた――。
おそらくは今の自分は笑っているだろうと、男は思った。
抑えようのない頬の緩みを感じたからだ。
彼女のおかげで、男は笑顔と命を取り戻したことを知った。
そうしてテレビの画面に視線を奪われたまま、男はこの尊い笑顔を守り抜く決心をした。
そのために――
ネットでCDを百枚ほど注文した。
笑顔 ささたけ はじめ @sasatake-hajime
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