仰げば尊し、和菓子の恩。

らべる

1.

「仰げば尊し〜和菓子の恩〜…」


 隣で、親友の菊川ユリがまた“仰げば尊し”を歌っていた。やや音がズレているのも気になる。

 今日で何度目だか知らないが、それにしても卒業式の練習中、体育館に嫌々立たされていた時など真面目に歌っているところを見たこともなかったのに、ようやく3年間の長いようで短い高校の呪縛から解放された途端ご機嫌を取り戻すかのように口ずさんでいた。

「ね、さやちゃん好きな和菓子は何?」

 卒業式からの帰り道に、彼女が突然聞いてきた。

 登下校で毎日通う丘まで続く長い道と、桜並木。

 私はこれから通ることもない静かな住宅街の中に溶け込んだこの綺麗な景色と、街路の木々から舞い落ちてくる花びらを名残惜しがって見つめるのに夢中で、隣の彼女の言葉は、春風みたいに耳を突き抜けた。

「え、なに」

「和菓子」

 いきなり和菓子なんて言われても。

「和菓子、食べたくなっちゃったの?」

 桜並木に和菓子の話題。私は俄かに感心するように言った。

 普段そんな話題出さない彼女が、今日という日に限ってそんな気の利いたことを言ってくるものだから、私は普段固いと言われがちな怖い表情をさすがに崩していた。

 それにしても、その問いに対しての答えには躊躇した。和菓子と言っても範囲が広い。私は頭の中にあらゆるお菓子のイメージを張り巡らせる。どら焼き、羊羹、苺大福に、抹茶大福とか…。

 しかしやはり和菓子といえば、あの、食べるのが勿体無い見た目が好きだった。

「うーん、するとやっぱり上生菓子かな。知ってる?」

 するとユリは、

「じょう、なまがし???」

 どんな和菓子が好きなのか聞いてきた癖に、ユリは私よりも和菓子というものを遥かに知らない。

「和菓子って案外奥深いね、好きなのは…そうだな、ハッピーターンとか…」

「美味しいけども…和菓子…?だけど…なんか…そうじゃないでしょ」

 私は深くため息をついたあと、とりあえず彼女の頬をつねることにした。


 間もなく私たちはいつもの通学路を外れ、柳の木が生い茂る川沿いの、人一人通れるかどうかの狭い道を一列に歩く。すぐ右は誰かの家の真裏だから、迷惑を気にして大きい声ではしゃぐこともできない。

「高校最後の寄り道だね」

 私たちは以前一緒に行ったことのある和菓子の喫茶店に向かっている。こうして二人してこの粗悪な道を通るのは高校一年以来のことだから久しぶりに感じられた。

 寂しいような気もするが、これで彼女の思いつきに左右されるのも最後になる。私達はこれから別々の県に行く。私は県外の国立大で、彼女は県内のそれなりに有名な芸大へ。

 …本来なら応援するよう見送るのが正解なのに、私は今だって彼女の身を案じていた。

「ねえ、あんたって本当にデザイナーの道に進むの??」

 狭い道をどんどん先に行く彼女の背中に話しかける。聞いているかは期待しなかったけど、やはり彼女は、すぐには何も答えない。

「…やはは、心配してくれてる?」

 やがていつもの能天気な声が返ってきて、私はほっとした。

「…心配に決まってる、芸大出て良い仕事が見つからないかもしれないし」

「お母さんみたいなこと言うね、さやちゃんって」

 それを言われた途端、やっぱり…私の心はズキンと痛んだ。

 前にも一度だけ進路のことで、夢に向かい盲目になっていた彼女に似たようなことを言った時、少し関係がギクシャクしたことがあったのだ。

 その時はまだ2年の学年末で、お互い進路が全く予想もできない時期だったから、考えてみれば無理もない。


 彼女は私の不安を他所に自分の進路を決めた。第一志望の芸大に合格し、自分のやりたいことを実現させようと頑張っている。

 その一方で、私にはまるで夢がない。

 なりたい職業…一体なんだろうか。

 安定していて、給料の高い仕事に就いて…考えれば考えるほど、本当に漠然としていたし夢もない。

 だからこそ、彼女にあの時言われた言葉が今でも胸に刺さる。


“さやちゃんは、何のために生きるの?生きるため?人より良い生活するため?”


 …何のため、私は生きるのだろう。大学で学んだことをどう活かそうと言うのか?

 確かに、全て分からない。

 今だってその正解を見つけることはできていなかった。


 頭が一杯になっていた時、狭い道は終わり、やっと大きな通りに出る。

 江戸の街並みが残るこのエリアは観光地として人気で、観光に訪れる人々の姿や、活気に溢れる土産物屋が多く立ち並んでいた。制服姿の私たちは迷わず、見慣れた一軒の和菓子屋さんに入る。

「ここ、久々に来たね」

 私たちは店員さんの案内に従い、古びた階段を上がって靴を脱ぎ、座敷に上がると窓際のテーブルに腰を落ち着ける。

 出された煎茶を味わいつつ、窓から優美な街の景色を眺めた。こんな贅沢な時間を高校時代にもっと味わわなかったことを少し後悔するくらい、ここから眺める桜の木々や情緒のある小川の景色は最高だ。だが花より団子、ユリはそんな風景より店員さんに渡された和綴じのメニューにばかり釘付けになっていた。

「でもなんで和菓子?和菓子は好きってほどでもないでしょ?」

「え、だって、式で歌ってたら、お腹空いてこない?」

 ユリの言っていることはよく分からない。確かにお腹は空くけど、それは別に和菓子であることの理由にはならない。しかし、どうせ彼女の突発的な思いつきだろうから、私はそれ以上追及する気にはなれなかった。

 「ご注文は、お決まりでしょうか?」

 私は水まんじゅうを指さした。

 彼女は迷った挙句随分と高そうな抹茶パフェを選んだ。

 「あんた、お金は?」

 「まだ、お年玉があるもん」

 「今から無駄遣いしちゃだめだよ。新生活で家具とか必要になるでしょ?」

 「…ほんと、すぐお母さんみたいなこと言うんだから」

 お母さんと言われるのは、先ほどまでならどきりとしたけど、もう何も思わないどころかむしろ、心地よさまでをも感じる自分がいた。

 「あ…ごめんね、さやちゃん」

 ところが何があったのか彼女は、途端に表情を曇らせ、やや俯きがちに呟いた。

「私が、あの時言ったこと…まだ覚えてれば…」

 彼女が何かを言いかけた時、和菓子が運ばれてきた。

 目の前の美しい和菓子に釘付けになった私たちは、黙々と、それらを食べ始める。

 当初は子供みたいにはしゃぎ、スプーンを動かしていたユリだったが、徐々にその手の動きが鈍くなっていき…やがてそれは、機械のように止まる。

 「…私ね、さやちゃんのお節介のおかげで、真剣に、夢について考えるきっかけができたんだよ」

 私もユリの真剣な顔に見入った。

「それが難しいことも分かったんだ。…でも、ここで自分の夢を諦めたら一生後悔するなって思ったの。その直感に従いたくて、結局…」

 「それで、良いよ」私は彼女を安心させるように間髪入れず言った。「自分の目標を変えないだけ立派。一方で私は、まだこれから自分のなりたい目標や夢を探さなくちゃいけないんだ」

 私は、剣道を6年間続けてきて、その間顧問の先生に言われてきた言葉を反芻しながら、自分の言葉として彼女に語りかけた。

「人は遅かれ早かれ自分の人生の目標を見つけて、全力で歩かなくちゃいけない。それが早い失敗であるほど戻ってやり直せる。若い時に努力したことは、きっと無駄にはならないよ。…思いっきり挑戦してみなよ。きっと良いことあるからさ」

 言い終えた時、彼女の表情は今迄以上にぱっと明るく輝いた。

 「…いつでも手伝う!私、さやちゃんがもし目標を見つけられなくて悩んでたら、いつでも話聞いてあげる!」

 その言葉を聞くことができて、私は幸せだった。

 本当はずっと、このことが心の奥底に引っ掛かっていたのだろう。

 彼女はトイレに行くと言って席を立つ。私はその間にこっそり会計を済ませて、座敷の窓から景色を見下した。

 本当は夢がある彼女が、いつも夢に向かって頑張っている姿が羨ましかったのだ。

 だから師と呼ぶべき相手はユリ…いつも明るくて、自分を見つめ直すきっかけをくれる彼女なのかもしれない。

 私はようやく、それを確信する。

「…仰げば尊し〜我が師の恩…」

 何気なく、あの歌を口ずさんだ。

「なんだ、さやちゃんもその曲気に入ったの?」

 いつの間にか戻っていた彼女は、まるで流行りの曲のように“その曲”と言った。

「…あ、お代は払っといたから。私の奢りで」

「え!?ダメ、そんなのは!…私も出すよ…」

「いいよ。バイトしてるし」

 わずかな給料だが、今は全部、目の前の彼女に捧げたって構わない気持ちだった。

「さやちゃん…和菓子の恩、忘れない…!」突然彼女が、私の手を握りしめた。「いつか、必ず、私がビッグになったらお返しするから…!」

 我が師の恩とは…だとすると、これはあまりに安い投資だと思った。彼女が高い壁にぶち当たっても、私のことを師と仰いで相談を持ちかけてくれるなら。

 彼女が遠く離れても元気でいてくれるのなら、他には何もいらなかった。


 仰げば尊し〜、”和菓子“の恩〜…


 我が師…

 和菓子…


「…うん?…んんんん…!?!?」

 ユリが一日口ずさんだその歌が頭に流れた瞬間、私の中で、あまりに単純だったはずの謎が解けてしまった。

 何故こんなに単純なことに今の今まで気付けなかったのだろう!?

「待って、“和菓子”の恩…って…!?」

「え、うん。和菓子の恩、だけど?それが…何?」

「…ふっ…ふふふっ…和菓子…って…ふっ、我が師…」

「ちょっとー!さやちゃん!!?一体何がおかしいの!?」

 私はそれがツボに入ってしまい、暫く笑いが止まらなくなった。

 目の前の彼女は、なんてお馬鹿なのだろう。

 きっと本当は…私の方が、こんなお馬鹿な彼女のそばに居たいだけなのかもしれない。彼女といると、自分もお馬鹿になれるから。

 だから私は笑いながらもこっそり涙を溢していた。

 どうせ構わない。

 師は、弟子の前では涙を流すわけにはいかないと思っていたけれど…私は彼女の師なんかじゃなくて、たった一人の唯一無二の、尊い彼女の親友なのだから。

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