命をいただく【KAC20218】

江田 吏来

尊い

 小学生の娘はニンジンが嫌いだ。

 ニンジン好きの女の子が馬になった人形劇をみて、得体の知れない恐怖を感じたらしい。それからニンジンを食べなくなった。

 たくさんニンジンを食べても人は馬にならない。と、口酸っぱく言い聞かせてなんとか食べるようになったが、苦手意識は根深い。

  

 そして今日の晩ご飯はカレーライス。

 ジャガイモと肩を並べるニンジンに、娘はイヤな顔をしていた。それでも妻が無言のプレッシャーをかけ続けるので、まずそうに食べている。 

 苦しそうに食べる姿はかわいそうで見ていられない。チラッ、チラッと妻をみながら助け船を出すチャンスをうかがっていたけど、娘の手が止まった。


「もう、ムリ」

「食べなさい」


 妻と娘は静かににらみあっていたが、まだ小学生の娘が百戦錬磨の妻に勝てるはずもなく、スプーンの背でニンジンをつぶしはじめた。

 できるだけ小さくして食べる作戦のようだが、見た目がとても汚い。

 もっときれいに食べるように注意するべきか。それとも苦手なニンジンを残さない工夫をしていると、褒めるべきか。

 俺が悩んでいる間に、妻の厳しい声が飛んだ。


「美羽、汚いからやめなさいっ」

「食べようとがんばってるのにぃ。それじゃ、もう食べない」


 ぷくっと頬を膨らませてそっぽを向く娘。

 ああ、これからまた妻と娘の激しいバトルがはじまる。

 ガミガミVSグチグチの言い争いは、聞いているだけで飯がまずくなる。ここはレフェリーとして中立に、お互いを尊重し合いながら引き分けに持ちこまなければならない。

 俺は小さな咳払いをしてから、やさしく語りかけた。


「美羽はニンジンが嫌いなのか」

「見ればわかるでしょう」


 娘は不機嫌を凝縮した声と共に、冷めた視線をぶつけてきた。

 ここでたじろいではいけない。


「お父さんも昔、ニンジンが大嫌いだったんだ」


 この言葉を発すると、間髪入れずに妻が俺をにらみつけてきた。

 その目は「また美羽を甘やかすんですか?」と、怒りに満ちている。

 額に脂汗が滲みそうになったが、俺は話を続けた。


「小学校三年生ぐらいだったかな。父さんと……あ、美羽のおじいちゃんと俺で、おじいちゃんのお父さんの家に行ったんだ。一時間ほど電車に乗って、バスに乗り換えて――」


 ようやくおりた場所は田畑が広がるド田舎だった。

 時が止まったかのような静けさに包まれて、あたりを見まわしても父と俺しかいない。


『倖平、しばらく歩くけど大丈夫か?』


 父は心配そうな目をしていた。だが、俺が『大丈夫』というのを目の奥で期待している。弱音を吐いても『男の子だろ』という言葉が返ってくるだけ。

 俺は父から目をそらして歩きはじめた。

 

『おっ、さすが男の子だな』


 父は満足そうだった。

 本当は少し疲れたから歩きたくない。だけど田んぼにオタマジャクシがいる。脚の長いアメンボも水面を走って行くから、勝手に足が進んでくれた。

 しばらくはそれで良かったが、お腹が空いてきた。


『お父さん、まだ?』

『もう少しで着くから』

 

 もう少し、もう少し。

 父はそればかりをくり返し、俺はとうとう動けなくなった。

 男の子だろ。あと少しだから。もっとがんばれ。たくさんの言葉を投げつけられても、足は動かない。力をふりしぼっても、動かないのだ。

 とうとう俺はべそをかいて、その場に座り込んでしまった。

 父はやれやれといわんばかりの表情で畑に入ると、ニンジンを抜き取った。


『ここはおじいちゃんの畑だから、食え』


 湧き水できれいに洗ってくれたが、俺はニンジンが大嫌いだった。

 子どもの好き嫌いも知らないのかと憤りをおぼえたのに、空腹の俺はニンジンにかじりついていた。


「あのときのニンジンは最高にうまかった。美羽もこの世にニンジンしかなかったら、ガッツリかぶりついてるぞ」

「えー、そうかな?」

「人は空腹になると動けなくなるんだ。苦しくて、体がいうことを聞かなくなる。食べるものがあるって尊いことなんだ」

「そうよ、美羽。世の中には食べられない人がたくさんいるの」

「またその話? はい、はい、わかりました。ちゃんと食べます」


 美羽はギュッと目を閉じてニンジンを口の中に入れた。

 食べるということは、とても尊いことだと思っている。俺はあのときのニンジンの味と共に、別の記憶も思い出していた。

 数年前、中国に出張したときだ。


 取引先の家族が、生きた鶏の首を斬り落として血を抜き、毛をむしるのを見た。

 お尻から包丁を入れて内臓を取り出し、きれいに洗う。丸焼きになっていく姿をすぐそばで目撃した。


 数時間前まで鶏は二本の足で駆け回り、生きていた。

『いただきます』という言葉は、命をいただき、自らの命にさせていただきますと感謝するためのものだと聞いたことがある。

 まさにその通りだった。


 人は大昔から命をいただく行為を続けている。

 生きるために他の命を奪っている。

 そのようなことを考えながら食べた肉の味は、今でも忘れられないほど香ばしかった。


『柴田さん、解体見たあとによく食えますね』


 真っ青になった同僚から声をかけられたが、彼らの命のおかげで俺は生きている。これがなんだか尊いことのように思えて、今まで以上に感謝して食べることを意識した。


 食える幸せ。

 これはなによりも尊いはずだ。

 鼻息を荒くしてこの話もしようとしたが、「それはあなたが食いしん坊だからよ」と妻に笑われる気がする。

 俺はカレーライスをおかわりして、妻が席を離れた隙に、娘のニンジンをすべて平らげた。


 戻ってきた妻は、ニコニコ笑う娘をみて素早く察した。

 これは叱られる。

 こっぴどく叱られる。

 地雷を踏んだとビクビクしていたが、妻は大きな息をひとつ吐いてカレーライスを食べはじめた。


 娘に甘いと散々叱られているのに、ときどき見逃してくれる。

 そのタイミングが絶妙で、俺と結婚してくれた妻も尊い存在だ。

 ホッとした気持ちで食うカレーライスは最高にうまかった。

 これからもこの日常を守っていきたい。





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