8:洞窟の奥 1

 どこかで岩の欠片が落ちた。

 カツーンという音が洞窟に反響し、再び静かになるまで、みんな無言だった。

「……ハジャルさんは、違うと思う」

 重い沈黙を破って、アイラはようやくそう言った。

 ハジャルが襲撃の糸を引いているなんて、考えれば考えるほど信じられない。しかし、横で聞いていたギュンツは「違うって?」と意地悪に笑う。

「オレはありそうなことに思うがな。身近な奴の裏切りなんてどこにでも転がってる話だろ。ワルダートだって、疑いたくないのに疑っちまうなら、それなりの理由があるんだろ?」

 薄青の目を得意げに光らせるギュンツに、ワルダートは一瞬ためらうように目を伏せた。しかし、やがてベールを揺らして顔を上げた。

「ハジャルは副隊商長だから、私が死ねば代わりに隊商を率いることになるわ。それ自体には旨味はないけど……私が運ぶはずだった商品を副隊商長としての責任で届ければ、その相手とコネを結ぶきっかけになるわね」

「へえ? ……想像してた数段、ちっぽけな目的だな」

 得意げだった顔が曇った。コネのために人を殺すなんて、自由気ままなギュンツの性格じゃ首を百八十度回してもかしげ足りないだろう。

「ちっぽけかしら。例えばそこのラクダに積んだ宝飾品。あれを注文したのはね、何かで荷物が行方不明にでもなれば、我が一族をそろって断頭台へ送れるようなお方よ」

 ギュンツが目を丸くする。アイラも思わずそのラクダを振り返った。暗い中で荷物をなくしては困るからか、ラクダたちは重い包みを乗せたまま洞窟の壁につながれている。

「王族か?」

「お客様の個人情報をしゃべるわけないでしょう」

 否定しなかったということは、本当に王族なのかもしれない。恐る恐る振り返ったラクダの顔は、なんだかさっきより重々しく見えた。

「ハジャルの家はずっと細々と商売を続けてきたの。今は彼の息子が当主だけど、私の商売相手とのコネを得れば、動かせるお金がケタ違いになるでしょうね」

「ふうん」

 ギュンツがさっきより納得したように見えるのは、コネ目当ても王族が相手ならありえると思ったのか。

「それでもハジャルさんは、襲撃には関係ないと思うよ。だってハジャルさん、この隊商をとても大切にしている……ような、気がするから」

「気がする、ねえ」

 ギュンツがクスクスと笑った。アイラは言いよどみながら続けた。

「砂嵐が来る前、少し話をしたんだ。いい人そうに見えたよ。ワルダートさんを傷つけたりなんて、しそうにない……」

 だんだん声がしぼんでいく。なんて頼りない擁護だろうか。

 なんとなくの印象を言葉にすることは苦手だ。見たものや聞いたことをそのまま繰り返すならできるのに。隊商の誰に対しても穏やかに微笑み返すハジャルの姿を、ただ説明することなら。

 しかし、そこから感じた温かさは言葉にした途端薄っぺらくなってしまう。案の定ギュンツには何も伝わらず、馬鹿にするように目を細められただけだった。

「アイラは少し話しただけで、腹ん中まで分かるのか。ジャマシュにあっさりだまされてただけのことはあるな」

 にこやかに笑って、こちらが気持ちよくなる言葉をくれる。ジャマシュがアイラに近づいたやり方とハジャルの甘やかしは、言われてみれば似ているかもしれない。

 もしかしておだてに弱いのか、私は? ――アイラの背中を冷や汗が流れる。

 でもジャマシュと違って、アイラを喜ばせたところで、ハジャルには何の得もないはずだ。

「それにオレも、話はしてないが、見てて分かったぜ。あの爺さん、滅多に本音でしゃべらねえだろ」

「えっ」

「笑うのが得意な人間ってのは、何企んでるか分かったもんじゃねえのさ」

 と、ギュンツがにっこり笑って言う。鏡を見せてやりたいが、残念ながら手元にない。

「確かにハジャルさん、本心を見せない方だって自分で言ってたけど。でもそれって隊商の人たちに角を立てないためでしょう? そんなに気を遣っている人が、自分でその平和を壊そうとするかな」

「オレが暗殺を考える側なら、計画外のいざこざはなるべく起こってほしくない。それを防ぐためならいくらだってニコニコしてやるさ」

 ひと呼吸も置かず言い返され、脳内でハジャルが肩をすくめる。悔しいやら焦るやら、アイラは思わず声を尖らせた。

「できるの? いざこざの種まきが趣味みたいな君に」

「やろうと思えばな」

「やらない人のセリフだね。子供扱いされるとすぐ顔真っ赤にするじゃないか」

 何か言おうとしたギュンツの声は、甲高い笑い声に邪魔された。

「おい、誰だ今笑ったの」

 ギュンツは舌打ちして振り返り――そして、すぐに気づいたらしい。

 甲高い子供の笑い声。そんな声の持ち主は、誰もいないということに。

「……誰も、笑ってないわ」

 気のせいか、気温が少し下がった気がする。

「我らでもありません」

「では、今の声は……?」

 ぎこちなく見回す人々の視線が、やがて洞窟の奥、細くすぼんだ通路に向けられた。

 その瞬間。視線を待ちかねていたように、高らかな合唱が噴き上がった。


 アハハハ!

 ふふ、くふふふ、アッハッハ! きゃはきゃは、あは、クスクス、エヘヘ、ウフフフ、わっはっはっはっは!

 笑い声。

 笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。


「ッ、んだよ……こんなところに人間がいたってのか!?」

 不気味な声は洞窟の壁に反響し、全方位からこちらを飲み込もうとしてくる。アイラと言い争っていたことも忘れ、ギュンツが声を険しくした。

 アイラも肌を泡立てたが、その理由はギュンツとは違う。

「大変だ」

「大変なのは分かってる」

「私たち、獣の巣に入りこんじゃったんだ」

「はあ!?」

 あれが獣かよ、とギュンツが声の方を指差す。年端も行かない子供が遊んでいるようなキャラキャラした声がさらに響く。

「人間が笑うような声で鳴く、といえば、ひとつしかないわ。まさか……」

 グール。誰かがつぶやいた。

「グールだ……グールの群れだ」

「グール……?」

 ギュンツの呟きに応えるように、五、六対の瞳が闇に浮かんだ。

 暗がりに溶けていた黒い姿が踏み出してくる。

 ピンと立った耳は狼のよう。深く裂けた大きな口は、常に笑みを描いている。

 カシャン、と爪が洞窟の床に触れた。あまり鋭そうには見えない丸い爪だが、こいつがいちばん厄介だ。説明しようとしたとき、すんと鼻を鳴らしてギュンツが言った。

「あいつら、毒があんのか? 毒蛇みたいな匂いがするが」

「えっ、分かるの? 匂いで分かるなんて」

 クスリ作りには鋭い嗅覚も必要なのだろうか。アイラは素直に驚いた。

「そうだよ、爪に毒があるんだ。小指の先にでも引っかかれたら、命は持って一時間。ここは逃げたいところだけど……」

「狼と鬼ごっこか。そりゃ楽しそうだな」

「言ってる場合? あと、狼じゃなくてグールだってば」

 こんなときでも皮肉を忘れないのは、ギュンツのいいところなのか悪いところなのか。

 狩りをする肉食獣相手に足でかなうはずがない。それに、運よく巣穴から逃げ出せたとして待っているのは砂嵐だ。ちらりと振り返ると、風の音は弱まってきたが、まだやみそうにない。

「暗殺者に負われて逃げた先がグールの巣だなんて冗談じゃないわ。どうにかして追い払えないかしら」

「もう狩りの姿勢に入っています。今から大人しくさせるのは無理かと……」

「なら、やられる前にやるしかねえな」

 言って、ギュンツがローブの袖から小瓶を転がり出した。中身は怪しげな色の粉末だ。

「毒煙を使うのが手っ取り早い。有毒獣が相手でも、毒の種類を選べば効かないわけじゃねえからな」

「毒か……」

 アイラは声を曇らせた。「なんだよ?」とギュンツが首をかしげる。

「馬鹿か小僧。こんなところで毒煙を焚けば、我々も吸いこんでしまうだろうが」

 アイラ以上に強く反対したのはマルヤムだ。ワルダートに対して礼儀を知らないギュンツには、そもそもよい感情がないらしいが、毒を持っていると聞いてさらに目つきが険しくなる。

「解毒薬があるに決まってんだろ。たった今一人分足りなくなったが」

「ほーう。不足の責任はもちろん言い出した者が負うのだろうな、小僧?」

「今もう一人分なくなった」

「おい」

「おまえが『小僧』って言うたびに薬がひとつ減るシステムだ」

「なぜだ」

 グールを刺激しないよう、内容はともかく低い声での言い合いが洞窟を流れていく。その間に、アイラは獣の群れに視線を向けた。

(六頭か……)

 ギラギラ光る凶暴な瞳。殺気のこもったまなざしは見られるだけで寿命が削られていくようだ。それでも、その瞳から光が消えるさまを想像すると嫌な思いが胸に湧く。

 砂漠で襲ってきた獣なら、殺すことに罪悪感はない。しかし今回は事情が違う。寝ているところに飛び込んできて驚かせたのはこちらなのだ。グールの殺意はいわば正当防衛で、それをいぶし殺すなんて、誇りある戦士のすることじゃない。

 殺すしかないならせめて、対等に戦いたい。

 きっと賛同されないだろう。それでも一度湧いた思いは爪を引っかけたように消えなくて、アイラは腰の剣に触れた。触れた瞬間声が出ていた。

「私が行くよ」

 あちこちで広がっていたささやき声が、ピタリと止まった。

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