第11話 潜入
しとしとと、雨が降り始めた。
雨粒が頬に当たると共に目を覚ましたレイラは、くぁ、と欠伸を噛み殺しつつ木から降りる。天気はあまり良くなかったが、残念ながら降り出してしまったようだ。
だが――夜闇に紛れて潜入しようとしているレイラにしてみれば、これは恵みの雨。
肩に掛けていただけの外套のフードを羽織り、持ってきていた布で鼻から下を縛る。頭と顔を見られなければどうにかなるものだ。そして暗色の外套はそれだけで夜闇の中に自分を紛れ込ませてくれる。
「うし、行くか」
呼吸がし辛いのが欠点ではあるが、顔を見られるよりはましだ。
ガルランドとはこれまで戦端を開いたことはないけれど、トール王国との戦闘において援軍に来たことが何度かある。基本的には皆殺しにしてきたつもりだが、生き残りがいてレイラの顔を覚えていれば困るし。
雨粒が落ちる中を、限りなく己を透明にして駆ける。
速度としては、全力よりも遥かに遅い。だが雨の降りしきる中で、雨音よりも小さな音だけを発し、気配を殺し、足音すら響かせることなく、限りなく透明に。
ただでさえ暗い夜で、しかも月も出ていない雨の中で、レイラを発見することは難しいだろう。
恐らく物見の兵は常に監視をしているのだろうけれど、その網に引っかかることなく、レイラは最前線の砦――その真横を駆け抜ける。
違和感くらいは生じているかもしれない。
だが、この速度で何の音もなく走り抜ける生物が存在するなど、最初から向こうの想定外だ。結果、レイラは誰にも見つかることなく敵国への侵入に成功した。
「……ふぅ」
速度を落とさず、しかし布を少しだけ引いて、小さく息をつく。
最前線の砦を越えれば、あとは点在する都市や村だ。基本的に監視の目は外部に向いているものであり、内部に対しての監視は緩い。
遠くで雷が落ちるのが分かる。
これを機とばかりにレイラは、雷の音と共に思い切り大地を蹴って跳躍した。普段から街道から逸れている場所を全速力で駆け抜けているレイラにしてみれば、この速度で走り続けるのは疲れこそしないけれど苛立つのだ。少しでもそれを発散させるために、一歩思い切り跳躍した。
そして雨粒が顔に当たり、顔を隠している布がしとしとと水滴を落とすようになった頃合。
ようやく――目の前に、城塞都市が見えた。
「……」
周囲を見回すが、レイラ以外に人影はない。
高い石壁に囲まれた城塞都市は、基本的に門から入らなければならないのだ。そしてガングレイヴ帝都と同じであるならば、入門は日中に限られる。夜は完全に門を閉め切り、一切の入都を絶っているのだ。
つまり。
真夜中に都市へと侵入するためには、門ではなく壁を乗り越えなければならないのである。
「よ、っと」
石壁に、まず指を掛ける。
きっちりと腕の良い石工により、長い時間をかけて作られた石壁なのだろう。石と石の間に、隙間がほとんどない。雑な造りであれば、簡単に登ることができるのに。
少なくとも、足を引っ掛ける場所はなさそうだ。腕の力だけで登らなければならないだろう。しかも、爪の先がようやく引っかかるという程度の隙間に入れて。
「……」
そこまで考えて思った。
面倒だ。
改めて周囲を確認するが、やはり人影はない。石壁も、恐らく上の方で周囲を監視している人員がいるのかもしれないが、こちらに視線は感じない。そもそも尋常でない高さの石壁を乗り越えて侵入しようと思う者など他にいまい。そういう点から、監視の目は限りなく緩いのである。
ならば。
多少、全力を出してもいいか――。
レイラは石壁から少しだけ離れて、それから大きく息を吐いた。
人間たる者、重力には逆らえない。高い場所に向けて登るには、己の体を腕の力で運ぶことしかできないのだ。
だが、そんな重力など。
勢いと速度だけで、無視してみせる。
「ふんっ!」
大地を砕く勢いで駆け出し、一気に最高速度まで乗せる。雨粒が石の投擲にも感じるほどに痛いけれど、それはもう我慢だ。
そして、地面を走る勢いでそのまま、壁に足を掛ける。
レイラの得意技の一つ――壁走り。
それまでに乗せた速度と勢いだけで重力を無視し、垂直に駆けるという人間離れした荒技である。
並の高さの壁ならば、そのまま走って登ることができる。砦に一人で攻め入るときには、そのまま走って壁の上まで到達したこともあるほどだ。
少なくともレイラの記憶にある限り、壁を走って登りきることができなかったのは、かの不落かつ堅牢な関――トールの関だけである。途中からは石壁に手を掛けて登った。
そして、トールの関ほどに高い壁を有しているわけではない城塞都市の壁など、そのまま登りきることができる。
「よっと!」
「なぁっ!?」
「おらぁっ!」
石壁の上――やや狭くなってはいるが、通路として使われているのだろうそこに、見回りをしていたのだろう兵士がいた。
勿論、その気配は既に察しているため、レイラに驚きはない。
的確に腹を打ち、兵士が悶えると共に倒れるのが分かった。
ただの兵士など、レイラの前では案山子にも等しい。
だが、ここに放置していればそれだけで問題になる可能性はある。他の見回りの兵士が発見するかもしれないからだ。
ゆえに、行うことは一つ。
壁の向こうへ、落とす。
こんな場所で行う哨戒だ。少なからず事故はある。
今この時、レイラが侵入した今、見回りをしていた不運はあの世で嘆いてもらおう。
そして、一瞬で無力化した敵兵になどそれ以上の興味を持たず、レイラは石壁の向こう――ガルランド王都へ目をやった。
真夜中であるがゆえに、ほとんど光はない。奥ほど光が見える場所が多いため、恐らく奥に行けば行くほど高位の貴族が住んでいるのだろう。一般市民にとって、こんな時間に油を使ってまで起きている理由がないのだから。
そして、そのさらに奥――宮殿。
夜会でも行われているのか、煌々と光が灯っているそこへ、レイラは憎々しく思いながら目をやり。
「……あそこに、アントンがいる」
確証はない。
だが、間違いない――そう、レイラの愛という名の野生の勘が告げていた。
あそこでアントンは囚われ、そしてレイラの助けを待っている。
「絶対に、助けてやるからな……!」
レイラはそう決意し。
並の人間ならば落ちれば死が直結するであろう、高い壁を。
飛び降りた。
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