第5話 襲撃
ガルランド王国との戦が、近々起こるらしい。
そんな噂は、瞬く間に宮廷の中を駆け巡った。まだはっきりとした声明を出しているわけではないけれど、その理由まで。
曰く、ガルランド王国の馬鹿王子がレイラに手を出したために、皇帝が怒ったとか。
曰く、レイラが皇帝に「ガルランド王国が気に入らない」と言いだしたとか。
曰く、ガルランド王国に伝わる最高神たる女神カーリーの名を冠したレイラを、ガルランド王国が聖女として迎えるつもりだとか。
根も葉もない噂から、少しは真実味を帯びているものまで、その種類は様々だ。
だが、そんな中でも間違いのない事実。
それは――ガルランドとの戦争が近いということ。
「ふぅ……」
今日の執務を終えて、アントン・レイルノートは帰路につく。
宮廷の仕事というのも色々あり、定時に帰れることは滅多にない。加えて、銀狼騎士団に対する物資の搬入を行う事務官たるアントンは、物資搬入のために二週間を不在とするのだ。月の半分を不在の状態で、他の者が一月の間に終わらせる量の仕事をこなさなければならないために、仕事が夜半に及ぶのはいつものことだ。
そしてアントンが戻るのは、宮廷からそれなりに距離のあるレイルノート侯爵家の屋敷である。将来的にはレイラを妻に迎え、父であるロウファル・レイルノートより認められさえすれば、そのまま父が隠居してアントンが侯爵家を継ぐことになるだろう。
アントン自身はそれほど自覚があるわけではないが、アントンの評価はそれなりに高い。
銀狼騎士団の事務官をしていれば、何もせずとも評価は上がる。そう言われてはいるけれど、彼自身の宮廷における評価はそれほど悪くないのだ。良くも悪くも真面目であり清廉であるアントンは、既に次期宮中侯としての呼び声が高いほどである。
ゆえに、宮中侯を継ぐのももう間も無くだろう――そう噂されているくらいに、仕事はきっちりとこなしているのだ。
そして、アントン自身にも僅かながら焦りがある。
早く宮中侯を継ぎ、宮廷に確固たる地位を築いた上で、ちゃんとレイラと結婚をしたい――そう思っているのだ。
そのために、将軍を引退してもらい、屋敷でアントンを支えてほしいと、そう思っていたのだけれど。
「……ガルランド、か」
小さく、今日聞いたばかりの国の名を呟く。
戦争が起こるかもしれない。そして、これが市井ではなく宮廷で流れている以上、それはほぼ確定だと考えてもいいだろう。
皇帝の許諾も、テレジアの説得も終わって、トール王国さえ滅亡すれば大手を振って迎えに行くことができたのに。
下手に横槍を入れてきたそんな国に、恨みがましい気持ちは湧いてくるけれど。
だが、同時に。
「レイラさん……大丈夫でしょうか」
ガルランドの第二王子、ロベルト・アール・ガルランドが特使として銀狼騎士団の砦にやってきて、そこで閨での奉仕を強要したのだと聞いた。
その上で怒ったレイラがロベルトを殴り、そのまま特使は帝都を訪れることなく帰ったのだと。
そして――王族に対してそのような暴力を振るったレイラの身柄を、ガルランドが求めているのだと。
アントンは、怒りに震える自分がいるのが分かった。
レイラのことを心から愛しているアントンにとって、ロベルトのそのような行動は許せないものだ。
いくらガルランドの王族であるとはいえ、他人の婚約者に手を出すことなど、言語道断。
アントンがもしもその場にいたのならば、ロベルトを殴りつけていたのではないか――そうとさえ思える。
「いや……」
だが、そこでアントンは首を振る。
テレジアから、平時に落ち着くまで引退を認めない旨は言い渡された。最初こそ残念に思ったけれど、こうなってしまった以上は、これで良いのかもしれないと思えてきた。
何せ、レイラに失礼なことをしたのはガルランド王族であり、これから起こる戦争はガルランド王国とのものなのだ。
つまり、レイラが最前線で戦うということになる。
レイラが自分に対して失礼なことをしてきたガルランド王族に、自ら誅罰を与える――それは、正しい帰結だ。
「……」
考えていても仕方ない。
ひとまず今は、やるべきことを考えるべきだ。
レイラが戦場に向かうということに対して、一抹の不安はある。テレジアにしてみれば杞憂に過ぎないらしいけれど、戦場はいつだって死神が隣にいるのだ。その死神が、いつレイラに襲いかかるか分からないのだから。
レイラがもしも戦死したら――アントンは、正気を保てる自信がない。
そんな沈んだ気持ちのままで、歩いているうちに。
どことなく、奇妙な感覚に襲われた。
「……あれ?」
明かりのない、暗い道。
普段から毎日通っている、屋敷まで至る道だ。別段、そこに何があるわけでもない。
だが――普段よりも、人影がない。
いつもならば、夜の仕事――飲み屋で客の相手をしている女だったり、深夜まで及ぶ店を経営している者だったり、アントンのように宮廷での仕事が長引いた者だったり、数人程度は歩いているのだけれど。
そんな人影が、どこにもないのだ。
前を見ても、後ろを見ても、歩いているのはアントン一人。
どことなく不思議な感情を覚えながら、しかしアントンは歩く。
誰もいなくても、道は続く。そして、その道の先に屋敷はあるのだから。
まぁ、気にしすぎなのかな――そう、油断した、そこで。
突然。
物陰から。
誰かが。
出てきた。
「――っ!?」
「来い」
「なっ……!」
それは、黒装束に身を包み、顔すらも布で包んだ何者か。
簡素な造りの石斧を右手に携え、問答無用、とばかりに突然にアントンに襲いかかり。
がつん、と。
アントンの頭を、石斧で打った。
「ぐ、あ……!」
「……」
流れる血と、遠のく意識。
だが、そんな中で。
ただ――無言でアントンをその方に背負い、黒装束が駆け出したことだけは、分かった。
「な、ぜ……」
「……」
アントンの、そんな疑問の言葉にも黒装束は答えることなく。
そのまま――意識が、ゆっくりと白くなった。
その日。
アントン・レイルノートは、帝都から姿を消した。
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