第29話 愛

 レイラの前に立ちはだかる、手を広げたアントン。

 このまま拳を叩き込めば、それだけでアントンの命は消え去るだろう。だというのに、その眼差しには恐怖の色が欠片もなく、ただ真剣にレイラを見据えている。

 そこにあるのは、覚悟。

 信じてもらえないならば、ここで死んでもいいという――そんな真剣な想い。


「アントン……っ!」


「信じてもらえないのでしたら、ここで果てる覚悟です。信じてください、レイラさん」


「……お前、本当に、死ぬ気か」


「レイラさんに信じてもらえないのならば、生きていても仕方ありません。あなたに殺されるのならば、構わない」


「……っ!」


「どうぞ、レイラさん」


 踏み込もうとした足が、動かない。

 振り上げようとした拳が、動かない。

 レイラのその拳は、一撃でアントンの命を奪うだろう。それは分かっている。嘘吐きの裏切り者でしかないアントンを相手に、それを叩き込むことになど、何の躊躇もないはずだった。

 だというのに。

 レイラは――涙で霞む視界で、ただ、アントンと見つめ合うだけだった。


「……く、そっ……!」


「レイラさん……?」


「でき、るか、よ……!」


 うっ、うっ、と嗚咽が止まってくれない。

 涙が溢れて溢れて止まらず、視界に靄がかかり、アントンの顔すらぼやけてしまう。

 何故、殴ることをこれほど躊躇うのか。何故、その命を奪うことにこれほど抵抗があるのか。

 そんな理由など、一つしかない。


 レイラは――ただ、顔を両手で覆って、膝をついた。


「アン、トン……!」


「……レイラさん」


「あたしは……っ! お前が、好きなんだ……本当に、本当に、大好きなんだ……!」


 ずっと、ずっと焦がれていた。

 裏切られたときに、あれほどの絶望を感じたのも。

 二度と会いたくないと、そう拒むほどに怒りを覚えたのも。

 どちらも、その理由は同じだ。


 愛しているから――。


「やっと、やっと、忘れられると、思ったのに……! お前に、そんなこと言われてっ……! できるわけねぇだろうがぁっ!」


「……」


「やめてくれよ、もう……! これ以上、あたしを惑わせないでくれ! あたしみたいにがさつな女なんて! 大嫌いだとそう言ってくれ! 皇帝の命令があったから相手をしていただけだって! そう言ってくれよ! そうすれば、あたしだって……!」


「……いいえ、レイラさん」


 顔を覆っているために、アントンの姿は見えない。

 溢れる涙のせいで震える体は、普段ならば目を瞑っていても感じる僅かな空気の動きすら、感じさせてくれない。自分の嗚咽と叫びで煩い耳には、僅かな衣擦れの音など届かない。

 だから。

 その手がゆっくりとレイラに触れるまで、気付かなかった。


「――っ!? アントンっ!?」


「ごめんなさい、レイラさん」


「お、お前……っ!」


 ぎゅっ、と。

 小さなレイラの体を包み込むように、アントンがレイラを抱きしめる。

 耳に吐息がかかるほど近く。

 触れ合う肌の熱さが感じられるほどに近く。

 アントンの鼓動すらも、聞こえるほど――。


「何度でも、言います。僕はあなたを愛しています、レイラさん。皇帝の命令など関係ありません。僕は、レイラさんがレイラさんだから、好きになったんです」


「うそ、つけ……!」


「何度だって言います。レイラさんが信じてくれるまで、何度でも。僕は、あなたを愛している」


「……っ!」


 う、うっ、と。

 溢れる涙が、暖かなそれに変わってゆく。

 囁かれる愛は、嘘だったはずだ。アントンの気持ちなど、そこにはないはずだ。

 だけれど。

 レイラと触れ合い、高鳴るアントンの鼓動は――その気持ちが本物だと、教えてくれる。


「あ、あたしは……がさつで、乱暴者、だし……」


「将軍として、力強いと思います。素晴らしいです」


「お、女らしくないし、可愛くもないし……」


「レイラさんは魅力的です。可愛らしいです。あなたよりも魅力的な女性はいません」


「あ、あと……え、ええと……お、思い込み、激しいし……すぐ、手が出るし……」


「僕は、あなたになら殺されてもいい」


「……っ!」


「できれば、生きて一緒にいたいですけどね」


 冗談っぽくそう言って、アントンがゆっくりと離れる。

 そして、僅かに顔を上げた、レイラの瞳をじっと見つめて。


「愛しています、レイラさん」


「う、ぅっ……!」


「僕と、結婚してください」


 何度目になるか分からない、愛の告白。

 だけれど、その言葉を聞くたびに、心がふわふわと浮いたような気分になる。

 本当に、心から愛している男からのプロポーズ――それが、嬉しくない者など、いるわけがない。


「あ、あたし、だって……!」


「はい」


「あたしだってなぁ! アントンっ! お前のことが大好きだよっ! 心から愛してるよっ!」


「ありがとうございます、レイラさん」


「ちくしょう……っ!」


 完全に、負けた気分だ。

 レイラは何があろうと、アントンだけは絶対に殺せない。アントンと殺し合いをすることになれば、自害をすることを選ぶだろう。そのくらいに、絶対に殺せないのだ。


 最強無敵、天下無双のレイラ・カーリー。

 そんな彼女が、絶対に勝てない相手。

 それが、アントン・レイルノート――。


「では、レイラさん」


「何、だよ……」


「お返事を、いただきたいのですが」


「……」


 返事。

 それが何か分からないほどに、レイラは鈍感ではない。

 間違いなく、言われたのだ。結婚してください、と。

 レイラだけを生涯愛すると――そう宣言された、その返事は。


「え、ええ、と……」


「はい、レイラさん」


「あ、あたしな、こ、こういうの、慣れてなくて……」


「僕だって慣れていませんよ。こんな風に言うのは、レイラさんだからです」


「だ、だから、そういう……!」


 悔しい。

 レイラばかりが戸惑い続けている気がする。アントンの様子は落ち着いているように見えるのに。

 どうしてそんなに落ち着いていられるのか。

 レイラは、今にも倒れそうなほどに嬉しいというのに。


「くそっ……! ああ、もう!」


「はい」


「い、いっぺんしか言わないからな! 絶対だからな!」


「はい」


「あ、ああ、あたしを……っ!」


「はい」


「お、おお、お、お嫁に、して、ください……」


「はい、レイラさん。一生幸せにします。約束します」


 かぁーっ、と顔が真っ赤になる。

 あまりにも普段のレイラと違いすぎる言葉を告げたせいで、頬が熱くてたまらない。

 照れすぎて、気を失いそうになる頭を、どうにかして堪えながら。

 代わりに、ぎゅっ、とアントンの胸に顔を埋めた。


「アントン……」


「はい、レイラさん」


「絶対に、絶対に、浮気は許さねぇからな……」


「勿論です。僕は、死ぬまでレイラさんのことだけを愛すると誓います」


「あ、あたしだって、死ぬまでお前だけ……」


 震える体と、ようやく落ち着きを取り戻してきた心。

 そこで、ようやく気付く。

 ここにいるのは、レイラとアントンの二人だけではない――。


 はっ、と顔を上げて。


「やー、暑いっすねぇ、ほんと。アタシもちょいと旦那に甘えたくなってきたっすわー」


「テレジアああああああっ!!!」


 急激に恥ずかしくなってきた心。

 全部を聞かれていた、というこの羞恥。

 それは。


 当然ながら、拳の一撃に込めて、テレジアの腹を打った。

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