第28話 絶望の帰結
レイラが執務室からようやく出てきたのは、アントンが去ってから四日後だった。
涙はようやく涸れ尽くしたのか、止まってくれた。その代わり、真っ赤に充血した目と腫れた瞼は、その余韻を間違いなく残していたけれど。
アントンが来てから今までは、部屋の中にある保存食だけで過ごした。それも三日目で切れてしまい、さすがに空腹に耐えきれずに出てきたのだ。酒は初日のうちに飲み尽くしてしまい、もう全て尽きている。
ゆえに、酩酊しているわけではなく。
すっきりとはしていないが、ある程度整理のついた心で、ようやく出てくることができたのだ。
「ふぅ……」
無気力であることには変わらず、辛い気持ちは一つも晴れていない。
だけれど、さすがに十日以上も引き篭もり続けていれば、ある程度見えてくるものがあるのだ。そういう、ある意味無の境地に立っていた。
怒りに震えているわけでもない。
悲しみに嘆いているわけでもない。
ただ――心は、虚ろだ。
今ならきっと、戦場で暴れれば少しは楽しめるだろう。
正式な許可が出ているわけではないけれど、トールの王都へ攻め込んでもいいかもしれない。勿論、レイラ一人で。
いや、むしろ。
一人で攻め込むなら、ガングレイヴの帝都でも落としてやろうか――そんな考えすら浮かんでくる。
テレジアが止めるならば、銀狼騎士団ごと滅ぼして。
グレーディアが止めるならば、赤虎騎士団ごと吹き飛ばして。
他の誰がレイラの前に立ちはだかろうとも、その全てを蹂躙してみせる――。
「くくっ……」
いいかもしれない。
レイラを裏切ったこの国になど、何の未練もない。
皇帝など、ものの一突きで死ぬような人間に過ぎない。近衛兵など、いくら出てきたところで雑兵に過ぎない。事務官など、案山子よりも劣る的に過ぎない。
その全てを殺戮してみせれば、どれほど楽しいだろう。
破滅的な考えに、笑いが出てくる。結局、人殺しを楽しむようなこの
「れ、レイラさんっ!」
「……」
そんなレイラの前に、テレジアがいた。
まだ朝も早いというのに、既にきっちりと軍服に着替えている。さすがはテレジアだ、と僅かに賞賛しながらも、しかし答えない。
むしろ。
ただ、冷たい眼差しで、テレジアを見る。
「お、おはようございます。やっと……出てきたんすか。あの、目ぇ怖いんすけど……」
「ああ……」
「あの、アタシ、アントンさんから事情を……」
「うるせぇっ!」
アントン。
その名前が出てきた瞬間に、そう一喝する。
もう、二度と会わない相手。
二度と、愛など持たぬと決めた相手。
「テレジア、二度とそいつの名前を口にするな。もう一度言ったらぶっ飛ばす」
「……承知っす。ぶっ飛ばされてもいいようにしとくっす」
「あん?」
「ちょっと待って欲しいっす。準備するっす」
テレジアがそう言って踵を返し、元来た道を去ってゆく。
なんだ一体、と眉根を寄せながら、その背中を見送ってからレイラは改めて厨房へ向かうことにした。
そもそも、空腹に耐えきれずに出てきたのだ。何か食事でもしておかねば。保存食の類でもいいから、せめて口に。
と、そのように向かっていると。
「いや、お待たせっす、レイラさん」
「……どうした、テレジア」
「これで大丈夫っす」
「……ああ、そうかよ」
ずしん、ずしん、と足音を響かせてやってきたのは、銀狼騎士団の正式な
通常の
銀狼騎士団の中でも、これを着たままで動ける者はそういないだろう。厳しい戦闘の際に、最前線で突撃する者が装着する鎧であり、あらゆる意味で鉄壁を誇る代物なのだ。
何故、テレジアがこれを着てレイラの前にやってきたのか。
「さて、アントンさんの話に戻るっす」
「てめぇっ!」
「うっ!」
言葉が出ると共に、レイラはテレジアの脇腹を殴りつける。
次に言ったらぶっ飛ばすと、そう言ったはずなのだ。だというのに、あっさりとその名前を口にしやがった。
だが、さすがに刃も通さない
レイラの人の域を越えた力で殴られても、僅かにへこんだ程度で形を保っていた。
「おうふ……これも、へこませるんすか……さすがはレイラさんっす」
「二度とその名前を言うんじゃねぇ!」
「言うっす。とりあえずアントンさんから事情は聞いたっす。ぜーんぶ、ちゃんと聞いたっす」
「うるぁっ!」
「ぐっ……だ、大丈夫っすけど、揺れるっす……!」
レイラのさらなる一撃が腹へと与えられるが、それでもやはりテレジアは止まってくれない。
そして、これ以上殴られるのは勘弁、とばかりにテレジアは早口で話し始めた。
「まず言っとくっすけど、全部レイラさんの勘違いっす。アントンさんは真剣にレイラさんを愛してるっす」
「嘘、つけぇっ!」
「ぐっ……嘘じゃないっす。アタシは全部聞いたっす。皇帝陛下からの命令は、本当のことっす。でも、アントンさんはその命令が下される前から、レイラさんを愛していたらしいっす」
「それもこれも全部嘘だぁっ!」
「うぐっ……ヘビフルでもヤバいとかどんだけなんすか……! そもそも、アントンさんにそんな命令が下されたのは、レイラさんに告白をしてからだそうっす。婚約をした後で、一応陛下からお褒めの言葉をもらったらしいっすけど、ある意味陛下に認められているようなものっすから、否定しなかったそうっす。たまたまレイラさんはそれを聞いただけっす」
「うるせぇっ! 黙れぇっ!」
「うっ……し、信じるっす、ヘビフル……! 保ってほしいっす……!」
繰り返しレイラから与えられる拳に、次第に鎧が形を失ってゆく。
鈑金され整えられていた表面は所々がへこみ、恐らく既に中にいるテレジアまで衝撃が加わっているだろう。
だが、レイラは止まらない。そして、テレジアも止まらない。
「アタシだって見ていて分かるっす! 二人は両想いっす! 間違いないっす!」
「そんなわけがあるかぁっ!」
「絶対に両想いっす! 保証するっす! だからアントンさんに会ってほしいっす!」
「あたしはなぁっ! もう帝国を滅ぼしてもいいと思ってんだよぉっ!」
「で、でもっ……! や、やばいっす、さすがにやばいっす……! ごふっ……!」
「レイラさん! もう、やめてくださいっ!」
恐らく苦悶の表情を浮かべているのだろうけれど、鎧のせいで見えないテレジアの後ろから。
また、別の声が、レイラを止めた。
そこにいたのは。
既に砦から帝都に帰ったはずの――アントン。
レイラの目が、見開く。
二度と来るなと、そう告げたのに。
二度と目の前に現れるなと、そう告げたのに。
何故、まだそこにいるのか――!
「アントン……てめぇっ!」
「レイラ、さん……!」
うぅっ、と。
そう、歯を軋ませながら。
アントンは、真剣な眼差しで、レイラを見据えて。
「僕は、あなたを愛しています!」
「嘘だっ!」
「僕を信じられないと、そう、言うなら……!」
アントンは、まるで抱擁するように。
その両手を広げて、無防備に、立った。
「どうか、僕を、殺してくれて構わないっ……!」
断罪を乞うように。
自殺志願者であるかのように。
レイラが拳を振り上げるだけで、すぐに死が訪れる位置に――いた。
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