第27話 絶望の底
戦場から砦に戻ってから、レイラは執務室の中へと引き篭もった。
毎日のように、ただ酒に溺れ、腹が減れば誰かを呼んで、厨房から食事を持ってこさせる、という暴虐を繰り返していた。執務室の中にあった酒瓶が、ほぼ空になるまでそれは続けられ、なくなれば銀狼騎士団の若い者を呼んで、買い出しに行かせた。
何も、やる気が起きない。
敵軍が攻めてきたとなれば、迎撃はする。だが、レイラ・カーリーがその場にいる以上、敵軍は攻めてこないのだ。せめてレイラが不在の間に砦を落としておこう、という考えだけで敵兵は出兵するのだから。
ゆえに、ただ酒に溺れるだけだ。
行き場のない気持ちを、ただ酩酊することだけで抑える。酒はいい。どんなに悩んでいても、それが嘘のように吹き飛ばしてくれるのだから。
テレジアの入室すらも禁止して、レイラはただただ引き篭もった。
「あのー、レイラさーん……?」
扉の向こうから、テレジアがそう呼ぶ声が聞こえる。
防音に優れたこの執務室であるが、レイラの人の域を越えた五感であれば、聞こえる程度の声音だ。そして、レイラが中でどれほど叫んだところで、外に届くことはない。
そして、レイラは。
そんなテレジアの呼ぶ声にも何も反応せず、ただ動かない扉を見続ける。
「そろそろ出てきてくださいよぉ。かなり書類溜まってんすよ。何があったかは知らないっすけど、これ以上滞ると色々とやばいんすよ……」
テレジアのそんな、割と必死な訴えにも、何一つ耳を貸さない。
ただ涙を流しながら、そんな涙の補充に酒を飲むだけの日々だ。カーテンの隙間から差し込む日差しが昼間だと教えてくれるだけで、時間の感覚すら全くない日々。
絶望に塗れた心は、何のやる気も引き起こしてくれないのだから――。
「ほら、レイラさん! 今日はアントンさんが来る日っすよ! いや、まぁ何があったのかは知らないっすけど、とりあえず仲直りしといた方がいいと思うんすよね!」
「……」
アントン、という言葉につい反応してしまう自分を、恨みたくすらなってしまう。
レイラの心の中で、ずっとちくちく刺さり続ける棘のように、アントンの存在がちらつく。そこにあったのが偽物の愛だと、嘘の言葉だと、そう改めて実感しては心が壊れそうになるのが分かった。
二度と、愛など信じない。
絶対に、男など愛さない。
裏切られた心はそうやって、闇と汚泥のような混沌に包まれる。
「あー、もう……あ、来たっぽいっす。ちょい出てきますんで、出てきてくださいよぉ」
「……!」
ぎりっ、と奥歯を噛みしめる。
ともすれば歯が砕けてしまうのではないかと、そう思えるほどの強さで。
会わない。
絶対に会わない。
絶対に、二度と、会うわけにはいかない。
会えば――殺したくなってくる。
男一人のために、何故ここまで心が動かされなければならないのか。
アントン・レイルノート。
レイラの心を奪い、占め、そして裏切った男。
どうして、こんなことになったのだろう。ただ盲目に、アントンのことを愛していると、そう思えばいいだけなのに。
全部が嘘だったと、そう知ってしまうと。
もう、そんな風に、純粋に愛せない――。
「あの、レイラさん……」
「……!」
「僕です。アントンです。あの……テレジアさんから聞いたのですけど」
アントンが、扉の向こうにいる。
そして、レイラに呼びかけてくれている。
どんな顔で、ここにやって来たのか。レイラを完全に裏切っておきながら、どの面を下げてここにいるのか。
震える体を、酒をさらに呷ることで抑える。
今、扉を開けば。
どれほど汚い言葉が、口から飛び出すのか――。
「あの……ほ、本当に、どうしたのですか……? 僕が何かをしたと言うのでしたら、謝りますけど……」
「……」
「できれば今日も、食事をご一緒したいと思っていたのですが……」
「……」
行きたい。
アントンと一緒の食事。幸せで蕩けてしまいそうな、あの至福の時間。本当に愛しているのだと実感できる、むず痒くてだけど愛おしい時間。
だが。
もう――そんな、純粋な目でアントンを見ることなど、できない。
「アントンさん、何をやったんすか……勘弁してくださいよ」
「いえ、僕も心当たりがないのですが……」
「こんなの初めてっすよ。アントンさんが原因だとしか考えられないっす。何したかは知らないっすけど、謝った方がいいっすよ」
「そう、でしょうか……?」
「……」
暗く、深く、淀む気持ちは闇のそれである。
執務室の前にアントンがいる――以前ならばきっと幸せいっぱいで迎えて、一緒に食事にでも行ったに違いあるまい。
だという、のに。
体は動いてくれず、ただ涙だけが流れる。
裏切られたのに。
そこに愛などなかったのに。
全部、愛の言葉など、嘘だったのに。
「……う、ぁ」
嗚咽が、止まらない。
そこにアントンがいるから、尚更止まらない。
膝を抱くように座り続け、顔を伏せてじっとしていることしかできない。ただひっく、ひっく、と止まらぬ嗚咽を繰り返しながら。
「あの……ぼ、僕が何をしたかは、よく分からないのですが……」
「……」
「何か……気に障ったことをしたのなら、申し訳ありません。せめて、その理由を、教えていただければと……僕は、レイラさんの、婚約者ですから」
「……」
理由など、決まっている。
だけれど、何故それが分からないのか。
レイラを裏切ったというのに。
レイラの心を弄んだというのに。
「……」
気付けば、立ち上がっていた。
ふらふらと、酩酊している体はろくなバランスを保てない。歩くことすら億劫で、目を開いていることすらも困難だ。
加えて、視界は涙で歪みながら。
ただ、それでも。
そこに――抑えきれないほどの、怒りがあった。
何故レイラがこれほど苦しんでいるというのに、その理由が分からないのか。
そして。
裏切っておいて。
まだレイラの婚約者であると、そう嘯くのか――!
「……」
がちゃり、と。
錠を開く。それだけで、強固な扉が動き、そのまま部屋の中に光が差す。厚いカーテンで光の遮られた部屋の中が、扉の向こうの光に照らされて――。
「レイラさ……」
「ふざ、けんなぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
そこに、目の前にいたアントンに。
そう、思い切り叫ぶ。振り上げ、腹を打ちそうな右腕を、左腕で必死に抑えながら。
殴りたくなってくるけれど。
殺したくなってくるけれど。
抑える。
必死に、抑える――。
「……え?」
「帰れっ! 二度とここに来るなっ! あたしの前に姿を現すんじゃねぇっ!」
「ど、どういう……え、レイラさん、泣いて……」
「あたしの名前を呼ぶんじゃねぇっ! この裏切り者がぁっ!」
「う、裏切り……?」
目を見開きながら、アントンが驚いているのが分かる。
ただ感情に任せて、そう拒絶を繰り返しているレイラに、意味が分からないとばかりに。
その背後にいるテレジアも、また同じく目をまん丸にしながら驚いていた。
「ど、どういう、こと……ですか……?」
「うるせぇっ! あたしは全部知ってんだよっ! てめぇがっ……皇帝の命令であたしと婚約したってなぁっ!」
「えっ……!」
「二度とここに来るなっ!!」
ばんっ、と扉を閉め、鍵をかける。
それだけで、強固な扉は本来の防御力を取り戻し、再び部屋の中に闇が満ちた。
はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、レイラは座り込む。
これで終わり。
これで終わりだ。
もうこれで、アントンとレイラは、二度と関わることなどない。
もう、二度と――。
「レイラさん! レイラさん! 開けてください! 僕は……!」
レイラは。
扉の向こうで必死に叩きながら、そうアントンが叫び続ける声から逃げるように。
耳を、塞いだ――。
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