仰げば尊し 〜僕はウルド様と過去へと跳んで、蝶々は未来へと飛ぶ〜
成井露丸
👨🎓
――仰げば尊し〜♪ 我が師の恩〜♪
校内放送で定番の卒業ソングが流れている。
皆が帰った教室外の廊下で、僕は学校の中庭を眺めていた。
「我が師の恩かぁ〜。そりゃ『尊い』けどなぁ〜」
窓から外に伸ばした指先で透明のシートに包まれたボンタンアメを摘む。
ボンタンアメはセイカ食品株式会社が販売する大正十三年生まれの駄菓子だ。阿久根産の文旦から抽出したエキスなどを原材料に作られる柑橘系のソフトキャンディ。
そんなどうでも良い知識を山川先生は教えてくれた。その飄々とした横顔を思い出す。宮沢賢治が嫌いで太宰治を心の友と呼ぶ、独特の感性を持った先生だった。なお容姿は小野小町で頭脳は紫式部だそうだ。
見下ろす中庭には春の訪れを告げるように蝶々が飛んでいる。
蝶たちにもそんな尊い先人――先蝶はいるんだろうか?
自分自身の未来を変える、そんな尊い存在が。そんなことを考える。
「――似合わないアンニュイさを醸し出しているな! 少年! いいぞ、それでこそ卒業式だ!」
「――え?」
気づけば知らぬ間に隣に綺羅びやかな袴姿の女性が立っていた。
でも肌は茶褐色で、髪の毛は銀色。
そして頭の上には蛍光灯みたいな光輪が浮かんでいる。
――何なのっ?
「あ、そうそう。聞かれる前に言うけどね。私は時と運命の女神――ウルドさまだよ。白井陽介くん。ご卒業おめでとうございますっ!」
「――あ……ありがとうございます」
やや呆然としたけれど、何だかその女性に落ち着いたペースを作られてしまった。
今日参列していたどんな保護者よりも艶やかな袴姿に唖然とさせられる。
でもそれよりも唖然とすべきは、宙に浮かぶ光輪。
そして彼女の言う「女神様」という自己紹介。
――何なのっ?
「……本当に女神さまなんですか? ――願いを叶えてくれるとか?」
「なかなか飲み込みが早いね。白井少年。――とは言っても私が君にしてあげられることは限られている。世界の摂理に反することは出来ないぞ。――例えば既に死んだ人を直接的に蘇らせるとかね?」
「それは――なんとなくわかります」
僕は中庭にあるベンチを見下ろす。そこに座る山川先生と僕の姿を見る。
高校一年生でクラスの中のいじめに巻き込まれて、その後、荒れた僕は学校で孤立した。そんな僕に生徒や教師の目も気にせずに寄り添ってくれたのが、山川先生だった。どんな空気にも不条理にも負けない超然とした振る舞い。独特のシニカルな笑顔。知らない間に彼女は僕の中の特別になって、引きこもり寸前まで堕ちかけていた僕は、学校の中で平静を取り戻した。彼女に担任を持って貰ったことは無かったけれど、高校時代の恩師がいるとすれば――それは山川美保先生だった。
でも高校二年生の冬、彼女は突然の交通事故で――逝った。
その不条理に僕は泣いた。でもひとしきり泣いて、僕は泣くことを止めた。
だってきっと山川先生はそんなことを望んでいないから。
だから僕は彼女の分まで生きようと誓ったのだ。
「――じゃあ、何をしてもらえるんですか?」
「うん。君を過去に連れて行ってあげよう。そこで君がやりたいことをやればいい」
「死んだ人を生き返らせることは――出来ないんですよね?」
「残念ながら」
「じゃあ、死んだ人がまだ生きていた頃に跳んで――その人に会うことは?」
「そういう願い事ならお安い御用さ。……跳ぶかい? 君が一番、卒業の喜びを報告したい人に会いに?」
そう言ってウルドさまは目を細めた。
僕は左手のボンタンアメの小箱を握りしめる。
「ええ。僕は多くを望みません。ただ『お世話になりました』って言えれば良いんです。それでボンタンアメでも一粒プレゼントしますよ」
「――安いな? おい? ……でもまぁ、それもありかな! じゃあ、行こうか少年!」
そう言うとウルド様は袴姿で両手のひらを窓の外へと突き出した。
その先から青い透明の球体が膨らみ始める。
もう一度見たいのだ。ボンタンアメを一粒口に放り込んで美味しそうに食べる山川先生の笑顔を。その笑顔で「卒業おめでとう」と言ってもらいたいのだ。
ただそれだけなのだ!
ウルド様の手のひらから生まれた光球はやがて僕らを包み込む。
「跳ぶよ、少年! 行き先は一年半前。まだ彼女が生きていた秋の中庭! ちょっと季節外れの卒業式のさよならを――彼女に告げに行こう!」
やがて世界は青に染まり、僕の意識はブラックアウトした。
――仰げば尊し。我が師の恩。
☆
「――どうしたの? 白井くん? 座らないの?」
「山川先生……?」
彼女がベンチに座っていた。一年間ずっと会いたかった僕の大切な先生が。
ベンチの後ろの茂みに蝶々が飛んでいた。パタパタと気忙しく羽を動かしながら。
「先生……ずっと会いたかったです……」
「ちょ……ちょっと白井くん、突然何? 神妙すぎるんだけど? 何、またいじめでもあった?」
相変わらずセンシティブなことをしれっと言う。
この空気を読まない力が懐かしい。
本当に世界は得難い人物を失った。僕は、失ったのだ。
「――ん? そういえば何だか雰囲気が違う? 何? 何かあった?」
流石に感受性も人並み外れている。山川先生なら分かってくれると思った。
「実は僕、未来から来たんです。一年半後の卒業式から?」
「え? 何言っているの? ってマジなの?」
僕は大きく頷く。これは信じてもらわないと始まらない。
普通の人間ならそんなこと絶対に信じることが出来ないだろう。
「そっかぁ。タイムリープかぁ〜。マジで存在するのかぁ〜」
――信じた。
「山川先生、信じてくれるんですか?」
「まぁねー。私の思考の柔軟性はガリレオにもアインシュタインにも負けないからね。あらゆる可能性を考慮に入れつつ、山川くんの言葉を信じるよ」
そう言って彼女は人差し指を立てて見せた。
その二人は柔軟というよりどこか頑固な気もするのだけれど。
「――それにその襟章、君が持っていないはずの三年生の物だし、明らかに風貌もどこか三年生然しているからね。今朝会った君とは違うもん」
山川先生はそう言うと、少し淋しげな表情を浮かべた。
「でも……そういうことかぁ〜」
「――そういうこと?」
彼女の思考についていけずに、僕は単純に首を傾げる。
「うん、そういうこと。つまり卒業式の日に一年半前の私に会いに来るってことは、その時、私は君のいた世界に――いないんでしょ?」
「――あ」
そういう風に見抜かれるとは思っていなかった。
でも推理されてしまうと、咄嗟に言い訳をして誤魔化すこともできなかった。
だから僕は黙って左手の小箱を開いた。
残り二つのボンタンアメ。その一つを彼女へと差し出す。
「先生。高校時代、お世話になったお礼です。いろいろありがとうございました」
「え? ……あ、ボンタンアメ。卒業式の日に先生に渡すお礼がボンタンアメ? ウケるね。――でも、ありがとう。ありがたく貰うね。私、ボンタンアメ好きだから」
彼女は笑いながらオレンジ色の直方体を受け取ると、それを口の中へと運んだ。
僕も残りの一つを自分の口へと放り込む。
彼女は無言でそれをくちゃくちゃと噛んで味わうと、しばらくして飲み込んだ。
しばらくして彼女は僕を見上げると、笑顔で言葉を紡ぎ始めた。
「――白井陽介くん。卒業おめでとう! 君がこの高校を巣立っても、この学舎での日々を通して得たことを、学んだことを大切に、人生を豊かに生き抜いてくれることを――切に願うよ!」
僕の恩師。そして僕が淡い恋心を抱いた年上の女性。
高校時代、闇に沈んだ僕を、救い出してくれた、人生の恩人。
絶対に死なないで欲しかった。大切だった人。大切な先生。
ただの卒業祝いの言葉なのに。彼女から発された言葉で、僕の目頭が熱くなる。
頬を涙が伝っていく。それを見上げる山川先生は――穏やかに笑んでいた。
「――先生。お世話になりました。それから――ずっと好きでしたっ!」
それは一番言いたかった言葉。卒業式の日に一番言いたかった言葉。
やがて世界が青く染まる。これでもう時間切れ。
女神の作る青い球体が僕を包んでいく。
そして僕の意識は――またフェードアウトした。
――仰げば尊し。我が師の恩。
☆
気づけばまた教室前の廊下だった。
ウルド様に連れられて過去に跳ぶ前の場所に戻っていた。
左右を見る。そこにはもう袴姿のウルド様は居なかった。
「――夢……だったのかな?」
そう思う。でもふと気になって、左手に持ってた小箱を開く。
その中にもうボンタンアメは一粒も無くて、空っぽだった。
その空箱が、さっきの出来事は夢じゃなかったんだ、と教えてくれる。
僕は山川先生から貰った言葉を噛みしめる。
卒業おめでとう。彼女から貰ったその言葉が、何よりも嬉しかった。
「さてと、……そろそろ行くかな」
外に出していた両手を引っ込めて、廊下の窓を閉める。
中庭のベンチを見下ろしていたこの場所とも、ようやくサヨナラだ。
僕は振り返り、廊下に立って、鞄を肩に掛け直す。
その時、少し先の廊下を歩く足音がした。
ふとその方向を振り返る。
向こう側から歩いてくる人の姿がある。
その姿を見て、僕は言葉を失った。
近くまで来て立ち止まると、彼女は腰に手を当ててシニカルな笑みを浮かべた。
「白井くん。今、過去から帰ってきたのかい? 一年半前の私は元気だった?」
「――山川先生!?」
それは卒業式に大人の女性が着るような上品なスーツに身を包んだ山川先生だった。――その時、頭の中で声が響いた。
『バタフライ効果。微かな過去改変が未来に大きな影響を与えることがある。まさかボンタンアメを一粒あげることが、彼女の命を救うことに繋がるとは、私も思わなかったけれどね! でも変わっちゃったものは仕方ない。――新しい世界線で、恩師のことを大切にするんだよ! 少年!』
そうして女神様の気配は完全にフェードアウトした。
目の前では山川美保先生が、僕を上目遣いで覗き込む。
「一年半前の告白の続きは――今、聞かせてもらえるのかな? 白井陽介くん?」
僕にとって一番「尊い」笑顔がそこにあった。
<了>
仰げば尊し 〜僕はウルド様と過去へと跳んで、蝶々は未来へと飛ぶ〜 成井露丸 @tsuyumaru_n
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